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Side Story & Substory
追放された令嬢は、寡黙な公爵に拾われる
「──王家の秩序を乱す存在として、この者を追放とする」
王妃の冷酷な宣告は、広間の隅々にまで不吉に響き渡った。
装飾過多な玉座の間。
大理石の床に跪くこともなく、リリアン・アルヴァレス公爵令嬢は、その宣告を真正面から受け止めていた。
視線の先にいる国王の姿を、あえて見ようとはしなかった。
(……やはり、こうなってしまったのね)
胸の奥で、静かに吐息を漏らす。
老いた王の不躾な寵愛を、その身を賭して拒んだあの日から、この末路は予想できていた。
言葉を交わすたび、値踏みするように身体を舐め回す目。
欲望を隠そうともしない卑俗な眼差しに、リリアンは激しい嫌悪を覚えた。
だからこそ断ったのだ。王の愛人になるという屈辱的な誘いを、明確に、気高く。
「──……以上よ。反論は一切認めない。即刻この国から去りなさい。わかったなら、お行きなさい」
王妃は溜飲を下げたように、満足げな笑みを浮かべて言葉を締めくくった。
隣に座る国王は、惜しい獲物を手放したと言わんばかりの、未練がましい視線をリリアンに注ぎ続けている。
ぞわり、と背中を冷たい悪寒が走った。
その視線さえも優雅に受け流し、リリアンはゆっくりと一礼した。
王妃にも、王にも、媚びることなく。
そして、自身を拒絶した謁見の間の大扉へと、毅然と背を向ける。
(追放されるのは、私一人でいい。
……これでアルヴァレス公爵家が罪に問われないのなら、後悔はないわ)
冷笑を浮かべる貴族たちや、関わりを恐れて目を逸らす者たちが左右に分かれ、彼女を追い出すための残酷な道筋が作られた。
その喧騒の中で、ただ一人。
微動だにせず、沈黙をもってその背を見つめ続ける男がいた。
リリアンはその視線に気づくことはなかったが、彼だけは、彼女の姿が扉の向こうの闇へと消えるまで、一度も瞬きをせずにその背中を瞳に刻みつけていた。
追放は、即日執行された。
持たされたのは最低限の荷と、護衛にもならない数名の兵。
「国境を越えるまで」という名目で同行する彼らの瞳に、憐れみの情など微塵もなかった。
夜を徹して走る馬車の中、揺れに身を任せながら、リリアンは窓の外を流れる闇を眺めていた。
怒りも、悲しみも、確かにある。
だがそれ以上に、胸の奥は不思議なほど澄み渡っていた。
「……私は、間違っていないわ」
どれほどの地位や富を失おうとも、自分を切り売りして生きる道を選ばなかった。
その誇りだけは、誰にも奪えない。
そして、生まれ育った国が、あの腐敗した王らによって沈まないことを願うしかなかった。
深夜。
国境まであと数日という森の奥深くで、唐突に馬車が止まった。
風は冷たく、空は底の見えない黒に塗り潰されている。
兵士の一人が、許可もなく荒々しく扉を開けた。
「……降りろ。今すぐだ」
背筋に戦慄が走る。
震えそうになる足を叱咤し、リリアンは平然を装い、一人地面に降り立った。
暗闇の中、複数の兵士たちが彼女を取り囲む。
賢明なリリアンは、瞬時に状況を把握した。
国外追放は単なる建前で、ここで自分を「始末」するつもりなのだ。
(王の寵愛を断っただけで、殺されるというの?
この国は、どこまで腐りきっているのか……)
兵士が剣に手を掛けた。
いちかばちか、逃げるしかない。
リリアンが悲痛な覚悟を決めた、その刹那──。
「お前たち、何をしている」
低く、地を這うような重厚な声が背後から響いた。
殺気立っていた兵士たちは、その声の主を見た瞬間に怖気づき、一斉に後退る。
振り返ると、一頭の馬に跨った男が、青白い月光を背負って立っていた。
深い色の外套に、無駄のない装い。
冷静沈着でありながら、見る者をひれ伏させるような鋭い眼差し。
ロベルト・バティストゥータ公爵。
王弟派の重鎮であり、王国でも一目置かれる存在だ。
リリアンは、社交の場で何度か視線を交わしたことがあった。
「ば、バティストゥータ公爵様。……な、なぜ、このような場所に」
狼狽した兵士が、愚かにも問いを重ねる。
ロベルトは一瞥するように、その男へ冷ややかな視線を向けた。
「この先の領地は私のものだ。
それに伴い、国境の警備も私の管轄にある」
ロベルトが纏う覇気に圧倒され、兵士たちは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「ここからは私が、アルヴァレス公爵家のご令嬢を国境まで送り届ける。
彼女をこちらへ」
兵士たちが完全に毒気を抜かれた隙に、リリアンは一歩前へ踏み出した。
差し出されたロベルトの手に、自らの手を重ねる。
彼女の真っ直ぐな瞳を、彼は射抜くように見つめ返した。
「ロベルト・バティストゥータ公爵様。……参ります」
彼は無言でリリアンの手を取り、軽々とその細い身体を己の馬へと引き上げた。
闇を切り裂くような蹄の音を残し、二人は静まり返った森の奥へと消えていく。
深夜の森。
背中に伝わる彼の体温と、夜風の冷たさが混ざり合う。
「……公爵様。助けていただき、ありがとうございます」
もし彼が現れなかったら、今頃自分はどうなっていただろう。
恐怖が遅れて身体を蝕み、リリアンの指先が微かに震える。
それでも彼女は、令嬢としての誇りを失わず、感謝を述べた。
「……ここから先は、王の手は届かない。安心しろ」
淡々とした、けれど深い安堵を誘う声だった。
その一言に、リリアンはようやく深く息を吸い込むことができた。
その夜、リリアンはロベルト・バティストゥータ公爵の屋敷に身を預けることとなった。
ロベルトはどこまでも寡黙な男だった。
到着するなり使用人たちに指示を出すと、彼はすぐに自室へと引き上げた。
翌朝。
朝日が昇り、リリアンは客室の窓から公爵の領地を眺めた。
朝靄が立ち込める静かな景色には、独特の風情がある。
派手さこそないが、隅々まで秩序が行き届き、人々の暮らしが安定していることが直感で分かった。
リリアンは客人として迎えられ、亡命同然の身には十分すぎるほどの待遇を与えられていた。
「……どうしましょう。昨夜は、荷物も何もかも置いて、公爵様の手を取ってしまったわ」
用意された端正なドレスを纏い、リリアンは公爵と朝食を共にするため食堂へ向かった。
そこには、すでに席に着いた彼の姿があった。
「おはようございます、公爵様。昨夜は、重ね重ねありがとうございました」
「よく眠れたか?
