三途の川で逢いましょう

鰐屋雛菊

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〈11〉

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「……っは!」
 何だろう。なぜだか、ものすごく怖ろしい夢を見ていた気がする。そんなわけないのに。
「モ……ヘジ……?」
 だってほら、はずむ呼吸の合間に先輩がぼくを呼ぶ。この状況で居眠りなんてできるわけがない。ぼくはいま人生で、もっともしあわせな瞬間にいるんだから。
「モヘジ、もどってる」
 先輩のぼくを呼ぶ声が色っぽい! こみ上げる感動に目頭が熱くなった。そんなぼくを宥めるでもなく、先輩が背中をぺちぺち叩く。そこでようやく気がついた。いつの間にか、横たわった先輩におおいかぶさっている自分に。あれ? ぼくはさっきまで、先輩に組み敷かれてなかったっけ。
 見おろす先輩はいつもの先輩であり、はじめて見る先輩だった。ほぼ金色の髪が汗で額にはりつき、涙に濡れたまつげと、気怠げな眼差しがなまめかしい。赤味のさしたまなじりから頬には疲労の色が濃く、なのにくちびるは、まだ満ち足りぬと言いたげにうっすらと開いていた。
「あ! ばかやろモヘジ、なに堅くしてんだてめえ!」
「え、あ、すみません! でも、だって、だって……!」
 ぼくは自分の顔にさわった。それから胸を、腹を、目で確かめ、ぼくの意思で動く手を、その向こうで不機嫌そうに横たわっている先輩をもう一度見た。
 戻ってる?
 戻っていた!
 何がどうなったのかさっぱりわからないが、ぼく達はもとの身体に戻っていて、しかもぼくはまだ先輩の中に……。
「クッソてめ、こっちはヘトヘトだってーのに、何でそんなに元気なんだよ」
「す、すみません。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃい!」
 数十分前の自分のせりふが、そのまま返ってきた。でもぼくとしては、この状態でこうならないほうがおかしい。これは正常な反応だ。ぼくは謝り続けた。
「ごめんで済んだらケーサツいらねーんだよ。いいから出てけ……って、おいモヘジこのやろ!」
 口から謝罪の言葉を吐きつつ、身体は退かない。退けない。なにせ萎れているのは主に上半身だけなのだ。
「ごめっ……でも……でも……せんぱい……っき。好きです。好きなんです。がまん、できないっ」
「いっ……! 無茶すんな、このっ……わ、わかった、わかったから、せめてゴムくらい付け替え……」
「月野くーん!」
 とつぜんバーン! と部屋の扉が勢いよく開いた。
 ええー……鍵かけてなかったの先輩?
「私ね、明日からアメリカ行ってくるね」
「はあ、アメリカ……N.Y.ですか」
 ベッドの上、全裸でからみ合う甥と弟子を目撃しても、叔父は顔色一つ変えず気にした素振りもない。絶句するぼくよりわずかに冷静なのか、月野先輩が辛うじて受け答えした。
「うん。ジョージに会ってくるよ。さっきメールがあってね。うまくいけば従来のEEGよりも、なんと変換速度を二十パーセントも上げられるかもしれないという話なのだよ。どうだね、すごいだろう! じゃあそういうことで。おやすみ!」
 言うだけいうと、叔父はぼくらのことには一切言及せず去って行った。
 えーと……。扉は閉めてください叔父さん。
「とりあえずどけ。重い」
 腰のうしろを踵で蹴られて、ぼくはスゴスゴと退散する。水を差されたとか叔父のマイペースぶりに毒気を抜かれたというのもあるけど、なぜだかあのふっくらした顔を見ただけでぼくは、装着していたゴムも脱げよとばかりしょげ返ってしまったのだった。
 静まり返った部屋の中、会話のきっかけもつかめないまま服を着て身支度をととのえた。喉はちょっといがらっぽいけど、身体に問題はなさそうだ。携帯端末で時刻を確認する。そろそろ帰らなくては、ぼくも明日は早い。
「あの、それじゃ」
 何か言わなければいけない。でも何を言えばいいんだろう。ぼくは立ち上がったなり、一歩を踏み出すこともできず、さりとて振り返って先輩の顔を見ることもできなかった。冷静になってみて気づく。明日からのぼく達には、別々の生活が待っていた。こうなるとわかってたら、遠方に就職を求めたりしなかったのに。
