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プロローグ

0:あなたは一人じゃない

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 グツグツと煮立つ大きな釜があった。
 煙を吐き出す折れた煙突を眺める月は、どこか悲しそうな表情を浮かべている。

 外壁が崩れ、住むことができない建物が並ぶ中、揺り椅子に座る白いローブに身を包んだ一人の少女が煮立つ釜を見つめていた。
 ふと、響く足音が耳へ飛び込んでくる。
 振り返るとそこには美しい黒髪の男性がおり、物悲しげな顔をしていた。

「左腕、大丈夫か?」
「すっごく痛いかな。先生に食べられちゃったし」
「代償は大きい、か。だがおかげで、あいつらは理解してくれた。これからは君達の時代だ」

 その言葉は、少女に対して唯一の励ましであった。
 しかし、少女はあまり浮かない表情をする。

 大切な師を失い、大いなる力を失い、そして腕を失った。今の自分にできることはほとんどない。
 それでも、少女は立ち上がる。

「ねぇ、ダンダリオン。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
「君の願いなら叶えよう。何をすればいい?」

 少女は微笑み、お願いの内容を口にした。
 それを聞いた美しい黒髪の男性ダンダリオンは驚く。
 なぜならそれは、また世界を破滅へ追いやるかもしれない行為であったからだ。

「受けかねる。なぜそんなことを……」
「先生を一人にしないため、かな。それに、この分野は私のほうが先生より知識があるしね」

 イタズラめいた微笑みは、純粋な思いからくる優しい笑顔だった。
 それを見たダンダリオンはやれやれと頭を振り、肩を竦める。

 この師弟は死んでも反省しないな、と感じながら息を吐き出す。そして少女に、一つの忠告をし、確認した。

「本当にいいのか? またこんなことになるかもしれないぞ?」

 少女は微笑む。
 力強く、ただ優しく。そこには悲しみや絶望の色はない。
 まっすぐとした目で、ダンダリオンに確信を持って告げた。

「先生ならどうにかしてくれるよ。だって、私の先生だから」

 ダンダリオンは愚かだと感じたが同時に、それが美しく強いとも思えた。
 大きな過ち。取り返しのつかない失敗。おそらく厄災として語り継がれる伝説にもなる。

 しかし、弟子はそれでも師を信じた。だからこそ、ダンダリオンは呆れる。

「賢者の弟子は愚者か。いや、おひとよしと言えばいいだろうか」
「何をブツブツ言ってるの?」
「何でもないさ。いつ始める?」
「今お願い。そろそろ、限界みたいだし」

 ダンダリオンはその言葉を聞き、「わかった」とすぐに返事した。
 ゆっくり少女に近づき、頭に手を添える。

 優しく、撫でられている感覚だった。だからいつしか彼女の意識は闇へ溶け込んでいく。まるで夢でも見てるかのような、そんな心地いい感覚だ。

 このまま目を閉じて、眠りにつきたい。
 そんな願いを抱くと、すぐに意識が闇に飲み込まれた。気がつけば少女の意識は溶け、そして消える。

 魔法の存在が終わりを告げる時代。神々と精霊から人へ主役に変わる頃の出来事。

 誰もが知っている厄災の伝説の裏側で、一人の少女が、願いを、想いを、祈りを、一冊の本に託した。

 呪いによって姿が変わった師匠を、一人にしないために――
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