上 下
3 / 11

第三話 猛々しき、昇り龍

しおりを挟む


図案が完成したとの連絡を受けたのは、それから二週間後の事だった。思い出すだけでも煙たくなるような面々と向き合って行う定例会を終えてから、自分の持ち物でもある黒塗りの車に乗り込んだ。


店に着くと、初日と同じく、明るい雰囲気のある快活な男が彰宏を出迎えた。半年店に通うのだから名前を知らないと不便だろうと思い名前を尋ねると、眞田とだけ、苗字を名乗った。玄関で靴を脱ぐと、愛想の塊とも言える柔和な物腰の眞田に先導されて、元は通り庭だった廊下を歩いていった。


箱階段を上がると、前と同じ椅子に座って足を組み、煙管を燻らせていた着物姿の四代目と目が合った。かつん、と陶器の灰皿に灰を落とすと、彼は、初めに名乗った時と同様に、ゆったりとした笑みを浮かべた。


「こんにちは。彰宏」


少なからず鷹揚なその態度は、普段、遜った態度でしか相手をされてこなかった彰宏の目に、新鮮なものとして映った。


「早く画が見たいだろ?こっちにおいで」


手招きをされたので、其方へと足を進める。黒檀の机の上に広げられた一枚の画を見て、彰宏は驚愕に目を見開いた。


何とも見事な、昇り龍だ。


猛々しく荒々しい一匹の龍が、焔を棚引かせながら雲海を突き抜け、いまにも天を食らいつくさんかとばかりに大口を開けている。凄まじくも神々しい光輝を放つその画に、彰宏は稲妻に打たれたかのような衝撃を受けた。


あまりにも魅入り過ぎたのか。四代目が、眼前でひらひらと手を振ってきた。それにより、彰宏は、遠くに誘われていた意識を漸く袂へと手繰り寄せた。


「そんなに、気に入った?」

「……はい。これが良いです」

「他にも一応、描いてはみたけど」

「いえ、大丈夫です。これを彫って下さい」

「思い切りがいいな」


四代目は口許を和ませると、組んでいた脚を解いて、ゆるりと立ち上がった。 


「作業場に案内するよ。付いておいで」


硝子製の提燈が照らす廊下を、きしきしと音を立てて歩いていく。四代目が一枚の扉前でぴたりと歩みを止めたので、彰宏もそれに倣った。


距離らしい距離はなかった。作業場は、応接室の隣にあったからだ。


四代目が扉を開ける。中は、一段上がった畳敷きの部屋、所謂小上がりになっていた。多分、収納を考えて造られた部屋なのだろう。小上がりの側面は、引き出し状になっていた。


部屋の右手には、黒い敷布を掛けた布団が。左手には、機材や染料が入っていると見られる棚や引き出しが、整然と並んでいた。布団の真横には、今から使うであろう機材が既に準備されている。


指示されたので、服を脱ぎ、下着まで取り払い、それらを簡単に畳むと、用意してあった籐の籠に入れてから、布団にうつ伏せになった。部屋の空気は火鉢の熱で暖められていたので、裸であっても苦ではなかった。


今回は、下絵の転写と、画の輪郭を彫っていく筋彫りを出来るだけ進める事になっている。時間にして、五、六時間。その痛みの壮絶さたるや如何許りか。いままで、散々周りから聞かされてきたそれを、これから己が身で経験する事になる。それを思うだけで、彰宏の身体に緊張が走った。


それを逃す為に、彰宏はゆっくり深呼吸をした。すると、頭上に微かな笑い声が降ってきたので。内心で鋭く舌を打った。


「いまからこんなじゃ、保たないぞ」

「分かってますよ。でも、お手柔らかになんて、言いませんから」

「どこまで、そんな悪態が吐けるかな」

「余計なことはいいので、さっさとやって下さい」

「はいはい」


剃刀で背中の産毛を剃毛し、酒精で滅菌されたあと、下絵の書かれた和紙を、へたりと貼り付けられた。上から専用の液体で打ち水をして和紙全体を濡らすと、よく乾燥させてから、それは、ゆっくりと剥がされた。染料が肌膚の上に乗ったのを目視で確認される。そして、いよいよ筋彫りの工程に入ろうと言うとき。四代目から、柔らかく声が掛けられた。