「言っとくけど俺は、遠恋なんて成立しねえと思ってるかんな」
 先輩の投げやりな言い種に、ちょっとムカッと来た。じゃあなんでこんなことをしたんですかと、非難の言葉が口をついて出そうになる。ぼくが町を離れるのを知っていて、強引に迫ってきたのは先輩のほうなのに。結局はこの一夜限りってことですか。離れてしまうぼくには興味がないと?
「何言いたいかわかるよ。俺も今回ばかりは諦めるつもりになってたしな。けどよー、身体が入れかわるなんて、ぶっとんだことが起こったんだぜ? 利用しない手はねえだろう」
 先輩はまだベッドに寝そべって、布団に包まっていた。ぼくの間抜け面を見て、うれしそうに笑っている。
「別人になっちまったんだ、就職は取りやめるしかないよな。しかも俺達二人だけの秘密ができた。俺達だけの、俺達だけにしか理解しあえない秘密が」
 先輩の笑顔が少しゆがんだ。でもいい顔だ。ぼくの好きな顔だ。ぼくはふらふらとベッドの縁まで吸い寄せられる。
「おまえを独り占めできると思った」
 これは悪巧みをしているときの笑顔。
「おまえを俺の中に閉じこめて、この先ずっと二人だけで生きていけるんじゃないかって、思ったんだ」
 絆創膏だらけの指先が、ぼくの左手の拇指をひっ掻いて、そっと戻っていく。はじめて垣間見せた純情? それとも罠? なんでもいい。逃がすものかと捕まえる。
「俺って実は、そういうヤバいヤツなの。だから」
 ぼくは膝を折って、先輩の手にくちづけた。爪の先に、指の背に、手の甲に、手首の内側に。
 これからの人生を、ぼく濱村帆津美が月野征恒として生きていく――そんなことを考える余裕はぼくにはなかったけど、もし考えたとしたなら、きっとぼくも先輩と同じ結論に達したろう。先輩と二人だけで生きていく道を、躊躇なく選んだだろう。
 そして。
「先輩、あの、ですね。ぼく達が入れかわったままだったとしても、こうして無事に戻れた今も、それから離れて暮らすことになるこれから先も」
 先輩の瞳が揺らぐ。先輩も不安なんだと思ったら、少しほっとした。
 見習い期間中は給料も安く、休みだってまず連休はとれないし、勉強することは山とある。それ以前に、きっと慣れない職場での仕事で、毎日ヘトヘトになってるだろう。たぶんしばらくは会えない。でも。
「どんなことがあっても、ぼくは先輩が好きですよ。それだけは変わりません」
 恥ずかしいけど、照れくさいけど、先輩の瞳をとらえて、ゆっくりとかき口説くように、あらためてぼくはぼくの気持ちを告げた。すると先輩は一度目を閉じて不安の色を消し、代わりにぎらぎらした挑戦的なまなざしでぼくを刺し貫いた。うわあ。目からビーム、出てますよ先輩。
「後悔すんなよ」
「するわけないじゃないですか。六年半の片想いがやっと実ったのに。死が二人を別つまで、て誓ってもいいくらいです」
 ビームに焼かれて浮れ気味のぼくの手から先輩の手がするりと抜け出して、ぼくの鼻先を指ではじいた。痛いです先輩。
「なーにが『死が別つまで』だ。俺はすっげー独占欲強いから覚悟しとけよ。死んでもおまえが来るまで、成仏なんてしねえで待ち伏せしてるからな」
「待ち伏せるって、ぼく取り憑かれちゃうんですか?」
「ちっげーよ、そうじゃなくて、えーと、三途の川の渡し場で……ん? んん?」
 なぜ先輩が先に死ぬ前提なのかとか、なぜ三途の川なのかとか、待ち伏せしてると前もってバラしていいのかとか、唐突な謎設定にツッコミどころ満載だ。だけど笑えない。何かが引っかかって、ぼくはもとより先輩まで腕組みして考えこんでしまった。何だろう、この変な感じ。既視感?
「ま、いっか」
 ぼくらはしばらく考えこんでいたが、先輩が先に飽きて放り出した。
「死んだくらいじゃ、俺はおまえを手放さないってえことだ」
 よくわからないが、それで正解、それが正解。そんな気がして肯いた。
「ええと、それじゃあ……病めるときも、健やかなるときも、死が二人を別つまで……そして死が二人を別ちたるそのときは」
 どちらからともなく互いの手が互いの頬を包み込んだ。額を付き合わせ、そして同時に言う。
「三途の川で逢いましょう」
 我が意を得たりとばかり咲きこぼれる先輩の笑顔がまぶしい。
 誓いのキスは、今夜一番甘かった。


   了
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