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しおりを挟む結局その日は久世一人が指名客だったが、あの調子で2時間も居座られ甚大なダメージを被っていたので、むしろその後指名が入らなかったのはありがたかった。
閉店すると、ただのスタッフの場合軽く片付けをしてそのまま解散となる。
今まで体力的には負担の少ない仕事だと思っていたが、今日はさっさと部屋に戻って寝てしまいたかった。
現在、万里は『SILENT BLUE』の入っているビル内の居住階に部屋を与えられている。
下町育ちの自分には、東京の中心にある高層ビルなど住み心地が悪くて仕方がないが、今この時だけはベッドが近いことが有難かった。
眠ってリセットすれば、明日もまた頑張って働ける。
ビル内を移動するだけなので着替えもせずに出口に向かおうとすると、桜峰が「お疲れさま」と近づいてきたので足を止めた。
「大丈夫だった?」
「いや……はい……大丈夫じゃ…………大丈夫です……」
ぐったりしている様子に気付いたのだろう。桜峰は気遣わしげに覗きこんできた。
「え、何か大変なことがあったの?二人で楽しそうに話してたから、てっきりうまくいってるのかと思ってたんだけど」
あれのどこをどう見たら楽しそうに見えたのか…………。
「その……上手く接客できなくて、もしお客様からクレームとか入ったらすみません……」
開店直前と言ってること違うぞと思われそうだが、そういう結果になってしまったのだから仕方がない。
頭を下げると、桜峰は小首を傾げた。
「初めてで上手くできないのは当たり前だし、クレームも心配することはないと思うけどなあ……。久世様は気難しい人でもないし」
気難しくなくても根性は悪いですよね。
「桜峰さんはお客様にイラっとした時ってどう対処してるんですか?」
「え…………………、俺、お客様にイラっとしたこと……………ないかな」
この人は聖人かなにかなのだろうか。
だから相対する人も(それが例え久世のような男でも)聖人のようになってしまうのか。
「というか、イラっとするってどういう感じなのかわからないかも。ムッとするみたいな感じ?」
どれほど親しくて好きな相手でも、自分のことに対してですら、イラっとすることくらい普通あるはずなのだが…。
一応、「ムッとする」ことはあるらしいが、桜峰は怒りという感情をどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。
やはり自分で何とかするしかないようだ。
「すみません、あの……精進します……」
「ご、ごめん、参考にならなくて。あ、でも、我慢しなくていいんじゃないかな」
「暴行事件が起こりませんか」
「え、そんなに怒ってるの?もちろんお客様を殴るのはダメだと思うけど、でも、お客様が何か腹の立つことを言ってくるなら、『そういうことを言われるのは好きじゃない』ってちゃんと伝えていいと思うよ。……ですよね、副店長」
近くを通っところを呼び止めて、桜峰が経緯を説明すると、小柄でアイドル顔の副店長は大きく頷いた。
「ムカついたら殴っても大丈夫」
「それは……ちょっと駄目だと思いますけど……」
「湊知らないのか?プロレス技はエンタメだから合法の範疇なんだぞ」
「えっ、そうなんですか?」
絶 対 違 う だ ろ 。
副店長は「一応冗談」と破顔して、今度は副店長の顔で万里を諭した。
「殴るのは最終手段的な感じだけど、別にデパートの店員みたいにかしこまる必要はない。大事なのはお客様が何を望んでいるか。高い金払ってここに来てる時点で誰かと一緒に飲みたいって思ってるわけだから、重視するのはコミュニケーションで、それがどんな形かは月華も俺たちも定めてない。最初に教えたのは基本の型だから、そこから自分なりのお客様との関わり方を模索していけばいいんじゃないか」
……これはこれで、久世が正しかったようで少々面白くない気もするが、自分らしくていいというのはきっとありがたいことなんだと思う。
できれば、久世にはもう来ないでほしかったが、万が一にも次があればもう少し自分も楽しい時間を過ごせるように努力しなくては。
そう胸に刻み、万里はアドバイスをくれた二人の先輩に頭を下げた。
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