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第八話 もう、いいかい

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春が到来した。坪庭の木々は光長閑けく降り注ぐ暖かな陽光を浴びて、その芽を惜しみなく萌えさせていた。


緑碧玉のように深い緑から、萌黄色へと漸次的に変化していくその新緑を、彰宏は、出された煎茶に口を付けながら、ぼんやりと眺めた。


背後で、襖が、するすると静かに開いた音がした。忍ばされた足音に気が付かない振りをして。硝子に映ったその姿も見えない振りをして。彰宏は、黙って硝子障子の向う側の景色に、目を向け続けた。


「だぁれだ」


途端、暗くなる視界。両の眼を小さく柔らかな掌で塞がれて、子供染みた質問を投げかけられる。


彰宏は、口許をふと和ませると、その戯れに付き合うべく、口の中で飴玉を転がすように、『彼』の名前をころりと呼んだ。


「拓海さん」


明るくなる視界。瞼から外された温み。耳に届く微かな笑い声。


「はぁい」


小さく返事を返したのは。かつて、彰宏が『貴方』と他人行儀に呼んでいた男。四代目………拓海。


彰宏は先日、漸く彼に愛称を教えて貰った。胸が歓喜に湧いて、まるで言葉を覚えたての幼子のように、その名前を口の中で大事に大事に転がした。舌の上でその名前が砂糖菓子のように溶けて消える頃には、もう幾年も歳月をかけて呼び慣れたかの如く、滑らかに口に出来るようになっていた。


彰宏は後ろを振り向くと、座るように彼を促した。拓海が何処にと言わんばかりに頸を傾げるので、彰宏は無言で、胡座をかいた膝の上を、ぽんぽんと叩いた。拓海は、仕方ないなと言わんばかりに、少しだけ眉を寄せた。だが。


「はいはい」


特に抗う事もなく、拓海は、その指示に素直に従った。まるで飼い慣らされた猫の様な仕草でもって、ふわりと膝の上に舞い降りると、彼は大人しく横抱きになって、彰宏の胸に顔を寄せた。


丁度、頭の真ん中にある旋毛。伏せられた長く艶のある睫毛。恥じらいで、染まった桃花色の頬。彰宏が自ら店に足を運び選んで贈った、白檀の薫香。その全てが、彰宏の愛心を擽ってやまない。


旋毛に唇を落とすと、こそばゆいのか、拓海は小さく身を捩った。彰宏は躊躇わず、親指と人差し指を使って拓海の顎を上げると。


そのまま鼻の先に一つ。両頬に一ずつ。
順繰りに、ゆっくりと唇を落としていった。


交わす視線。此方の瞳は、すっかり熱を帯びているのだろう。拓海の瞳が、微かに揺れた。


「もう、いいかい」


元はと言えば、彰宏の子供染みた遊びから始まった流れだ。締めるならその延長で、と思った。でも。


「まぁだ、だよ」


許しは、得られなかった。口をへの字に曲げて、無言で応戦する。すると拓海が、此方の頸に腕をまわして来たので、彰宏はその細い身体を、反射的に抱き締めた。


頬と頬が合わさる。その吸い付く様な素肌を、己が肌で感じると、その心地よさに眩暈を覚えた。


白檀と拓海自身の香りとが混ざり合い、擽られる鼻腔。視界に広がる、頸筋から胸元まで至る、象牙色の白肌。金糸雀の囀りにも似た、微かな笑声。


その全てに、五感が刺激される。余りにも扇情的で。彰宏の左胸は、どくりと高鳴った。


「ねぇ、このまま部屋まで運んでくれないかな」


耳元で、ひそりと囁かれる。こんな風に拓海が甘えてくるのは初めての事だったので、真意をどう捉えたら良いのか分からず、彰宏は、自分の胸の中で、嬉しさと懐疑心とを綯交ぜにした。


「どうしたんですか」


内心の複雑さなどおくびにも出さずに、粉砂糖を薄く振りかけたかのような甘さを含んだ声色を選んで、柔らかく尋ねる。すると拓海は、暫く思案する間を置いてから、突然彰宏の耳朶を、かぷり、と軽く食んできた。


背筋が戦慄く。
興奮で脳が揺さぶられる。


「午前からずっと中腰だったから……甘えちゃ駄目?」


その、黒砂糖をとろりと煮詰めたかの如く蠱惑的な誘いに。是とする意外に選択肢が、あろうはずも無く。彰宏は、鍛え上げた背筋を使って拓海を抱き抱えたまま立ち上がると、行儀悪くも、足先だけで、すぱんと勢いよく襖を開けた。

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