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最終話 だけど、綺麗で美しい化け物は、いる

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 閉じていた瞼を開くと、隙間なく生え揃ったビル群が眼下に望めた。とてもとてもつまらないその景色に対する執着は自分の中にはまるでなく。その代わりに、その場でゆっくりと屈伸したり、伸びをしたりして全身の筋という筋を伸ばし、自分の意識を身体の隅々まで行き渡らせていった。


生身で感じる五感を存分に体感すると、俺は逸る胸の鼓動を押さえ付けながら、一直線にあの人のいる寝室へと向かった。ドアノブに振るえる手を伸ばして、ゆっくりと寝室に続く扉を開くと、その人は硬いフローリングの上で正座しながら、大きな段ボールに大量のカップ麺を詰め込んでいた。


いつだって眺め続ける事しか出来なかったその人の背中を、こんなにも間近で望める事実に感極まると、俺はその場で立ち尽くして、その場から痺れてしまった様に動けなくなってしまった。


遠く彼の地からこの身体を操作している時とはまるで違う、肉眼で捉えたその人の輪郭が、次第にぼやけていく。それと同時に頬を生温い何かが流れていったので、邪魔臭いな、と思いながらそれを手の甲で拭うと、無言で涙を流し始めた俺のその気配に気が付いたその人が、俺の居る方を静かに振り返った。


まるでスローモーション。そしてその人は、その眼差しに慈しみと労りを馴染ませると、穏やかに微笑んでから、俺の名前を呼んだ。


「おかえり、玲人」

「ただいま、湊さん」


短い挨拶を交わすと、俺も湊さんの作業を手伝う為に彼の隣に腰を下ろした。三ヶ月前、半年掛けて貯め込んだカップ麺は賞味期限がギリギリの物も多く、確かに身近な人物でなければ迂闊に配れない様な代物となっている。引っ越し作業の圧迫に一役買っているそれに、恐らくは静かに怒っているだろう湊さんの横顔に向けて、恐る恐る声を掛けた。


「忙しいのに、仕事増やしてごめんなさい」

「いいよ、もう。でもこんなに買う必要あった?周りに笑われたらお前の所為だからな」

「うん、分かってる。実際、これだけ時間が掛かったのは俺の所為なんだし」

「まぁ、お前の努力の結晶だと思えば、怒りも湧いてこないよ・・・それにしても、良く馴染んだね」


言われてみてから、改めて全身の状態を確認する。時間を掛けて自分の存在を馴染ませていった結果、最初の頃の様な反発も無く、頭の天辺から足の爪先まで、自分の意識が隅々行き渡って、さながら初めから自分の身体であった様に違和感が無い。以前入手した女の器は俺という存在に耐え切れず数ヶ月と保てなかったが、これならば人間の寿命相当分は堪えきれるかもしれない。


本人の持つ柔らかな性質に反して、人間の魂にこびり付いた穢れを主食としている湊さんの為にも、俺が先回りして、穢れた魂の持ち主に接触する必要がある。そして、その魂を先に自分の中に取り込んで、俺を介してその魂を浄化して貰うのだ。そうすれば、この人は食事という名のしたくも無い浮気をしなくて済むのだから。


この人は、昔から邪なる者に憑かれ易い。人が良くて、誰にでも優しくて、生きている人間にすら、付け込まれ易くて。それがこの人の持つ邪なる者を誘き寄せる特質なのだから仕方が無いにせよ、だからこそ俺が守ってあげなくちゃいけないのに。この人が社会人という立場になって働く様になってから、段々と上手くいかなくなって、この人が俺から離れてしまってから、余計に目が届かなくなってしまった。今回は、間に合って良かった。目の前で食事という名目の浮気をされる前に、この器と魂を完全に確保出来たのだから。


「お前がここに来たってことは『あっちの掃除』が終わったって事だよな。なら、もう引っ越し業者を呼んでも大丈夫かな?」

「はい。近所の人達からは、俺達は何も知らずに最近空き家になったばかりの『事故物件』に越してきた、世間知らずの若者扱いをされています。でも、その方が都合が良いでしょう?このマンションの時みたいに」

「そうだね、その方が近所付き合いしなくて済むから丁度良いし。それにしても、少しくらい調べれば、このマンションで死んだ二人が、俺の関係者だった事くらい分かるだろうに・・・秀一先輩は、そんな可能性すら考えない人だった。良い人と言われればそうなんだけどね」


