Metamorphose

鱗。

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第二章

第八話

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俺はその日、間中君に久し振りに声を掛けた。もういい加減、物言いたげでありながら、こちらの全身を抉るほどに強烈な彼の視線から、逃れきれないと改めて観念したからだ。彼は本当の意味で聡い子だ。きっと、俺に無視されていることに気が付き始めている。膝を突き合わせて、一体間中君の身に何が起こったのか聞き出して、この俺にとって苛烈極まりない現状を打開しない限りは、きちんとした呼吸はおろか、生きた心地にもなれはしない。


これ以上無駄に生きながらえていたいわけではないけれど、万が一教壇で倒れでもしたら蜂の巣を突いたような騒ぎになってしまう。病床に伏せる俺に対し、原因はなんだと誰かに尋ねられたとして。それは間中君の視線の所為ですだなんて答えられる訳もないのだから、せめて間中君には大人しくしていて貰わないと困るのだ。どうやって、視線を気をつける様になどと話をするべきなのかは一先ず横に置いて。彼ときちんと対話をして、彼のフラストレーションを緩和するくらいはしておくべきだと思った。もし図書館に行く用事があるのなら、いつもの席を取っておいて欲しいと、間中君にお願いをした。すっかり別人のように様変わりしてしまったことと、あまりにも話しかけるのが久しぶりだったがために遠慮が生じて、俺の声にはまるで張りがなかった。


間中君もそれを訝しんでいるようだったけれど、その後すぐに彼が女学生にちょっかいをかけられたことで、俺のその態度について、彼から言及されることはなかった。間中君は、あからさまに面倒臭そうに彼女をいなしてから、宮ノ内先生と俺の問題だから、君は口を挟まないでくれる?ときっぱりと言ってのけた。あまりに素気無い。それに、これまでの彼からしてみたらあり得ない言動だ。けれど、威風堂々とした、百獣の王たる存在の今の彼には、どこまで不遜な態度であっても、それが許されてしまう。それは、生まれ持った資質に依るところが大きいのだろう。俺なんかには、逆立ちしても到底真似できない芸当だった。


プライドを傷付けられたらしい彼女は、間中君ではなく、俺に対して氷の様な視線を飛ばしてから講義室を後にしていった。視線に関しては何とも反応し難いところではあるけれど、間中君にその睨みを向けられない気持ちは手に取るように分かる。だから、こちらの気持ちとしては完全に凪いでいた。けれどその子は今年のミスコンでも有力株扱いを受けていた学生だったので、俺は彼に、本当に断って良かったのかと、お節介にも口を挟んでしまった。本心としては、間に入る人間がいなくなってホッとしていた癖に。理解者ぶって自分で自分が本当に嫌になる。変に大人ぶる癖は、俺の悪癖だった。


「そんなこと関係ありませんよ。先生と二人きりになれる事の方が、俺にとって重要なので」


間中君は恥も外聞もありませんとでも言うかの如く、すっぱりとそう口にした。俺はそのあまりの清々しさに一瞬呆気にとられてしまった。不思議な子だ。やはり、以前思った通り、彼はその内面までもが卓越している。外見ばかりが珍重されがちだけれど、内面に秘められた清々しさが外側に現れている部分も多分にあるはずだ。いつだって俺の貧しい想像力を上回っていく彼。こんなにも規格外の人間が存在していることに、俺は驚きを隠せなかった。


「君は、不思議な子だね。いつも俺の心に刺さった棘を、スッと抜いてくれる」

「心の棘?」

「うん。自覚は無いんだろうけどね・・・君と話していると、いつも凄く癒されるよ。君の心根が素直だからかもしれないね」


癒されるのは間違いないし、彼の心根が素直だと思っているのは間違いない。だから、これは先ほど口にしたような本心を曲げての発言ではなかった。彼と話すと、心が和む。棘のある、暗い発想しか展開する事ができない俺とは雲泥の差だ。百獣の王の風格を持ち得ながら、しかし彼の本質は誰よりも穏やかだった。けれど、俺はそれを、酷く残念だと思っている。


命を蹂躙し。血肉を貪り喰らい。その屍の傍でいびきをかいて眠っても。アレなら仕方ない。生きる為なのだからしょうがない。そう、存在を丸ごと肯定されて然るべき生き物が、まるで飼い慣らされた犬や猫の様に、俺に向けて腹を見せている現状には、どうしたって溜息が禁じ得ない。


雄の本性に擦り込まれている、毅然としたプライドと承認欲求。名誉を、地位を、雌を、獲得したいという本能。彼からは、それらが全く感じられないのだ。


もし、この子にその気概がこれ以上見込めないのだとしたら。彼は、犬や猫にも劣る存在にしか、なり得ないだろう。だからこそ、それが、残念で残念で、仕方がなかった。


そう。彼が、隠されていたその爪と牙を剥き出しにし、俺に襲い掛かってくる、その瞬間まで。俺は、ずっと勘違いをしていたんだ。
彼の本性が、百獣の王たる獣である事には、一部の疑いの余地などなかったのに。


「先生は、俺が好きだっていったら、困りますか」


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