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第一章『最悪の出会い』

第二話『最悪の出会い』

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自分の抜けた歯の跡の処置をするお金なんて、本当に無かったから、母親には黙っていよう、と思っていたんだけど。殴られた頬は赤黒く腫れ上がっていたし、服も、喉から出る声もボロボロになっていて、どう取り繕っても只事じゃない見た目になっていたから、母親に、泣きながら病院にだけは行ってくれ、とせがまれてしまって。病状の安定している母親の定期検診を一旦お休みする形で費用を捻出して、詰め物の処置をして貰った歯医者を再度予約し直し、数日後、偶然空きが出来たその日に、歯医者を受診した。


自分の処置した歯が、すっかり無くなってしまっている状況と、ガーゼでべったりと覆われた頬、裂傷や腫れなどにより荒れてしまった口内の環境を見て、宗川先生はマスク越しでも分かるくらいに、顔を顰めた。僕が、『派手に転んでしまって』と申し訳なさを全面に押し出して謝ると、先生は深い溜息を吐いてから、僕の目を真剣な眼差しで射抜く様に見つめた。


「転んで出来た怪我と、そうじゃない怪我の違いくらい直ぐに分かる。警察には、ちゃんと相談したんだろうな?」


つまり、処置をするのは別に問題ないが、それよりも先に、暴行を受けた事実を警察に届け出て、必要な手続きを全て済ませてからの方が、此方としても動きが取りやすい、と言いたいのだろう。真っ当な意見だと思うし、そう出来たらどんなにいいか、とも思う。だけど、そんな真似をしたら、相手がどんな報復行為をしてくるか分かったものではないし、それこそ、僕の命の一つや二つでは話が終わらない可能性すらある。死ぬのは、怖くて堪らないし嫌だけど、それ以上に、母親や宗川先生達に被害が及ぶのだけは、絶対に避けたかった。だから、僕は曖昧な笑みを浮かべながら頷き、先生に、何も言わずに、抜けた歯の跡の処置だけをして貰う様に、頭を下げてお願いした。


「先生が折角処置してくれた歯を台無しにしてしまって、すみませんでした。ただ、今はそれに代わる歯を用意して頂くだけの余裕がなくて。せめて、傷口が塞がるまでの間の痛み止めの薬だけでも頂けないでしょうか?」

「それは……」

「お願いします。どうか、それだけでも……これ以上、母に心配を掛けたくないんです」


僕の必死な願いに、宗川先生は、ギュッと眉間に皺を寄せて、悲しみや、遣る瀬なさや、複雑な感情を顔に縁取った。優しい人なんだろう。どうにか、自分の立場からでも出来る事はないかと、考えを巡らせているのかもしれない。だけど僕は、その優しさに目を瞑って、ひたすらに頭を下げ続けた。


「……分かった。今回は、腫れの処置をして、痛み止めの薬を処方するよ。だけど、それを貰ったら、その足で必ず警察に相談しに行く事。それが、俺が処置をして、薬を出せる条件だ」


僕の必死の願いに根負けしたのか、宗川先生は、諦めた様にそう口にした。きっと、僕がその約束を守らないという事を知った上で、こうして見過ごしてくれたんだろう。自分に出来る事と、領分に入らない事の線引きが出来る人なんだな、と思って。その、見た目はあっさりしているけれど、どこまでも気遣いのある優しさが、今の僕には丁度よくて、胸にじんわりと、その優しさが広がっていった。


抜けた歯の部分の腫れの処置をして貰い、会計を待つ為に、待合室にある長椅子に向かおうとすると、其処には、以前見掛けた、恐ろしい程顔の小さな美形が、長い足を組んで、長椅子の端に座っていた。まさか、また再会……一方的な感覚ではあるけれど……を、するとは思わず、胸が、どきり、とする。ときめきとか、そんな同性に抱くにしては難がある感情からじゃなくて、なんと言うか。


そう、体躯の良い肉食の野生の獣に、丸腰の状態で、道の真ん中で、ばったり遭遇した様な。恐ろしさや、驚愕と共に、自然美そのものを目にした時の、ハッと息を呑む様な感嘆を感じてしまって。思わず、彼を凝視したまま、出入り口付近で固まりそうになってしまったのだけど。


「笹川さん、お身体、本当に大丈夫なんですか?」


窓口業務にあたっている岸さんの心配そうな声に、はたりと意識を取り戻して。僕は慌てて、その質問に答えた。


「あ、はい、大丈夫です。腫れの処置もして頂いたので、口も動かしやすいですし」

「そうですか……あの、差し出がましいのは承知ではあるんですが、もしDVや暴力行為の被害に遭われているようでしたら、そうした専門の窓口があるので、ご紹介致しましょうか?一人で悩まれるよりは、確実に良い方向にお話が進むと思うのですが……」

