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2話 新しい日常。
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温室から出て中庭の広場に向かうと、見覚えの無い少年が子供等の相手をしている。
「爽(そう)、ちょっといいですか?」
彼女の呼びかけに応じた彼は一瞬顔をほころばせたが、僕を見て即座に警戒の色を強めた。短髪に赤毛の少年はやや目付きが鋭い。
「この子は蛭ヶ谷爽(ひるがや そう)八歳です。はい、ご挨拶してください」
小鳥遊さんの先導の元、爽は小さく頭を下げた。僕も「どうも」とだけ言ってその場が沈黙に包まれる。
「こーら、ちゃんと愛想良くしなさい。挨拶は大切ですよ」
窘められ頭を撫でられた彼は気恥ずかしそうに顔を伏せる。そして何も言わずに走り去っていく。
「日野さんごめんなさい。あの子は少し大人の男の人が苦手みたいで」
「ううん、全然、大丈夫」
あのくらいの少年にとって僕はもう大人に見えるのか。小学校低学年の頃は中学生がとんでもなく大人に感じたのと同じだろう。でも小鳥遊さんには懐いている様子だ。
まぁ、彼女の事を苦手に思う人間などいるのかが怪しいが、容姿が整っている上に腰の低さと言うか丁寧さ、これだけでも十分に他者の信頼を置くに相応しい要素である。
「日野さん? あの先ほどから私の顔を見て、どうなさいました?」
いけない、またやってしまった……。思考に集中しすぎてこうなるのは直さねばならない。
「あぁ~、その、お姉さんっぽいなって」
「なるほど、そうですか。日野さんも私の事はお姉さんと思っていいですよ」
微笑む彼女だが、歳はそんな離れて無いと思うけど、しかも小鳥遊さんの方が年下に見える。ただ女性に年齢を尋ねるのはマナー違反だとか聞いた事あるし……。
「私は……今年十九になります」
完全に年上だった。
「一つ上なん、です、ね」
さっきまで普通に敬語を欠いていた事を今になって焦ってきた。けど彼女は楽しそうに笑う。
「別にここでは堅苦しい言葉を使う必要はありませんよ。私は夕姉さんに感化されてこういう話し方なので、普通に言葉は崩して頂いた方が助かります」
彼女の生真面目さからすると幾らか説得力は無いが、まぁ、でも本人が言うなら良いのか?
「はい、じゃなくて、うん、そうする……。なんか年上と分かると難しい」
「じゃあ、本当にお姉さんと思ってください。姉弟ならばおかしい事は無いでしょう?」
なんだか無理矢理そっちの方面に持って行かれてる気がして僕は冷静になった。
「最初は友達が良いんだけど……」
今日初めて会った筈なのに、ここまで気を許している事に僕は躊躇した。思わず何でも打ち明けてしまいそうになるあの瞳、まだこの人の事を知らないのに、それに流されるのは良くない。
「はい、それでも構いませんよ。ごめんなさい。私も同年代の人は久しぶりなので、つい浮かれちゃいました」
「君の他に同年代はいないの?」
小鳥遊さんは少し声に詰まっていた。僅かに開いた口から漏れたのは小さく掠れた声だった。
「いました」
その声を反芻する。いたと言うのは、つまり今はいないという意味合いだろうか。今は何処かへ行ってしまったのだろうか?
「あの、大丈夫?」
ふと僕の声に今度は彼女が我に返る。
「すみません、人の事言えませんね。ぼーっとしちゃって、今度私と同い年の方を紹介しますね。今は、まだ寝てるから」
行きましょう、と彼女は言い食堂の方へ向かう。これから昼食らしい。学校の教室位の広さがある食堂には長テーブルと人数分の丸椅子が据えられていた。
雰囲気は僕の通っていた高校の食堂と大差なく、壁の掲示物に『お残し厳禁!』と丸い文字で書かれてある位の違いしかなかった。何処に座るか決めあぐねている内にも脇をすり抜けて子供達が徐々に着席する。
年齢層が低いと随分にぎやかだ。そこにはシスターマーガレットと夕さんの姿もある。そして、いつの間に帰ったのか叔母の姿は無かった。
「廻さん、こちらに」
シスターマーガレットは僕を呼び寄せる。歳の割にしっかりと張った背筋はやはり威厳を感じさせる。
「皆さん、静かに、今日からこちらの家族になる。日野廻さんの紹介です。では、出番ですよ」
背中を叩かれた僕は沈黙の中頭を掻いた。
「ええぇ、と、日野廻です。これから、そのよろしくお願いします」
当たり障りのない挨拶に子供達は疑問を口にする。
「何ができるのー?」
わくわくとした顔つきで何かを待っているようだが、生憎僕には特に能力は無い。強いて言えば……。
