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第二章
十八話
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菜佳から刺される視線が痛い。橙司は畳の上で縮こまって正座する。隣の菜佳は呆れたようにため息をついていた。
目の前では曽磨がケラケラと笑っている。
「橙司、お前が買ってやった物だったのか」
「菜佳さんが気になっていた懐中時計を俺が黙って買って……」
橙司の語尾は萎んでいく。
曽磨はそれだけで察しがついたようで。顎を撫でながら「なるほどな」と懐中時計を見つめていた。
「それを手に取ったとは目が良い。無駄に凝りすぎた安物ではないし。シンプルなデザインは“デルタ”の懐中時計だろ。その算用数字の形はデルタ独自なんだ」
菜佳に説明する曽磨だったが、当の本人は懐中時計を手に取りながら首を傾げていた。
「菜佳さん、どうしてそれを選んだのですか。他にも懐中時計はたくさんありましたし。洒落た蓋付きも置いてましたよね」
女性が選ぶにしてもシンプルだと橙司は思ったのだ。
「それは……」
菜佳は手の平の懐中時計を握り、頬を染めている。
「ちょ、直感です!目に入ったものを手に取っただけで……まさか買ってくださるとは思わず……」
時計屋へ連れて行ったのは橙司だが、その懐中時計を手にした菜佳は「ただ手に取っていただけ」とは思えなかった。しっかりと文字盤と針を目に焼き付け、微かに微笑んでいたのだ。愛おしいものを見つめるような──犬や猫を見つけて愛でるような。
それを橙司は「惚れている」と思い、菜佳に贈るため言わずに買ったのだ。
ここで菜佳が恥ずかしげにしている理由はわからなかったが。けれど大切にしてくれている。それだけでも買った甲斐があったというもの。
橙司は冷えた麦茶のグラスを菜佳へ渡す。
「暑いでしょう。菜佳さんも飲まれて下さい」
「……いただきます」
頬を紅潮させたまま菜佳は麦茶を飲む。ほっとしたような顔をし、少しだけ落ち着いたようだ。
「懐中時計の件はこれ以上咎めませんが。大金を使う際は相談されて下さいね」
「はい、申し訳ない……」
橙司が菜佳に言えることはこれ以上になかった。
「その様子だと、夫婦仲は心配なさそうだな」
茶化すように曽磨が言い、二人して顔を赤らめた。
「仕事の方はどうなんだ。上手くいってるか」
曽磨に問われ橙司は菜佳へ視線をやる。彼女はこちらに目を合わせると、橙司が話すのを待っているようだった。
「わたしの顔を見なくても……」と困ったように菜佳が言う。
橙司は頭を掻きながら、自らの仕事を振り返る。
「仕事は、どうだろう……今は薬棚の整理や帳簿付けをしているが。ここの丁稚や手代のほうが俺より良い仕事をしてると思う」
「それはそうでしょう。大助さんと茂松さんはもう十年と働いているんですよ。それで仕事ができない方が困ります」
菜佳が間髪入れずに言い切った。橙司は何も言えず黙ってしまう。
それから菜佳は曽磨へ顔を向ける。
「烏尾さま。橙司さまは仕事を丁寧にして下さります。そして目と鼻が効くので、生薬の質を見分けることに長けておいでです。わたしでは分からぬ細部まで、微かな違いにも敏感でして。緻密な粗悪品を見抜くというのは心強いものです。それに、わたしだけでなく、父も働き手も皆、橙司さまを矢尾板堂の人間として受け入れております」
菜佳は背筋を伸ばし、真っ直ぐな瞳で曽磨に語ったのだ。迷いもない意志の強い瞳だった。
(菜佳さん、貴方という人は……)
どうしてそうも強いのだろう。
「ただ──」と菜佳の視線が橙司へ向く。
「お客様の対応には難しいかもしれません。女性は話を聞かずに橙司さまのお顔ばかり魅入っておりますから。面でも着けさせて店に立たせねばいけませんね」
目を細め、いたずらっぽく口角をあげていた。
橙司は視線を外し、何もない畳の上を見つめる。その耳の先は微かに赤い。
「こりゃあ、犬も食わねぇな」
曽磨がけらけら笑う声が響いた。
*****
矢尾板堂の前。菜佳と橙司は曽磨を見送る。
「出会い頭は失礼しました。また矢尾板堂へお越しください」
丁寧に菜佳が頭を下げれば、曽磨は口角を上げる。
「いいや、橙司と付き合っていくなら、これくらい気が強い方がいい」
菜佳は微笑むが、心は些か穏やかではない。
(わたしって、気が強い嫁にみえるのね……)
褒められていると受け取るが良いのか、悲しむべきなのか。少しばかり複雑であった。
商店街を黒ずくめの大男が歩いていく。小さくなるその背中を二人で眺めていた。
「……さて、戻ろうか」
菜佳は頷き、橙司の後をゆく。