前回の器が駄目になり、俺の新しい器を湊さんが探し出してくれるまでの間、湊さんはその存在を保つ為に、あらゆる人間達の悪意と欲望とに塗れなければならなかった。その中の人間の二人が、このマンションに住んでいた男女だったのだ。


初めの内は男の方とだけ関係を持っていた湊さんは、本来男の本命であった女にも関係を持ち掛けられ、その食欲を満たす為に、二人の欲望の渦にその身を投じて行った。それを見過ごすしかなかった俺の苦悩は饒舌に尽くし難いものだったが、先に湊さんによって魂の穢れが払われた男がその三角関係を維持する気力を失い、その関係性が破綻。そして、男が別れ話をした途端に女が逆上し、無理心中を図った為、俺にとっての地獄の日々は唐突に終わりを迎えたのだ。


そして、下手な噂が立つ前に男と出会った職場を辞めた湊さんは、石崎 秀一と出会った。生きる為とは言え、好き好んで人間の悪意や欲に塗れていた訳では無かった湊さんにとっても、湊さんのパートナーである俺にとっても、彼との出会いは、間違いなく運命の出会いだったのだ。


「良い人?・・・ふふ、それって、都合が良い人っていう意味ですか?」

「・・・僕、お前のそういう所が、昔から良くないと思っているんだよね」

「臍を曲げないでよ。それに、そんな事言われても、ただ可愛いだけだよ」


心の底からの喜びを形にして微笑むと、お互いの視線が、ゆっくりと溶け合う様に絡んでいった。何も申し合わせていないのに、自然に引き寄せられる様にして、唇を重ね合う。数十年ぶりに味わうその人の柔らかな唇の感触にうっとりと目を細めると、俺は視線だけをベッドの下にある空間に向けた。


目と目が合う。怯えた男の目だ。湊さんに出会い人生が狂わされた結果、女に恨まれて殺された男は、今もこの部屋に居て、ずっと俺達の会話を聞かされていた。だからこその、怯えた眼差し。死してなお安寧を許されないその可哀想な魂は、俺の反感を大きく買った事により、女による強烈な呪縛が無くなってからも、この場所に留まり続けている。


俺との密約を交わし、決して湊さんには手出ししない、存在すらも隠していくと誓っている為、それ以上の動きは取らないが、この八カ月間に渡る秀一さんを通して行ってきた奇怪な行動を見て、漸く俺の言わんとしている意図が伝わったらしい。


週三回×半年間、このベッドの下に、人間が女の力であっても窒息させられる時間ぴったりに食べられる様になるカップ麺を並べ続けた。その数、七十二。その男と自害した女の遺体が発見されるまでの日数分あるそれは、壮絶な最後の瞬間を迎え、自分の身体が腐り、蛆が湧き、その蛆が蠅となり、再び身体に卵を産み付け、次第に白い骨が浮いてくるその様を繰り返し見せ続けてやる、という俺の無言の宣告でもあった。死の瞬間の苦しみを味わい、次第に自分の身体が朽ち果てていく姿を強制的に見せつけられるという地獄を、未来永劫味わい続けるといい。湊さんの肌を味わった、その場所で。


「寂しかった。辛かった。あなたに会えなくて。触れられなくて。声すら聴けなくて。愛してる。もう、何があっても、ずっとずっと、一緒だからね」

「うん。僕も・・・だから、もう僕の側から、絶対に離れないでいて」


その言葉を合図に、俺達はその場で獣の様に馬鍬った。果てしなく続く道行きの中で、再びこうして触れ合えなくなる時は必ずやって来るだろう。けれど俺達は、もう何があっても、今回の様な悲劇は繰り返したりしない。


綺麗で美しいだけの生き物なんていない。
だけど、綺麗で美しい化け物は、いる。

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みんなの感想(5件)

ひより
2022.08.09 ひより

主人公が、段々と翻弄されていくのが、読んでいて面白かったです!

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きょうすけ
2022.08.09 きょうすけ

攻めの得体の知れなさが、良い意味で読後感が気持ち悪くて、印象的でした。また一から読みます!

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みねぎし
2022.08.09 みねぎし

最後、ゾワッとしました。夏にぴったりなお話をありがとうございます。

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