「弓道部、だったけど……」
これは皆の求めている答えじゃないよな。やはりと言うか、皆首を傾げている。
「皆さん、廻さんはギフテッドではありません、ですが彼も皆さんと同様にここで療養する身です。変わりなく接してください」
彼女は決して仲良くとはそういうニュアンスで諭しはしなかった。寧ろ、そう言うのは当たり前だからこそ、敢えて言わなかったのだろう。僕もなんだかそう言った同調は得意でない為安心した。
気まずい時間が過ぎシスターマーガレットは食事前の祈りを捧げる。それに範唱して子供達も拙い祈りを繰り返した。
今日のメニューはカレーらしい。まぁ普通のインスタントのルーを溶かしたカレーだった。食事の後、夕さんは皆を教室に集めて年齢別の問題集を配る。
小鳥遊さんの話だと彼女は高校までの教員免許を持っているとの事で、施設の中であっても勉学は可能なのだという。
僕は勿論高校向けの課題をこなすが、実の所、高校生活に馴染めず中退した身で勉強にどう向き合って良いものか頬杖を付いた。
ここに来るきっかけとなった事柄においても、この事実が引き合いに出される問題なのだが、今は何かしらの言い訳をこしらえる為に目の前の難題に集中した。
「どこが分からないのですか?」
隣の席の小鳥遊さんが顔を覗かせる。生物の科目だ。ちょうど植物の範囲で、彼女は得意げに解説している。植物ホルモンの性質みたいな事を延々と説かれた。彼女の声はまるで子守歌のようでついうとうとしてしまう。
「こーら! ――居眠りはダメです、よ……」
頬を突かれて目を覚ました僕は、彼女の思い掛けない顔色に戸惑う。
彼女は一体誰に向けて言ったのだろう。上手くは聞き取れなかったが、確かにそれは親しい者に向けた言葉で、その声は優しかった。
だから今そんな青白い顔をしている事がなんとも矛盾を孕んでいるように思えた。
「小鳥遊さん? 今のは?」
心がブレーキを掛けろと命じている気がする。知りたくない事実を、今この場で耳にする事に対する純粋な危惧、そのように状況を否定する何かとは裏腹に言葉は正直だった。
「なんでもありません……、つい昔の知り合いが出てきたのです。さぁ、勉強に戻りましょうかすよ」
僕は何だかはぐらかされたのが随分と、気に入らなく感じた。いや、普通に考えれば、僕等の関係とはつい最近始まった、所謂気の置けない存在には到底及ばず、包み隠す事は往々にしてそうあるべきなのである。
でも、なんか引っ掛かるよなぁ……。
この心臓を半捻りかされるような違和感は暫時、僕の中に残っていた。
「爽(そう)、ちょっといいですか?」
彼女の呼びかけに応じた彼は一瞬顔をほころばせたが、僕を見て即座に警戒の色を強めた。短髪に赤毛の少年はやや目付きが鋭い。
「この子は蛭ヶ谷爽(ひるがや そう)八歳です。はい、ご挨拶してください」
小鳥遊さんの先導の元、爽は小さく頭を下げた。僕も「どうも」とだけ言ってその場が沈黙に包まれる。
「こーら、ちゃんと愛想良くしなさい。挨拶は大切ですよ」
窘められ頭を撫でられた彼は気恥ずかしそうに顔を伏せる。そして何も言わずに走り去っていく。
「日野さんごめんなさい。あの子は少し大人の男の人が苦手みたいで」
「ううん、全然、大丈夫」
あのくらいの少年にとって僕はもう大人に見えるのか。小学校低学年の頃は中学生がとんでもなく大人に感じたのと同じだろう。でも小鳥遊さんには懐いている様子だ。
まぁ、彼女の事を苦手に思う人間などいるのかが怪しいが、容姿が整っている上に腰の低さと言うか丁寧さ、これだけでも十分に他者の信頼を置くに相応しい要素である。
「日野さん? あの先ほどから私の顔を見て、どうなさいました?」
いけない、またやってしまった……。思考に集中しすぎてこうなるのは直さねばならない。
「あぁ~、その、お姉さんっぽいなって」
「なるほど、そうですか。日野さんも私の事はお姉さんと思っていいですよ」
微笑む彼女だが、歳はそんな離れて無いと思うけど、しかも小鳥遊さんの方が年下に見える。ただ女性に年齢を尋ねるのはマナー違反だとか聞いた事あるし……。
「私は……今年十九になります」
完全に年上だった。
「一つ上なん、です、ね」
さっきまで普通に敬語を欠いていた事を今になって焦ってきた。けど彼女は楽しそうに笑う。
「別にここでは堅苦しい言葉を使う必要はありませんよ。私は夕姉さんに感化されてこういう話し方なので、普通に言葉は崩して頂いた方が助かります」
彼女の生真面目さからすると幾らか説得力は無いが、まぁ、でも本人が言うなら良いのか?
