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第一章 『憧憬』
第二話 矢澤 律
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彼を次に目撃したのは、実家のリビングに置かれたTVの画面越しだった。顔を見ただけでは分からなかったけれど、白いチョークの入った袋をポンポンと手の中で遊ばせてから両手を擦り合わせ、真剣な表情を浮かべてからカメラに向かって彼が背を向けた瞬間に、その正体がジムで見かけたその人であると、僕の目にも直ぐに分かった。だから、あ、と小さく声を上げて、齧り付く様にしてTVに釘付けになった僕を見て、一緒にTVを見ていた幼馴染の時田 歩は、その場で直ぐに『え、何?』と疑問を呈した。
「誰?知り合い?」
「黙ってて」
名前なんて知らない。知り合いでも何でもない。今後も知り合いになりたいとは特別思わない。だけど、見なくちゃいけない。何故ならそれが、僕の、あの綺麗な生き物をこの目で見た人間の、義務だから。
「アイドルみたいな顔してるね、この人。矢澤 律?……あ、ファンクラブあるって。やっぱりなぁ。この顔に実力までくっ付いてたら、ほっとかれないよね、うんうん」
黙ってろって言ったのに、こいつは。だけどスマホって便利だよね。正直有難いけど、今は話してる暇なんてない。
「俺らより二つ下だって。史上最年少で国内大会で優勝してオリンピック強化選手になったらしいよ、凄くない?」
「後で調べるから自分で。だから、本当に今は黙ってて」
「へいへい」
壁についたホールドと呼ばれるカラフルな石のそばに、目印になるマークがある。同じマークのホールドだけを使って、スタート地点からゴールを目指し、ゴールのホールドを両手で触れたらクリア……そのルールを解説者の説明によりざっくりと理解すると、僕は再び、野生動物のそれの様に、ごく自然にそのコース、所謂『課題』と向き合っていく矢澤選手を食い入る様に見つめた。
四肢が長いという生まれ持った素質を遺憾無く発揮し、他の選手が諦めたり時間を掛けて取り組んでいた難所を物ともせずにクリアして、ゴールに向かってするすると進んでいく矢澤選手は、オリンピックという大舞台の最中にありながら、既に王者の品格を備えていた。
「これ、金メダル間違いないなぁ」
同じ感想を胸に抱いていた僕だけど、その視聴者の慢心が画面越しにでも伝わってしまったら、まかり間違って、彼にもそれが伝染してしまうんじゃないか、だなんて有りもしない想像を働かせてしまって。僕は、もう一度、歩に『静かに』を伝えようとした。
そうして、一秒も満たない、ほんの一瞬。僕が画面から目を離した瞬間に。
画面の向こうにいた矢澤選手は、ゴールの手前にある最後の課題を前にして、手を滑らせた。
「……っあ、」
恐らく、彼を見つめていた世界中の誰しもが口にした、言葉にならない、小さな絶叫。スタート地点に戻されて初めからやり直しになり、悔しげに顔を歪める矢澤選手のその姿は、漸く年齢相応に見えた。
その後も、矢澤選手は、幾度となくゴールのホールド手前にまではチャレンジしていったものの、最後の最後に用意された課題を前にして悪戦苦闘し、初めから課題をやり直していった。その表情には、先程まであった焦りや悔しさは感じられはしなかったけれど、僕の中にある絶対王者を前にした凡人の安心感は次第に薄れていった。
目の前に聳える課題を前にして、ただ黙々と自分自身との戦いに身を投じる一人の才能ある若い選手を応援する、一視聴者の視点になっていく自分自身に信じられない気持ちを抱く。
そして、TVに向かって貝合わせに手を固く結び、祈りを込めた瞬間に、『何様なんだ、僕は』と、はたりと意識を取り戻した。
僕みたいな人間が祈った程度で、彼に何の力になるというのか。
そして放たれる、時間切れを知らせるブザー。絶対王者から、他の選手と横並びの位置に佇む一人のチャレンジャーになった青年は、チョーク塗れになった白い手を握り締め、クライミングウォールを振り返る事なくその場を後にした。
スポーツクライミングは、15mの壁を2人の選手が同時に登り速さを競う『スピード』、高さ4mの壁を制限時間内にいくつ登れるかを競う『ボルダリング』、制限時間内に高さ15m以上の壁のどの地点まで登れるかを競う『リード』と、各選手がこの3種目を行い、その合計点で順位が決まる。どの選手も得手不得手があるため、2種目終了時点では最終順位の予測ができず、最後まで結果が分からない状態にある競技だ。矢澤選手は、『ボルタリング』では五位という振るわない成績に終わったが、『スピード』と『リード』に置いては輝かしい成績を残していた為、結果的に銀メダルを獲得するに至った。
国内史上においては、史上最年少かつ過去最高の好成績を収める結果となったけれど。それを讃える明るい口調のインタビュアーの取材に応える矢澤選手の顔に、一切の笑顔は無かった。
事実を事実として受け止め、真っ直ぐに前を向く矢澤選手を見ているだけで、胸の内側にこれまで感じた事がない熱い想いが満ち溢れていく。