「いや、はは……そう、ですね。何かそうした場面に遭遇したら、連絡してみようかな」

「でしたら、いま連絡先をお伝えしますので、お掛けになってお待ち下さい」


人を安心させる様な温かな微笑みに、僕は、すっかりと絆されてしまって。いつの間にか、その申し出を受け入れていた。連絡先を教えて貰うくらい、なんて事は無いのかもしれないけれど、母親ではない誰かに心配して貰えたのは、久しぶりだったから。この歯科で出会った二人の優しさに、胸がじんわりと温まった。


だけどもう、僕は、ここには来ないだろう。これだけの事件性の匂いを纏わせた人間が、これから先もこの歯科医院に罹る様になったら、この歯科医院にも、『会社』の魔の手が及ぶかもしれないからだ。こんなに優しくしてくれた二人に、迷惑だけは掛けたく無い。僕なんかに関わった所為で、この優しい人達が嫌な思いをしたらと思うと、それだけで胸が痛む。だから、久しぶりにこの身に受けた安らぎを胸にして、微かに笑みを浮かべながら、窓の外の景色に視線を寄せて、そこから見える紅葉に、ホッと一息吐こうと、したら。


「殴った奴、下手くそだなぁ。跡に残る怪我させたら、面倒にしかならないのに。ビビらせるだけなら、『ぶん殴られた』って意識と痛みだけ与えて、跡にしないのがプロってもんでしょ。そう思いません?」


いつの間にか、驚くほど近くに……いや、目の前に、絶世の美貌を持った青年がいて。脈絡も何もなく、僕に同意を求めてきた。さっきの、あの、野生動物だ。僕の視線の先にいた。なんとなく目が離せない、あの。モデル体型なのに、身体の厚みがあってムキムキの。そんな人が、どうして突然、僕に声なんて?


「DVなら仕方ないけど、好きでもない相手からなら、訴えた方がいいよ。だけど、それ以上に厄介な相手だっていうなら、ちゃんと最後まで戦いな。道端の蟻みたいに踏み潰されても仕方ないと思ってんなら、話は別だけどね」


言いたい放題、言ってくるなぁ。僕の事情とか、全く分からないのに、なんで、しかもこんな上から目線で。初対面でその感じ、凄いな。何だか、今まで出会ってきた事がないタイプだから、動揺しかない。のに、心の中では、何故か、彼の言葉に耳を貸したくなる気持ちが芽生えていて。


「DVなら、仕方ないって、なんで」

「好きなんでしょう?洗脳かもしれないけど。でも、そこに二人にしか分からない幸せがあるなら、他人が口挟む問題じゃないじゃん」

「それは、でも、突き放し過ぎてやしない?」

「何、違うとは思うけど、あんたそれなの?」

「違う、けど」

「じゃあ、目の前に居もしない可哀想な人なんて同情してないで、自分の事もっと大事にしなよ。他人の心配するよりか、まずは、自分でしょ」


言葉一つ一つに対する、説得力とか。


「自分が、幸せになる方法、考えなくちゃ」


迷いの無い、澄んだ眼差しだとか。


「折角、あんた、可愛い顔してんだしさ」


率直過ぎる、素直さだとか。


「勿体無いよ」


誰かを救うのに、時間なんて必要ないと、人によっては思えるかもしれないそれらに、僕の心は、震えた。


一条いちじょう すぐるさん、中へどうぞ」

「あ、呼ばれた。じゃあね………おにーさん」


颯爽と、何処か、意気揚々とした空気を纏わせた青年の背中は、広くて、逞しくて、だけど。


「あと、俺に惚れても良いけど、面倒臭いから、嵌まったり纏わり付いたりしないでね」


僕の胸を、ざっくりと抉る様な鋭い痛みを齎す、その言葉選びの数々に、僕は。


「しない」


出会ったばかりのその青年を、深く、深く、憎んだ。


「君に、恋なんてしない。絶対に。君に何が分かるの。僕のこの絶望が、悪夢が、どれだけ深いか知らない癖に。今こうして、季節の変わり目にしか見れない窓辺の紅葉に、ほんのひと時だけでも癒されたいと思う僕の邪魔をして……言いたい事だけ、偉そうにペラペラと。何様なの。誰だよお前。なんでも良いから、僕の時間を、返して」


憎悪の籠った眼差しで一条 傑と呼ばれた青年を睨み付ける。すると、青年は僕を振り返って、今まで全く興味関心を覗かせなかった眼差しに好奇心をほんの少しだけ忍ばせた。


「ふぅん。おにーさん、最初の時と全然印象違うね。悪くないなぁ。俺、今のあんたの方が、好みかも」

「いいから、さっさと僕の視界から消えて」


くすくすと、何やら愉しそうにして笑声を上げてから、一条という青年は、歯科の出入り口の引き戸の向こうに消えていった。それに、ほ、と胸を撫で下ろしてから、僕は、腹の底でふつふつと煮えたぎっていった苛立ちに、いつの間にか全身を支配されてしまった自分自身を恥じた。


一体、何をやってるんだ、僕は。

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