暖簾をくぐる前。何気なく商店街の道へ視線を向けた。黒い背中は消え去り。烏が飛び立った後のようだった。
目の前では曽磨がケラケラと笑っている。
「橙司、お前が買ってやった物だったのか」
「菜佳さんが気になっていた懐中時計を俺が黙って買って……」
橙司の語尾は萎んでいく。
曽磨はそれだけで察しがついたようで。顎を撫でながら「なるほどな」と懐中時計を見つめていた。
「それを手に取ったとは目が良い。無駄に凝りすぎた安物ではないし。シンプルなデザインは“デルタ”の懐中時計だろ。その算用数字の形はデルタ独自なんだ」
菜佳に説明する曽磨だったが、当の本人は懐中時計を手に取りながら首を傾げていた。
「菜佳さん、どうしてそれを選んだのですか。他にも懐中時計はたくさんありましたし。洒落た蓋付きも置いてましたよね」
女性が選ぶにしてもシンプルだと橙司は思ったのだ。
「それは……」
菜佳は手の平の懐中時計を握り、頬を染めている。
「ちょ、直感です!目に入ったものを手に取っただけで……まさか買ってくださるとは思わず……」
時計屋へ連れて行ったのは橙司だが、その懐中時計を手にした菜佳は「ただ手に取っていただけ」とは思えなかった。しっかりと文字盤と針を目に焼き付け、微かに微笑んでいたのだ。愛おしいものを見つめるような──犬や猫を見つけて愛でるような。
それを橙司は「惚れている」と思い、菜佳に贈るため言わずに買ったのだ。
ここで菜佳が恥ずかしげにしている理由はわからなかったが。けれど大切にしてくれている。それだけでも買った甲斐があったというもの。
橙司は冷えた麦茶のグラスを菜佳へ渡す。
「暑いでしょう。菜佳さんも飲まれて下さい」
「……いただきます」
頬を紅潮させたまま菜佳は麦茶を飲む。ほっとしたような顔をし、少しだけ落ち着いたようだ。
「懐中時計の件はこれ以上咎めませんが。大金を使う際は相談されて下さいね」
「はい、申し訳ない……」
橙司が菜佳に言えることはこれ以上になかった。
「その様子だと、夫婦仲は心配なさそうだな」
茶化すように曽磨が言い、二人して顔を赤らめた。
「仕事の方はどうなんだ。上手くいってるか」
曽磨に問われ橙司は菜佳へ視線をやる。彼女はこちらに目を合わせると、橙司が話すのを待っているようだった。
「わたしの顔を見なくても……」と困ったように菜佳が言う。
橙司は頭を掻きながら、自らの仕事を振り返る。
「仕事は、どうだろう……今は薬棚の整理や帳簿付けをしているが。ここの丁稚や手代のほうが俺より良い仕事をしてると思う」
「それはそうでしょう。大助さんと茂松さんはもう十年と働いているんですよ。それで仕事ができない方が困ります」
菜佳が間髪入れずに言い切った。橙司は何も言えず黙ってしまう。
それから菜佳は曽磨へ顔を向ける。
「烏尾さま。橙司さまは仕事を丁寧にして下さります。そして目と鼻が効くので、生薬の質を見分けることに長けておいでです。わたしでは分からぬ細部まで、微かな違いにも敏感でして。緻密な粗悪品を見抜くというのは心強いものです。それに、わたしだけでなく、父も働き手も皆、橙司さまを矢尾板堂の人間として受け入れております」
菜佳は背筋を伸ばし、真っ直ぐな瞳で曽磨に語ったのだ。迷いもない意志の強い瞳だった。
(菜佳さん、貴方という人は……)
どうしてそうも強いのだろう。
「ただ──」と菜佳の視線が橙司へ向く。
「お客様の対応には難しいかもしれません。女性は話を聞かずに橙司さまのお顔ばかり魅入っておりますから。面でも着けさせて店に立たせねばいけませんね」
目を細め、いたずらっぽく口角をあげていた。
橙司は視線を外し、何もない畳の上を見つめる。その耳の先は微かに赤い。
「こりゃあ、犬も食わねぇな」
曽磨がけらけら笑う声が響いた。
*****
矢尾板堂の前。菜佳と橙司は曽磨を見送る。
「出会い頭は失礼しました。また矢尾板堂へお越しください」
丁寧に菜佳が頭を下げれば、曽磨は口角を上げる。
「いいや、橙司と付き合っていくなら、これくらい気が強い方がいい」
菜佳は微笑むが、心は些か穏やかではない。
(わたしって、気が強い嫁にみえるのね……)
褒められていると受け取るが良いのか、悲しむべきなのか。少しばかり複雑であった。
商店街を黒ずくめの大男が歩いていく。小さくなるその背中を二人で眺めていた。
「……さて、戻ろうか」
菜佳は頷き、橙司の後をゆく。
暖簾をくぐる前。何気なく商店街の道へ視線を向けた。黒い背中は消え去り。烏が飛び立った後のようだった。
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