銘米戦記

山鯨

文字の大きさ
上 下
2 / 2

不穏

しおりを挟む
 新禄13年 3月ー

「あっ!おにぃが戻ってきた!おかえりおにぃ~!」

田んぼで虫取りをしていた妹の麦が、嬉しそうに稲丸の元に駆け寄る。
稲丸は背負っていた籠を下ろすと、屈んで麦を抱き止めた。

「ただいま。…ん、何持ってるんだ?」
「見てぇ、かえるさん見つけたよ」

麦が小さく合わせた手をそっと開くと、中から小さな青蛙が飛び出した。
麦の足元に落ちた蛙はすかさず草むらに跳ね戻っていく。

「あ!待って、逃げないでぇ~!」
慌てて蛙を追う麦を見て、稲丸は少しだけ顔をほころばせた。

「…稲丸。あんたまた勝手に山に入ったんじゃないだろうね」
隣の田んぼで田植えの準備をしていた老婆が怪訝そうな顔で稲丸に声をかける。

「ヨネさん…麓で野草を摘んでただけです」
ヨネの目前に籠を差し出し中身を見せると、ヨネは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らした。

「あんたには前科があるからね…まったく母親と同じで、愛想も可愛げもないんだから」

ヨネは手の泥を拭うと、田んぼの畦に置いてある籠から笹巻きの握り飯を取り出した。

「食いな。妹の方にはもう食わせたから。米食ってないだろ、ずっと」

差し出された握り飯に一瞬目を奪われたが、慌てて視線を外し頭を振る。

「いらないです、じいちゃんが見つかるまで俺は…」


ーー

去年の夏以降、稲は一つの実も結ぶことなくそのまま枯れ果て、村は冬を迎えた。
前例のない事態に、不安と焦りに駆られた多くの小作人たちが祖父に詰め寄った。

これから、どうすればいい?
このまま来年以降も米が育たなかったら、俺たちはお終いだ。
米以外を育てられないこの土地で、どうやって食っていけばいいんだ。

この村の地主である稲丸の祖父は、そんな小作人たちの声を強い語気で一蹴した。
「この土地に限って、そんなことはありえん!」

おそらく今回は育苗に失敗したんだろう、と続けた祖父の言葉にそんなはずはないと
言いかけて稲丸は唇を噛んで俯いた。

育苗は稲丸の母をはじめとする村の女たちが行っていた。
稲丸は毎年その手伝いをしているが、母親たちの仕事はいつもと変わらず完璧だった。
じいちゃんだって、分かってるはずだよ…。

「安心しろ、出荷用も含めて備蓄米は十分ある。ワシがお前たちを飢えさせることは絶対にないからな」

不安の残る面持ちで座っていた若い小作人の肩をバシリと叩いて、祖父は笑った。
「さぁ、みんな戻れ。来年は今までで一番の米を作ってやろうじゃないか」

祖父の前向きな言葉に、小作人たちは顔を合わせて頷く。
緊迫感の緩んだ空気をつれて、小作人たちは皆家屋へと戻っていった。

見送りを終え、居間に戻ると厳しい表情を浮かべた祖父が何かを思案するように
格子の窓から外を見ていた。

「じいちゃん…」

伺うように声を掛けると祖父はハッとしたように笑顔を浮かべた。

「おう、みんな戻ったか。稲丸もまた手伝い頼むな。お前は筋がいいと、皆褒めとったぞ」
ハハハと笑う祖父に合わせるように、稲丸も笑って頷いた。

「さあ、お前も母さんのところに戻れ。明日はちょっと出掛けてくるでな、すまんが留守を頼む」

戸を開け、外に出ると冷えた空気が一気に身体に染み入ってくる。
ふぅ、と白い吐息を一つ出して、稲丸は足早に帰路についた。



次の日、朝から祖父の家を訪ねたが既に祖父の姿はなかった。

土間にかかっていた雪蓑が無くなっていたが、村にはまだ雪は降っていない。
木戸を開け、正面に見える穂鳴山を眺める。山の方では雪が積もっているのかてっぺんのほうが白く煤けてみえた。


じいちゃん、山の方に行ったのかな。どのくらいで戻ってくるんだろう。
土間の小上がりに腰を下ろし、足をぶらぶらと揺らして草履を落とすと土埃が舞った。

祖父の家は昔から手入れが行き届いていたが、一昨年祖母が亡くなってから少しだけ粗が見えるようになっていた。

掃除をしておけばじいちゃん喜ぶかもな、と稲丸は戸の横の箒を手に取り土間を掃いた。
居間の床を拭き、薪の整理をした。
床の間に入ると、祖父が読んでいただろう書物が出しっぱなしになっていたのでそれも整理した。

あらかた掃除を終えて祖父を待ったが何時になっても祖父は戻ってこなかった。



そして、祖父はそのまま戻ってこなかった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...