血蝕の月華~春夏秋冬~

月見こだま

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序章

鳴らないはずの電話

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 六月の長雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。湿った空気は重く、気分すらも落ち込ませる。マンションの最上階、最奥のキッチンから見える窓にも、絶え間なく雨筋が描かれては消えていく。幾筋も幾筋も、窓を叩いては落ちていくそれを見ていると、電子ケトルが甲高い音を立てた。湯が沸いたのだ。
 マグカップを二つ取り出し、インスタントコーヒーの袋を二つ取り出した。いつも世話を焼いてくれる同居人に、たまには自分が淹れようと思ったのだが。

「あ」

 伊瀬谷朔夜いせたにさくやは、素っ頓狂な声を上げた。袋を破ったはいいものの、盛大に手元を滑らせた。シンクに茶色い粒子がざらざらと無惨に散らばり、フローリングの床にまで落ちて広がっていく。
 それを見た同居人が、慌てて飛んでくる。

「あーあー、もう。大人しく俺に任せとけばええのに、ほんまサクは不器用やなぁ」

 聞こえてきたのは、呆れを隠しきれない相棒の声。岩佐朧唯いわさるいが濡れ布巾を片手にひょこりと顔を出す。赤銅色の髪と、大きな丸い瞳。日の光を知らないかのような白い左頬に走る二本の大きな傷跡がなければ、その人懐っこい顔立ちは少女のように愛らしい。

「あとは俺がやるからサクは座って待っといてや」

 文句を言いながらも、手際よく片付けていく。朧唯は散らばった粉を綺麗に拭き取ると、マグカップを洗い、綺麗に水滴を拭いてから自分の分と合わせて二杯のコーヒーを淹れていく。朔夜のカップには、ミルクを多めに、自分自身には砂糖とミルクをたっぷりと入れて。

「……今日は調子いいと思ってたんだけどな」
「勘違いや、それ」

 差し出されたマグカップを、朔夜はぶっきらぼうに受け取った。礼は言わない。それが当たり前のことだったから。温かい液体を一口飲むと、ミルクの甘さがじんわりと体に染みた。
 だが、その甘さも雨音にかき消される。不意に、脳裏を鋭い痛みがよぎる。 ――雨、血の匂い、アスファルトに倒れる人影。そして、自分を庇うように広げられた、双子の兄の背中。一瞬見えた笑顔は、いつまで経っても焼き付いたまま消えてくれない。

「……っ」

 朔夜はぎゅっと唇を噛み締めた。記憶を振り払うように、無言でコーヒーをあおる。眉間に刻まれた深い皺に、朧唯は気づいていた。だが、彼は何も言わずにミルクコーヒーを飲む。今さら、言葉にしようもない。同じ痛みを共有しているのだから。

 その日常を切り裂いたのは、鳴るはずのない電子音だった。

 ――♪~

 甲高い着信音が、雨音に混じって室内に響き渡る。朔夜と朧唯は、弾かれたように顔を見合わせた。
 自分たちのものではない。着信音が違う。――そして、音の出どころ。
 その音は、朔夜の兄の――伊勢谷朋夜いせたにともやの寝室から聞こえてきた。
 朔夜より、朧唯の方が早かった。閉め切られていた部屋を開け放ち、朋夜が生活していたまま残された部屋。その、机の上で。数ヶ月前に解約したはずの、充電すらしていなかった端末が、着信を知らせている。
 朧唯が息を飲む音が聞こえる。 朔夜はゆっくりと立ち上がり、フラフラと部屋の前に行く。

(――どうして)

 朧唯は確認するように、朔夜を見る。ガタガタと震え続ける端末。
 ディスプレイに浮かび上がっていた名前は、春夏秋冬麗ひととせれい。 朋夜のクラスメイトだった少年だ、と朔夜は思い出す。

 朔夜は、それに触れる。――鳴り続ける着信音。まるで、朋夜が出ろと言っているようだった。
 覚悟を決め、スライドする。湿った、ほこりのにおいがする部屋に、電話の向こうの音が流れ込んできた。

『……もしもし、朋夜……? やっと、通じた……!』

 雨音に混じって聞こえてきたのは、必死に嗚咽をこらえ、絞り出すような少年の声だった。

『助けて……。このままじゃ、俺はゆうを、兄を――殺してしまう』


 『朋夜』、『兄』、という言葉に、朔夜の喉がひゅう、と鳴った。

 その電話は、

 新たな絶望のはじまりだった。
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