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第二章
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しおりを挟む「―――嫌にならないの?」
レーナは尋ねずにはいられなかった。
今日もヨアンは彼女をオペラの観劇に誘いに来た。
尽きない疑問に見えない答え。煮詰まる思考にさすがに気持ちは倦み、気分転換が必要なのかもしれないと、レーナは誘いを受けることにした。
なにか、得られるかもしれないと縋る思いもある。けれどそれは、レーナ自身も気付かない建前だった。
彼女は、ヨアンを求めていた。
ヨアンのそばで皆のようになにも考えずに笑っていたいと、疲れきった心がそうさせていた。
すべてを捨てて逃げてしまいたいという強烈な思い。
もう、いいのでは?
とにかく疲れていた。
膨らむばかりの危険な思いに振りまわされ過ぎていた。こんな思考などなくしてしまいたい。すべてを忘れられたら。
劇場へと向かう馬車の中で、彼女は向かいに座るヨアンに目をやった。今日の彼は深い夜空の色の上着を着ている。襟元の淡い白と綺麗に調和していた。その上にある端正な顔。透き通る肌。
ヨアンは知れば知るほど美しく、素敵な男性だった。彼を〝認識〟したのは三ヵ月前のことだけれど、三ヵ月という時間は、レーナにあらためて彼への愛を抱くのに充分な時間でもあった。
レーナは、自分の〝恋人〟に恋をしていた。
毎日通ってくれるヨアン。自分へと向けられるその〝愛〟に、打たれずにはいられない。彼の熱心な想いは、強くレーナを揺さぶっていた。
ヨアンを前にすると、悩みを抱くことの愚かしさを痛感する。もういいじゃないかと、彼の存在が訴えてくる。
ヨアンは、レーナになにも言わない。
莫迦なことを考えるんじゃない、もっと軽く考えていこう。友人や聖職者はうるさく言うのに、ヨアンはなにも言わず、当たり前のようにただそばにいてくれる。
彼は確実に、レーナの支えになっていた。―――同時に、足を引っ張る存在でもあった。
「ところで、さっき言ってた『嫌にならない?』って、なにが?」
「わたしに、こうして付き合ってくれることが」
レーナの支えになってくれるヨアン。けれど、そのヨアンに自分はなにもできない。なにも返せていない。迷惑をかけるばかり困らせてばかりで、そのことが気がかりでたまらなかった。
「どうして?」
「みんな言ってるでしょう? わたしが莫迦なことしてるって。別れるべきだって」
「まあね。でも、僕の君への想いはちっとも変わっちゃいない」
「でも、でも、他のひとたちみたいに遊びたいでしょう? 毎晩違う相手と踊ったりして、その……、楽しみたいって思うでしょ?」
(ヨアンを縛りつけてるんだもの。ヨアンの愛情に甘えきってるんだもの)
レーナが出かけないときは、ヨアンも出かけなかった。とても嬉しかったが、ロマン・トゥルダの住民としての思考を持つヨアンには、窮屈なはず。
が、ヨアンの表情は、なんでもないことのように変わらない。
「僕は別に。君と一緒にいられないのなら、誰といてもつまらない。それに新しい発見もあった」
ヨアンは悪戯めいた目をした。
「こうして久し振りにレーナと出かけると、いつも以上に胸が高揚する」
「ヨアン……」
そう言ってくれるのは嬉しかった。心がほっと安らぐ。
「でも、毎日一緒に出掛けてくれるにこしたことはないけどね」
「―――ごめん」
「謝るのはなしだよ。言ったろ? 僕は諦めたりしないって。どれだけ時間がかかったとしても、元の君に戻してみせるって」
時間がかかったとしても。
彼にとっては深い意味のない言葉でも、どうしてもレーナはくどいほどにいちいち引っかかってしまう。
時間。
(ロマン・トゥルダに時間は本当に流れてるって言えるのかしら。毎日同じことを繰り返してるだけじゃない。それとも……、時間の流れがないから、飽きることもないとか?)
レーナはもちろん己の疑念を口にはしなかった。判ってもらえないのだから。
この三ヵ月、訴え続けてもなにも判ってもらえなかった。誰ひとりとして、レーナの言葉が意味あるものだと認識すらしてくれない。
訴えたぶん、みじめになるだけ。
そう、学んでしまった。
「―――うん」
だからレーナは小さく頷き、苦い胸の内を隠して窓の外に視線をやった。
暗い夜道に街燈の光が流れてゆく。
石畳を音を立てて走る馬車。ずっと先のほうに、眩しい明かりが見えた。
ヴァクレスク劇場だ。
夜空を持ち上げる高い建物。その威容はまるで不夜城だ。窓から漏れる光で、いっそう不気味さが増している。
この劇場はロマン・トゥルダの人々の象徴。ただ快楽にふけるだけの場所。それだけのために設けられた娯楽施設。
―――愚かな。
(なんて愚かしいのかしら)
その快楽の場にまさに向かっている自分自身もだ。
こんなことをしていてもいいのだろうか。
一瞬一瞬が過ぎるごと、なにかをこぼし、失っている気がする。
ヨアンとともにいたいがために、目的もなく快楽の場へと赴こうとしている自分。
何故人々はここに集うのだろう。快楽とは? ロマン・トゥルダの人々が追い求める快楽というものに、目的はあるのか。
(夜になるのを待って開かれるオペラ。何故、夜でなければならないの?)
ひとはなんのために観劇するのか。オペラを観て、ひとはなにを思うのだろう。
これが終われば、決められたように彼らは今宵のパートナーと朝までを過ごす。どれだけのひとが、今日このオペラの内容を覚えているのだろうか。
それとも、そもそもこれはひとの記憶に残らないものなのだろうか。
同じ毎日を繰り返すためにただ決められて……?
―――誰に?
「レーナ」
どんどん深みにはまってゆく思考を引き上げたのは、正面に座るヨアンの声だった。ふと目を返すと、ヨアンは真面目な顔つきでレーナを見つめている。
「せめて、こうして僕と一緒にいるときは、僕のことだけを考えて。世界がどうとか、ロマン・トゥルダがなんであるとか、そういうのは横に置いて欲しいんだ」
「あ……」
今日ヨアンと出かける気になったのは、息抜きのためだったのに。なのに気付けばいつもの思考に沈んでしまった。
「僕のことを考えるゆとりは、持っていて欲しいんだ。寂しいだろ、そんなの」
「ごめんなさい……」
ヨアンはふっと口元をほころばせた。
「君はなんだか、謝ってばかりだね。図星って、ことなのかな」
「そんな意味じゃ」
「いい。判ってる。ちょっといじわる言ってみたくなっただけさ。ずっと、辛い顔をしてるから、そんなレーナを見るのは、正直辛いんだ、僕も」
「―――ん」
「だからさ、今日くらいはなにもかも忘れて、純粋に楽しもう? 僕らはロマン・トゥルダ一、愛し合う恋人同士。だろ?」
「ええ。そうよね。そうだわ」
自分が変わってしまったという自覚はある。けれど、これだけはいままでと変わってないものがある。
ヨアンへの愛だ。
むしろ、いままで以上に彼を愛しく感じている。
馬車が、小さな揺れとともに止まる。
「さてと」
ヨアンはもったいぶった口調になる。
「姫君。皆の称賛を浴びにでも行きますか」
おどける彼。いつものヨアンだ。レーナの胸も躍る。
「ええ」
馬車の扉が開かれる。
先に降りたヨアンから、すっと手が差し伸べられた。自然に、ごく当たり前のようにその手を取るレーナ。懐かしい興奮が、胸の奥底から湧き起ってきた。
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