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おいで。早く、おいで…。

第103話 エボニと頭の良さ

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「今日もいない…か」
 いつもなら、向こうからからんでくるのだが…。

 あの日以来、こちらから探しに行こうとも、ラッカの姿を見る事は出来なかった。
 折角、こちらから歩み寄ったと言うのに、何が気に食わなかったのだろうか。

 …何が気に食わなかったかなんて分からない。
 なんせ、何故彼女が、僕を助けてくれたのかすら、分からないのだから。

 僕は彼女の事を何も知らない。
 始めは怖かった彼女。
 そんな彼女はいつの間にか、好敵手になっていた。

 それはきっと、彼女が本気じゃなかったからだろう。
 つまり僕は、彼女に遊んでもらっていたわけだ。

 頭が良いと思っていた僕は、結局、井の中のかわずだった。
 彼女に相手をしてもらっていた事にも気づかなければ、最後に見せた悲しげな表情の意味すら、理解できないのだから。

 彼女は何を考えていたのだろう。
 彼女は今どこにいるのだろう。
 そんな事を考えていると、大好物の液体もろくのどを通らない。

 静かな暗闇。
 寂しくて、不安で…。いつもの風景が、ちょっぴり怖く映る。
 僕は早々に家に帰ると、母さんの胸に飛び込んだ。

「あらあら、どうしたの?甘えんぼさん」
 そう言う、母さんはとても温かかった。
 兄弟たちの笑い声だって、悪い気はしない。
 僕の居場所はここだ。そう思える。

 …彼女には帰る家があるのだろうか?
 ずっと、一人であの薄暗い世界にいるのではないだろうか?

 それは…とっても嫌だ。
 僕がそんな状況に置かれるのも、彼女がそんな場所に居続けていると考えるのも、心がチクチクとして嫌なのである。

 でも、家から、家族から、知っている場所から離れるのは怖い。
 あの静かな暗闇の先に向かったら、もう戻ってこれなくなってしまう。そんな気がするのだ。
 …でも。それでも、最後に見せたラッカの悲しげな表情が頭から離れない。
 
「…僕。行ってくるよ」
 僕は何も知らないであろう母さんに呟いた。

 僕が行った所でどうなる問題ではないのかもしれない。
 それどころか、迷惑をかけてしまうかもしれない。

 それでも、僕は行きたかった。
 何もできなくても、彼女の傍いたい。
 これは僕の我儘わがままだ。

「そう…頑張ってね。行ってらっしゃい」
 全てを包み込むような優しい母さんも声。

 僕は驚く。
 何も知らないであろう母さんから、しっかりとした返事が返ってくるとは、思わなかったからだ。

 そんな僕を母さんは、唯々、優しい表情で、見返してくる。

「やっぱり、母さんはすごいや」
 ガラスの外にいる彼は、母さんを最優良個体と言っていた。
 しかし、僕の言っている事は、そう言う事ではない。

「ふふふっ。当たり前でしょう。私は貴方のお母さんなんだから」
 多分。お互いに何か意味を込めて、話している言葉ではない。
 そんな、頭の悪い会話は、僕の心を優しく包み込んだ。

 今なら、あの闇の先に向かえる気がする。
 孤独と、不安の向こうから彼女を連れだせる気がするのだ。

 …とか言って、彼女が元気そうだったら恥ずかしいなぁ…。
 まぁ、それはそれで良いか。

「チュチュッ」
 我ながら、頭の悪い思考に、笑いが零れる。

 そうだ。いつだって、考えていても始まらないのだ。
 行動あるのみ。
 頭の悪い僕にはぴったりすぎて、またしても笑えて来る。

 僕は家を後にすると、彼女を探しに向かった。

 …彼女にあって、どうするかだって?
 そんな事は分からない。
 なんせ、僕の頭は悪いのだから。
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