そして僕は、人生で初めて、家族や友人以外の存在を、この先もずっと応援して行きたいと、心の底から思えたのだった。
彼を次に目撃したのは、実家のリビングに置かれたTVの画面越しだった。顔を見ただけでは分からなかったけれど、白いチョークの入った袋をポンポンと手の中で遊ばせてから両手を擦り合わせ、真剣な表情を浮かべてからカメラに向かって彼が背を向けた瞬間に、その正体がジムで見かけたその人であると、僕の目にも直ぐに分かった。だから、あ、と小さく声を上げて、齧り付く様にしてTVに釘付けになった僕を見て、一緒にTVを見ていた幼馴染の時田 歩は、その場で直ぐに『え、何?』と疑問を呈した。
「誰?知り合い?」
「黙ってて」
名前なんて知らない。知り合いでも何でもない。今後も知り合いになりたいとは特別思わない。だけど、見なくちゃいけない。何故ならそれが、僕の、あの綺麗な生き物をこの目で見た人間の、義務だから。
「アイドルみたいな顔してるね、この人。矢澤 律?……あ、ファンクラブあるって。やっぱりなぁ。この顔に実力までくっ付いてたら、ほっとかれないよね、うんうん」
黙ってろって言ったのに、こいつは。だけどスマホって便利だよね。正直有難いけど、今は話してる暇なんてない。
「俺らより二つ下だって。史上最年少で国内大会で優勝してオリンピック強化選手になったらしいよ、凄くない?」
「後で調べるから自分で。だから、本当に今は黙ってて」
「へいへい」
壁についたホールドと呼ばれるカラフルな石のそばに、目印になるマークがある。同じマークのホールドだけを使って、スタート地点からゴールを目指し、ゴールのホールドを両手で触れたらクリア……そのルールを解説者の説明によりざっくりと理解すると、僕は再び、野生動物のそれの様に、ごく自然にそのコース、所謂『課題』と向き合っていく矢澤選手を食い入る様に見つめた。
四肢が長いという生まれ持った素質を遺憾無く発揮し、他の選手が諦めたり時間を掛けて取り組んでいた難所を物ともせずにクリアして、ゴールに向かってするすると進んでいく矢澤選手は、オリンピックという大舞台の最中にありながら、既に王者の品格を備えていた。
「これ、金メダル間違いないなぁ」
同じ感想を胸に抱いていた僕だけど、その視聴者の慢心が画面越しにでも伝わってしまったら、まかり間違って、彼にもそれが伝染してしまうんじゃないか、だなんて有りもしない想像を働かせてしまって。僕は、もう一度、歩に『静かに』を伝えようとした。
そうして、一秒も満たない、ほんの一瞬。僕が画面から目を離した瞬間に。
画面の向こうにいた矢澤選手は、ゴールの手前にある最後の課題を前にして、手を滑らせた。
「……っあ、」
恐らく、彼を見つめていた世界中の誰しもが口にした、言葉にならない、小さな絶叫。スタート地点に戻されて初めからやり直しになり、悔しげに顔を歪める矢澤選手のその姿は、漸く年齢相応に見えた。
その後も、矢澤選手は、幾度となくゴールのホールド手前にまではチャレンジしていったものの、最後の最後に用意された課題を前にして悪戦苦闘し、初めから課題をやり直していった。その表情には、先程まであった焦りや悔しさは感じられはしなかったけれど、僕の中にある絶対王者を前にした凡人の安心感は次第に薄れていった。
目の前に聳える課題を前にして、ただ黙々と自分自身との戦いに身を投じる一人の才能ある若い選手を応援する、一視聴者の視点になっていく自分自身に信じられない気持ちを抱く。
そして、TVに向かって貝合わせに手を固く結び、祈りを込めた瞬間に、『何様なんだ、僕は』と、はたりと意識を取り戻した。
僕みたいな人間が祈った程度で、彼に何の力になるというのか。
そして放たれる、時間切れを知らせるブザー。絶対王者から、他の選手と横並びの位置に佇む一人のチャレンジャーになった青年は、チョーク塗れになった白い手を握り締め、クライミングウォールを振り返る事なくその場を後にした。
スポーツクライミングは、15mの壁を2人の選手が同時に登り速さを競う『スピード』、高さ4mの壁を制限時間内にいくつ登れるかを競う『ボルダリング』、制限時間内に高さ15m以上の壁のどの地点まで登れるかを競う『リード』と、各選手がこの3種目を行い、その合計点で順位が決まる。どの選手も得手不得手があるため、2種目終了時点では最終順位の予測ができず、最後まで結果が分からない状態にある競技だ。矢澤選手は、『ボルタリング』では五位という振るわない成績に終わったが、『スピード』と『リード』に置いては輝かしい成績を残していた為、結果的に銀メダルを獲得するに至った。
国内史上においては、史上最年少かつ過去最高の好成績を収める結果となったけれど。それを讃える明るい口調のインタビュアーの取材に応える矢澤選手の顔に、一切の笑顔は無かった。
事実を事実として受け止め、真っ直ぐに前を向く矢澤選手を見ているだけで、胸の内側にこれまで感じた事がない熱い想いが満ち溢れていく。
そして僕は、人生で初めて、家族や友人以外の存在を、この先もずっと応援して行きたいと、心の底から思えたのだった。
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