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第一話 四代目・桐生との出逢い

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硝子障子越しに望める坪庭は、噂に違わずそれは見事なものだった。山茶花や椿といった深紅の花で化粧を施した常緑樹が、苔生した地面と一体化し、露地の意匠を転用した蹲踞や石灯籠がしっくりと配されている。見る者に実際よりも奥行きを感じさせるよう、隅々まで計算し尽くされた坪庭のその翠緑をぼんやりと目に映しながら。百舌鳥もず 彰宏あきひろは出された煎茶に静かに口を付けた。


じんわりと、口内に広がる湯熱。これをありがたいと思えるほどの季節だった。吐く息は薄っすらと白く、書院造りの和室に溶けて消えた。


「失礼致します」


すっきりと澄んだ声と共に、人一人分、すらりと襖が開けられた。茶托に湯呑みを置いて其方に視線を移す。羽織姿の男が膝をついて頭を下げたので、此方も少しだけ居住まいを正した。


「お待たせしました。準備が出来ましたので、ご案内致します」


一つ頷いて、胡座をかいていた足を崩して立ち上がる。座敷から出ると、彰宏は先導する男に追随した。歴史ある町家を改装した建物ではあったが、歴史を感じさせる造りが随所に残されていた。いま上がっている箱階段もその一つだ。狭い空間を有効的に使う為に、階段下の無駄な空間を箪笥として利用している。階段を上がり終えると、思った以上に広い空間が広がっていたので、彰宏は少しだけ目を見開いた。


先程通された和室の奥の間が待合室なのだとしたら、ここは差し詰め洋間の応接室といったところか。木枠に嵌まった硝子窓、濠天井に寄木貼り床などは時代を感じさせたが、それ以外はそっくりと改装がなされており、置かれた調度品に至るまで、当世風に作り変えられている。暖色の間接照明が、蔵書や資料でみっちりと覆われた壁面を照らし、細かな凹凸の陰影を生み出していた。


部屋の真ん中に置かれた、存在感のある黒檀の一枚板の卓に促される。椅子を引かれたので、そこに腰を下ろすと、卓を挟んで反対側の椅子に男が歩みを進めたので、彰宏は目を剥いて驚いた。


「……え、もしかして」


驚愕が、口を突いて出た。男が此方を振り返る。彼は、彰宏の反応を見るなり口許に手をやると、堪えきれずといった風に小さく笑った。


「知らないで、来たんですか?」

「いや、まぁ…話には聞いていたんですが」

「なんて?」

「……腕にしては随分と若い、とか」


ーーー別嬪だ、とか。


その生まれ育ちから、配慮だとか気遣いだとか、そういった方面には割と疎い方の彰宏も、それは流石にと思い、言わずに堪えた。同性に面と向かって使うには、余りにも失礼だと思ったからだ。


あの人達、揶揄ったな。自分の胸の内に生まれた苛立ちを紛らわせる為に、今朝方、遜った態度で自分を送り出した幹部連中の顳顬を、自らの正当性を持ってして、頭の中で端から順繰りに蹴飛ばしていく。


当代きっての腕前である、だの。彫られた『それ』を背負うだけで箔がつく、だの。泣かした男は数知れず、だの。


兎角、他の情報はぺらぺらと口にする癖に、何故肝心の、相手の正体や性別を教えてくれなかったのか。答えは分かり切っている。自分は、暇を持て余した大人連中の、遊び道具にされたのだ。


一体どんな『女』なのかと、珍しく興味を持った自分が恥ずかしくてならない。あとで、全員須らく、こっぴどい目に遭わせてやると心に決めてから、彰宏は、男へと向き直った。


男は、反対側の椅子に座って頬杖をつき、何を考えているのか分からない表情で此方を眺めていたが、彰宏が思考の海から抜け出たのに気が付いたのだろう。目尻を和ませると、此方にひらひらと小さく手を振った。


「……失礼しました。少し考え事をしてしまって」


彰宏が頭を下げて無礼を謝ると、男は気にしないでいいといった風に、少しだけ首を横に振った。


「こんな奴で、がっかりしちゃいました?」

「いや……腕さえ良ければ、俺はそれで構わないので」

「そうですか?なら安心しました」


男が顔を綻ばせた。精神的に無防備になっていたのも手伝って、彰宏は、彼のその笑顔を、うっかり真正面から受け止めてしまった。


……へぇ、と思わず頭の中で腕を組み、彼を観察する。


濡羽色の艶のある髪。
白花の様に透き通った肌。
細めがちだが、婀娜っぽい瞳。
一雫赤を落とし込んだ、ふっくらとした薄紅の唇。


別嬪、ね。その美貌は、基本的に女にしか食指が動かない彰宏にあっても目を惹くものがあった。その女にだって、食指が動いた事は滅多にないのだけれど。


しかし、確かに、これならばーーー。


って……何考えてんだか、と彰宏は揺蕩わせていた意識を袂に手繰り寄せ、小さく頭を振った。


鈴を転がした様な笑い声が耳に届く。
彰宏は、内心で舌を打った。


「ころころ表情が変わって、見てて楽しかったですよ」

「……それは、どうも」


褒められた訳では無い事は分かりきっていたが、一々食らいついても此方の度量が知れてしまう。
彼の前では、平静を保たなければならない。


ーーー何故なら、もう彼による『面接』は始まっているのだから。


「……それで、貴方の目から見た俺は、合格ですか?」


彰宏がそう口にするや否や。男の目が、すうと細められた。此方を値踏みするような視線が、彰宏の表面を、するすると滑っていく。それに居心地の悪さを感じながらも、彰宏は黙ってそれを受け入れた。


長い沈黙が訪れた。
それを破ったのは、男だった。


「お年を尋ねても?」

「今年で、二十三になります」

「ご紹介は、確か……」

「うちの若頭の、城島さんです」

「あの人は、なんて?」

「行けば分かると言って、後は何も」

「……そうですか」


男は一言ぽつりと落とすと、そろそろ彰宏が痺れを切らせるだろう、という前の、絶妙な加減で彰宏から視線を外した。壁面収納が続く廊下の奥に、吊るされた硝子張りの提燈がある。その橙を瞳の中に映しながら、男は口を開いた。


「あの人の『蛇』は、先代の作なんですけどね……俺が突き直しをしたら、大変気に入って下さいまして。それから何かとご縁があるんですよ。こうして素敵な方のご紹介までして頂いて……彫師としては、冥利につきますね」


その言葉選びに、彰宏は静かに反応した。男に気取られぬよう、膝の上で小さく拳を握って、背筋を駆け上る喜悦をやり過ごそうとした。


男は頬杖をついていた手を、緩慢な動きでもって膝の上へと下ろした。そうしてから、改めて彰宏と視線を絡ませると、口元に、ゆったりとした笑みを浮かべた。


「名乗り遅れまして、申し訳ございません……俺が、四代目・桐生きりゅうを襲名した者です。以後よしなに。百舌鳥家の御子息様」

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