「はい、じゃなくて、うん、そうする……。なんか年上と分かると難しい」
「じゃあ、本当にお姉さんと思ってください。姉弟ならばおかしい事は無いでしょう?」
なんだか無理矢理そっちの方面に持って行かれてる気がして僕は冷静になった。
「最初は友達が良いんだけど……」
今日初めて会った筈なのに、ここまで気を許している事に僕は躊躇した。思わず何でも打ち明けてしまいそうになるあの瞳、まだこの人の事を知らないのに、それに流されるのは良くない。
「はい、それでも構いませんよ。ごめんなさい。私も同年代の人は久しぶりなので、つい浮かれちゃいました」
「君の他に同年代はいないの?」
小鳥遊さんは少し声に詰まっていた。僅かに開いた口から漏れたのは小さく掠れた声だった。
「いました」
その声を反芻する。いたと言うのは、つまり今はいないという意味合いだろうか。今は何処かへ行ってしまったのだろうか?
「あの、大丈夫?」
ふと僕の声に今度は彼女が我に返る。
「すみません、人の事言えませんね。ぼーっとしちゃって、今度私と同い年の方を紹介しますね。今は、まだ寝てるから」
行きましょう、と彼女は言い食堂の方へ向かう。これから昼食らしい。学校の教室位の広さがある食堂には長テーブルと人数分の丸椅子が据えられていた。
雰囲気は僕の通っていた高校の食堂と大差なく、壁の掲示物に『お残し厳禁!』と丸い文字で書かれてある位の違いしかなかった。何処に座るか決めあぐねている内にも脇をすり抜けて子供達が徐々に着席する。
年齢層が低いと随分にぎやかだ。そこにはシスターマーガレットと夕さんの姿もある。そして、いつの間に帰ったのか叔母の姿は無かった。
「廻さん、こちらに」
シスターマーガレットは僕を呼び寄せる。歳の割にしっかりと張った背筋はやはり威厳を感じさせる。
「皆さん、静かに、今日からこちらの家族になる。日野廻さんの紹介です。では、出番ですよ」
背中を叩かれた僕は沈黙の中頭を掻いた。
「ええぇ、と、日野廻です。これから、そのよろしくお願いします」
当たり障りのない挨拶に子供達は疑問を口にする。
「何ができるのー?」
わくわくとした顔つきで何かを待っているようだが、生憎僕には特に能力は無い。強いて言えば……。
「弓道部、だったけど……」
これは皆の求めている答えじゃないよな。やはりと言うか、皆首を傾げている。
「皆さん、廻さんはギフテッドではありません、ですが彼も皆さんと同様にここで療養する身です。変わりなく接してください」
彼女は決して仲良くとはそういうニュアンスで諭しはしなかった。寧ろ、そう言うのは当たり前だからこそ、敢えて言わなかったのだろう。僕もなんだかそう言った同調は得意でない為安心した。
気まずい時間が過ぎシスターマーガレットは食事前の祈りを捧げる。それに範唱して子供達も拙い祈りを繰り返した。
今日のメニューはカレーらしい。まぁ普通のインスタントのルーを溶かしたカレーだった。食事の後、夕さんは皆を教室に集めて年齢別の問題集を配る。
小鳥遊さんの話だと彼女は高校までの教員免許を持っているとの事で、施設の中であっても勉学は可能なのだという。
僕は勿論高校向けの課題をこなすが、実の所、高校生活に馴染めず中退した身で勉強にどう向き合って良いものか頬杖を付いた。
ここに来るきっかけとなった事柄においても、この事実が引き合いに出される問題なのだが、今は何かしらの言い訳をこしらえる為に目の前の難題に集中した。
「どこが分からないのですか?」
隣の席の小鳥遊さんが顔を覗かせる。生物の科目だ。ちょうど植物の範囲で、彼女は得意げに解説している。植物ホルモンの性質みたいな事を延々と説かれた。彼女の声はまるで子守歌のようでついうとうとしてしまう。
「こーら! ――居眠りはダメです、よ……」
頬を突かれて目を覚ました僕は、彼女の思い掛けない顔色に戸惑う。
彼女は一体誰に向けて言ったのだろう。上手くは聞き取れなかったが、確かにそれは親しい者に向けた言葉で、その声は優しかった。
だから今そんな青白い顔をしている事がなんとも矛盾を孕んでいるように思えた。
「小鳥遊さん? 今のは?」
心がブレーキを掛けろと命じている気がする。知りたくない事実を、今この場で耳にする事に対する純粋な危惧、そのように状況を否定する何かとは裏腹に言葉は正直だった。
「なんでもありません……、つい昔の知り合いが出てきたのです。さぁ、勉強に戻りましょうかすよ」
僕は何だかはぐらかされたのが随分と、気に入らなく感じた。いや、普通に考えれば、僕等の関係とはつい最近始まった、所謂気の置けない存在には到底及ばず、包み隠す事は往々にしてそうあるべきなのである。
でも、なんか引っ掛かるよなぁ……。
この心臓を半捻りかされるような違和感は暫時、僕の中に残っていた。
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