「前にも思ったけど、綺麗な肌膚だな。それに、まるで弛みがない」

「そうですか。自分の背中なんて、まじまじと見るものじゃないから、よく分かりません」

「だろうな。だけど、ようく鍛えられているのに、日焼けも殆どしていない。ここまでの上物はそうそう見かけるもんじゃないよ」

「ふぅん……でも、それにこれから貴方は墨を入れるんですよね。一体、どんな気持ちなんですか?」

「どんな女を抱くよりも、興奮するよ」

「震えて、手元を狂わせないで下さいね」

「ふふ、善処するさ……で、気持ちは固まったか?」


意外な言葉に、思わず頸だけで振り返った。


「……もとから」

「嘘を吐くなよ。震えてるぞ」

「武者震いですよ」

「彰宏。墨を背負うってのはな、後戻り出来ないって事だ。お前は、それをきちんと分かってる。だから、いままでこうして、綺麗な身体でいたんだろう……違うか?」


本心を、ずばりと言い当てられて。彰宏は、消沈する意思を何とか誤魔化そうと、細く長く、息を吐いた。


「……生まればかりは、どうしようもありませんから。覚悟は出来ています」


百舌鳥家の跡取り息子として生を受けて。妬み、嫉みといった悪感情に晒され続け。時には虐めだって受けて、嫌な事ばかりの日々を送ってきた。


自分の本来持っている性質とはかけ離れた仕事もせねばならなかったし、幾度だって逃げ出したくなった。


だが、その意識を変えてくれた出会いがあった。


城島 幹雄。


彼の背に描かれた蛇を、一度目にした、その時から。


「本当は、墨なんて入れるつもり無かったんです。いつだって死んだっていい。そんな腐った気持ちで生きてきたから。でも、貴方が入れた墨を見て、その意識が変わったんです」

「俺が入れた墨?」

「ちょっと前に、大きな『喧嘩』があって。流れ弾が城島さんの腕に当たったんです。太い血管を掠めたみたいで、病院に行くことになって……俺は、それに付き添いで行ったんです。その時、貴方が突き直しした、あの人の背中を見ました」


その時の鮮烈な記憶を思い起こして、彰宏は、緊張とはまた違う身の震えを覚えた。きっと、興奮で頬は紅潮しているだろう。


「……はっきり言って、痺れました」


赤と黒。二匹の蛇が絡み合い、縺れ合いながら、長い舌をちらちらと靡かせて威嚇しあっている、その様と。透間に配された支子色の菊の花の彩に、彰宏は、圧倒された。


「どうせどこかで野垂れ死ぬ人生なら、背負ってしまうのも悪くはない。それまでは、何があっても死にたくない。そんな風に思えるくらい、芯からどっぷり嵌まり込んでしまったんです……つまり俺は、貴方の腕に惚れたんですよ」


城島の怪我が癒えるのを、じりじりと待って。只管待って。包帯が取れたと同時に、頭を下げに行った。どうか、彫師を紹介して欲しいと。


父親以外の人間に、彰宏が人に頭を下げたのは初めての経験で。だからきっと、どこまでもぎこちなく不恰好なものだっただろう。


城島はそれを知っているから、快く、彰宏を送り出してくれた。とっておきだぞ、なんて穏やかに笑って。


「だから、後悔なんて絶対にしません」


はっきりとそう告げると、四代目の纏う空気が、ふるりと振動した。そして、暫し重苦しい沈黙が訪れた。彰宏には、彼の気持ちを慮るだけの有余も無ければ甲斐性もなく、ただそれを黙って受け流す事しか出来なかった。


まだ、それだけ自分が幼いのだと、思い知ってしまって。それが情けなくて悔しくてならなかった。だから、四代目がいま、どんな顔をしているのか、とても知りたかったのに。彰宏には、その衝動を胸の内で押し殺すしか術がなかった。


俺は、餓鬼だ。分かってる。だから、ここに来たんだ。墨を入れたところで、自分の知る大人達の仲間入りを果たせるとは到底思ってはいないが。だけれど、門扉を叩く事くらいは出来るかもしれない。そう、彰宏は、四代目に背中を押して貰いに来たのだ。


この道を生きる『漢』になる為に。


「……そうか。なら、もう俺から言うことは、何も無い。悪いけど、これから先は、泣こうが喚こうが止めてはやれない。それに、尻まで掛かる画だから、長丁場になる。途中で気をやっても構わないからな」


穏やかな、慈しみに溢れた声が掛けられる。だが、確かな厳しさもその中に見出して。


「……分かりました」


彰宏は、そっと口許に差し出された布を、噛み締めた。
しおりを挟む

処理中です...