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第50話
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ミルドレッドが発したその言葉が、どのような意味を持つのか、イアンには分からない。
だが、確かに言われたレナードには効いたのだろう。
彼は力が抜けたように、ふらふらと長椅子に座り込んだ。
そして、もうそこからは。
ミルドレッドに対して、足掻くのを止めたのだから。
思っていたよりも早く、ユリアナが戻ってきた。
彼女は大きなトランクと、ひとまわり小さなトランクを両手に持っている。
そこでイアンは持参していた鞄をユリアナに渡して、その大小のトランクを預かった。
重要書類を入れた鞄をミルドレッドではなく、ユリアナに渡したことで、彼女のことを信用していると伝えたのだ。
これで、この場から撤収だ。
その時、またもやカールトンが余計なひと言を、こちらに投げた。
「このマリーは、ウィンガムが送り込んで来たんじゃないだろうな?」
「……それはつまり、私がわざと妹を苦しめたという意味か?」
ジャーヴィスに抱かれたメラニーが、既に大好きになっていた『おぉじちゃま』のあまりの変化に、不思議そうに彼の顔を見ている。
「そ、そこまでは……」
単にこのまま帰られるのが悔しくて、深くも考えずに放った余計なひと言だ。
ジャーヴィス個人に言ったつもりじゃなかった。
カールトンの背中を冷たいものが駆け上がる。
しまった、どうして俺は黙っていなかった!
静かにメラニーを降ろしたヴィス会長が、ゆっくりと自分に近付いて来るのが見える。
殴られるのか、言い負かされるのか。
分からないが、目を瞑って覚悟した。
……が、何も起こらない。
目の前に来たのは気のせいだったかと、目を開ければ。
やはりそこにジャーヴィス・マーチは立っていて。
初めて真正面から『厳冬のヴィス』を見た。
どこまでも深い緑の瞳がさえざえと、自分を見つめていた。
「人に対して、そんな風に思うのは。
貴様がそんな二心を持っているからだ。
スチュワートのことは、見殺しにしたとは言わない。
……だが、レナードに関してはそうだろう?
どうして、ちゃんと見てやらない?
あいつが間違っているのなら、直してやるのも貴様の仕事だ。
息子が出来て、欲が出たか?」
「お、俺はそんな……」
「次に御家騒動が起これば。
今度は王家も、見逃してくれない。
もうこの家には、救国の英雄エルネストは居ない。
ウィンガムは、アダムスと運命を共にする気はない。
レイウッドを治めるのは、どの家だっていい」
皆に聞かれている。
そう思ったのに。
踵を返してマーチ達の元に戻ったジャーヴィスに、イアンが「何を言ってたんだ」と聞いているのがわかって。
誰にも聞こえていなかったことに、カールトンは胸を撫で下ろして……
心の奥底に燻っていた野心を捨てることにした。
ウィンガムの連中が、ここから去ろうとしていた。
最後に再び、メラニー・フェルドンを抱き上げ、ジャーヴィスが宣言する。
「本日より、義妹マリー・マーチの護衛1名、専属侍女1名を、レナード卿との婚姻締結の夜まで常駐させる。
それまでにマリーが原因不明の病死、事故死、行方不明その他の事態を迎えることを防ぐ為だ。
義妹だけでなく、護衛と侍女の併せて3名がもしそのような事態となった場合、査察官シールズ殿の強制捜査が行われること、お忘れ無きようお願いする。
婚姻までの3名にかかる費用は、ミルドレッドからマリーに譲渡された持参金にて、よろしく頼む」
ウィンガムに戻る5人を見送るのは、アダムスではカールトンただ1人だった。
彼はどこかすっきりした表情を見せていて。
明日からは心を入れ替えて、慣れないレナードの尻を叩くのだろうと、見て取れた。
◇◇◇
ミルドレッドは、目の前の情景が信じられない。
本家の使用人が全員、玄関扉まで両側に並んで、進む彼女の前で次々と頭を下げていく。
下女やメイド達は深く頭を下げ、侍女達はカーテシーで腰をおとして挨拶をする。
厨房の下働きも、料理長も。
庭師や厩舎関係者達も、皆が並び。
下男や侍従、執事達男性は皆、右手を胸に当て頭を下げる。
それはこの家を去る、当主夫人ミルドレッドに対する使用人達の挨拶だ。
列の最後にはハモンドとケイトが並んで立っていて、少し離れた場所にはマーチ家の護衛ボイドと侍女ルーシーも立っている。
ボイドとルーシーは、今日からジャーヴィスの目として、マリーを守る名目で。
逃亡等しないよう監視することになっている。
外の世界へ続く扉の前に立った時、皆に何か伝えなくてはと、ミルドレッドは振り返った。
「短い間でしたけれど、本当にお世話になりました。
皆さんも、どうか……
どうか、お健やかに過ごされますよう……」
そこからは言葉にならなかった。
こんなに沢山の人間がこの邸に居て、毎日の生活を支えていてくれたのだとは知りもしなかった。
スチュワートの代わりに、毎日執務室に籠っていたけれど、自分ではメイドに直接注意もせずに、いつもハモンドやケイトにお任せしていた。
この人たちが居るからこそ、自分の生活は快適に保たれていたのに。
これからは忘れない。
絶対に忘れない。
ミルドレッドはこの時を忘れないと、胸に刻んだ。
そしてあの日、シールズの妻から再婚話を教えられた日。
人知れず、心の中で決意した……
『逃げ帰るのではなく。
わたしは堂々と、皆に見送られてあの家を出る。
前レイウッド伯爵スチュワートの未亡人として』
その誓いが、成就された。
だが、確かに言われたレナードには効いたのだろう。
彼は力が抜けたように、ふらふらと長椅子に座り込んだ。
そして、もうそこからは。
ミルドレッドに対して、足掻くのを止めたのだから。
思っていたよりも早く、ユリアナが戻ってきた。
彼女は大きなトランクと、ひとまわり小さなトランクを両手に持っている。
そこでイアンは持参していた鞄をユリアナに渡して、その大小のトランクを預かった。
重要書類を入れた鞄をミルドレッドではなく、ユリアナに渡したことで、彼女のことを信用していると伝えたのだ。
これで、この場から撤収だ。
その時、またもやカールトンが余計なひと言を、こちらに投げた。
「このマリーは、ウィンガムが送り込んで来たんじゃないだろうな?」
「……それはつまり、私がわざと妹を苦しめたという意味か?」
ジャーヴィスに抱かれたメラニーが、既に大好きになっていた『おぉじちゃま』のあまりの変化に、不思議そうに彼の顔を見ている。
「そ、そこまでは……」
単にこのまま帰られるのが悔しくて、深くも考えずに放った余計なひと言だ。
ジャーヴィス個人に言ったつもりじゃなかった。
カールトンの背中を冷たいものが駆け上がる。
しまった、どうして俺は黙っていなかった!
