恋を煎じて、愛を呑む。

あぐつ

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第三章

二十九話

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 矢尾板堂は江戸から続く老舗の漢方屋。父の勇も先代である祖父から店を引き継いだ。
 仕事に実直な父。それを支える母。
 菜佳はそんな両親の背中を見て育ってきたのだ。
 自分が大切にしたいもの、守りたいもの。その全ては矢尾板堂にある。

(けれど──)

 菜佳は視線を橙司へ向けた。
 手首を握る手は強く。真っ直ぐに菜佳の返事を待っている。

「……橙司さまをお慕いしております。この心は移ろうものでは御座いません。でも……わたしは、あなたを矢尾板堂の跡取りと見ても、夫とは見れていませんでした」

 菜佳なりの誠意の言葉だった。
 橙司の表情はあからさまに曇っていく。手首から手を離し、ゆっくりと腕を下げた。

「橙司さまに非はありません。わたしが未熟な妻なのです」

 互いに目を合わすことはなく、深い沈黙に包まれる。秋の乾いた空気を肌で感じていた。


 長いようで短い沈黙を破ったのは橙司だ。

「以前、菜佳さんは『夫婦とはなにか』とぼやいたことがあったでしょう」
「はい……川沿いを歩いていた日ですね」

 菜佳の声はか細い。
 あれは覚えている。朝方に橙司の腕に包まれ目を覚ました日のことだ。
 菜佳は『夫婦とはなにか』と自問を続けたが、答えは見つからなかった。

「俺が思うに、その答えはひとつではない。どのような形であっても、互いが満足していれば良いのだと思います。人の人生が多種多様なように、夫婦の人生も多様なのではないですか」

 語る声は穏やかだった。説教をするでもなく、言い聞かせようとしているわけでもない。

「うちの両親は、一見すると冷めた夫婦に見えましたが、愛情深い二人なのでしょう。俺は才がなく『なにもするな』と言われ、家業の手伝いすらさせてもらえませんでした。いま思えば、それも親なりの俺への気遣いだったのでしょう。矢尾板へ婿入りを願い込んだのも、白嵜の家業以外に生きる道を与えてくれたのだと思います」

 そう語るも、どこか悲しげな表現の橙司へ、菜佳は眉間に皺を寄せた。

「本当に、そうお思いですか?」
「矢尾板に婿入りして恨んだことはありません。ここの皆さんは温かく、俺を受け入れてくれている。菜佳さんの夫になれたことも、嬉しく思っているのですよ」

 菜佳は僅かに目を見開いた。頬が紅潮する。
 膝の上においた両手を取られ、橙司の大きな手に優しく包まれた。それから膝をつきあい、菜佳に微笑むのだ。

「夫婦とは『どうあるべきか』ではなく、『どうありたいか』と考えませんか」
「どうありたいか……?」

 夫婦という形を世間の枠に当て嵌めるのではなく、自ら形つくっていこうというのか。
 見たこともない道が見えた気がした。

「いずれ跡継ぎとして立派になり、菜佳さんに負けないくらい商人の魂を持つつもりです。そして俺はあなたの隣に立ちたい。手を握り、隣に並び歩いた日のように。それが俺の、ありたい夫婦です」

「だから」と橙司は菜佳の頬を撫でる。

「あなたには、俺の隣で歩いてほしい」

 指先が触れる頬が熱を帯び始める。琥珀の瞳から目を逸らせないでいた。
 菜佳が拒むつもりはないと悟ると、橙司の顔が近づく。
 自然と目を閉じ、彼の口づけを受けいれた。着流しをきゅっと握りしめ、橙司に委ねていた。いつもより、ほんの少し長い口づけだ。
 名残惜しくも唇が離れれば、菜佳は正座のまま後ろへ下がり、畳に指先をつける。

「ふつつかな妻で御座いますが、矢尾板菜佳を末永く宜しくお願いいたします」

 高鳴る胸を抑えられず、指先は微かに震えている。
 橙司も姿勢を正すと指先を畳へつく。

「ふつつかな夫ではありますが、白嵜橙司改め矢尾板橙司を末永く宜しくお願いいたします」

 橙司の穏やかな目と合えば、菜佳の心にじんわりと灯火が灯る。その灯火が消えてしまわぬよう、大切に灯し続けようと決意していた。
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