静かにメラニーを降ろしたヴィス会長が、ゆっくりと自分に近付いて来るのが見える。
殴られるのか、言い負かされるのか。
分からないが、目を瞑って覚悟した。
……が、何も起こらない。
目の前に来たのは気のせいだったかと、目を開ければ。
やはりそこにジャーヴィス・マーチは立っていて。
初めて真正面から『厳冬のヴィス』を見た。
どこまでも深い緑の瞳がさえざえと、自分を見つめていた。
「人に対して、そんな風に思うのは。
貴様がそんな二心を持っているからだ。
スチュワートのことは、見殺しにしたとは言わない。
……だが、レナードに関してはそうだろう?
どうして、ちゃんと見てやらない?
あいつが間違っているのなら、直してやるのも貴様の仕事だ。
息子が出来て、欲が出たか?」
「お、俺はそんな……」
「次に御家騒動が起これば。
今度は王家も、見逃してくれない。
もうこの家には、救国の英雄エルネストは居ない。
ウィンガムは、アダムスと運命を共にする気はない。
レイウッドを治めるのは、どの家だっていい」
皆に聞かれている。
そう思ったのに。
踵を返してマーチ達の元に戻ったジャーヴィスに、イアンが「何を言ってたんだ」と聞いているのがわかって。
誰にも聞こえていなかったことに、カールトンは胸を撫で下ろして……
心の奥底に燻っていた野心を捨てることにした。
ウィンガムの連中が、ここから去ろうとしていた。
最後に再び、メラニー・フェルドンを抱き上げ、ジャーヴィスが宣言する。
「本日より、義妹マリー・マーチの護衛1名、専属侍女1名を、レナード卿との婚姻締結の夜まで常駐させる。
それまでにマリーが原因不明の病死、事故死、行方不明その他の事態を迎えることを防ぐ為だ。
義妹だけでなく、護衛と侍女の併せて3名がもしそのような事態となった場合、査察官シールズ殿の強制捜査が行われること、お忘れ無きようお願いする。
婚姻までの3名にかかる費用は、ミルドレッドからマリーに譲渡された持参金にて、よろしく頼む」
ウィンガムに戻る5人を見送るのは、アダムスではカールトンただ1人だった。
彼はどこかすっきりした表情を見せていて。
明日からは心を入れ替えて、慣れないレナードの尻を叩くのだろうと、見て取れた。
◇◇◇
ミルドレッドは、目の前の情景が信じられない。
本家の使用人が全員、玄関扉まで両側に並んで、進む彼女の前で次々と頭を下げていく。
下女やメイド達は深く頭を下げ、侍女達はカーテシーで腰をおとして挨拶をする。
厨房の下働きも、料理長も。
庭師や厩舎関係者達も、皆が並び。
下男や侍従、執事達男性は皆、右手を胸に当て頭を下げる。
それはこの家を去る、当主夫人ミルドレッドに対する使用人達の挨拶だ。
列の最後にはハモンドとケイトが並んで立っていて、少し離れた場所にはマーチ家の護衛ボイドと侍女ルーシーも立っている。
ボイドとルーシーは、今日からジャーヴィスの目として、マリーを守る名目で。
逃亡等しないよう監視することになっている。
外の世界へ続く扉の前に立った時、皆に何か伝えなくてはと、ミルドレッドは振り返った。
「短い間でしたけれど、本当にお世話になりました。
皆さんも、どうか……
どうか、お健やかに過ごされますよう……」
そこからは言葉にならなかった。
こんなに沢山の人間がこの邸に居て、毎日の生活を支えていてくれたのだとは知りもしなかった。
スチュワートの代わりに、毎日執務室に籠っていたけれど、自分ではメイドに直接注意もせずに、いつもハモンドやケイトにお任せしていた。
この人たちが居るからこそ、自分の生活は快適に保たれていたのに。
これからは忘れない。
絶対に忘れない。
ミルドレッドはこの時を忘れないと、胸に刻んだ。
そしてあの日、シールズの妻から再婚話を教えられた日。
人知れず、心の中で決意した……
『逃げ帰るのではなく。
わたしは堂々と、皆に見送られてあの家を出る。
前レイウッド伯爵スチュワートの未亡人として』
その誓いが、成就された。
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