立ち話はいい。席に着いて食べなさい」
リリアンの挨拶を遮るように、彼は彼女を席へと促した。
「国境を越えた後は、どこか行き先の当てがあるのか?」
「いえ……ございません」
「なら、私の領地にいろ」
「……あの、失礼ながら。なぜ、そこまでしてくださるのですか?」
長年、アルヴァレス家は現国王の派閥だった。
父はロベルトと交流を持たず、リリアン自身も、こうして言葉を交わすのは初めてだ。
その疑問に答えるように、ロベルトは食事の手を止め、リリアンをまっすぐに見つめた。
「以前から、あなたを高く評価していた。それだけだ」
余計な説明は、一切なかった。
彼は朝食を終えると、優雅な所作で席を立つ。
「……後ほど、私の領地を案内しよう」
戸惑いながらも、リリアンは今日初めて、小さく柔らかな微笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。喜んで、お供いたします」
※
身支度を終えたリリアンが外へ出ると、広々とした庭園にロベルトの姿があった。
そこには、彼を囲むように数頭の大型犬が群れている。
「……わあ。まるで、狼のようなわんちゃんね」
雪国の銀嶺を思わせる、鋭くも美しい出立ち。
金色や水色の瞳を持つ彼らは、一見すると近寄りがたい威厳を放っていた。
だが、その中心に立つロベルトの横顔を見て、リリアンは息を呑む。
そこには、初めて見る「優しい顔」があった。
犬たちとじゃれ合い、走り回る彼らを、ロベルトは慈しむように見守っている。
鉄血と称される公爵の面影はどこにもなく、ただ穏やかな時間がそこには流れていた。
「お、お待たせいたしました」
その声に、ロベルトは瞬時に振り返る。
すでに彼は、いつもの冷静で隙のない公爵の顔に戻っていた。
「いや、そこまで待っていない。……行こうか」
「あの、犬がお好きなんですね。私はどちらかと言えば、猫派なのですが……」
「…………」
途端に、ロベルトの表情が微かに曇り、沈黙が落ちた。
(……あら、何かまずいことを言ったかしら)
不安を覚えたそのとき、一頭の犬がロベルトの足元に鼻を寄せ、甘えるように鳴いた。
「あの……犬たちの散歩を兼ねて、歩いて行きませんか?」
リリアンの提案に、ロベルトの口角がわずかに動いた。
見逃してしまいそうなほど微かな、けれど確かな変化だった。
「……貴女を歩かせるわけにはいかない。馬車で行く」
そう断じながらも、足元から離れようとしない五頭の犬たちを見て、リリアンは微笑んだ。
「それなら、この子たちも連れて行きませんか?」
先に馬車へ向かおうとしたロベルトが、意外そうに振り返る。
「……犬は、嫌いではないのか?」
「ええ、大好きですよ。ふふ。この子は特に、私に懐いてくれているようですわ」
一頭の雄犬が尾をちぎれんばかりに振り、リリアンの頬に鼻を擦り寄せる。
彼女は思わず声を上げて笑い、親愛の情を込めて首筋を撫でた。
「……今日はダスクを連れて行こう」
ロベルトは一度だけ視線を落とし、無言でリリアンの歩幅に合わせた。
彼が短く合図を送ると、ダスクと呼ばれた犬は弾むように馬車へ飛び込んだ。
二人と一頭を乗せた馬車は、緩やかな坂を下り、最寄りの城下町へ向かった。
車内でロベルトは、リリアンが話しかけない限り、彫像のように沈黙を保っていた。
けれど、それは苦痛ではなかった。
足元で大人しく寛ぐダスクに触れているだけで、不思議と心が安らいだからだ。
町に着くと、領民たちはすぐに公爵の馬車に気づいた。
整った街並みは秩序に満ち、人々の眼差しにはロベルトへの確かな信頼と敬愛が宿っている。
リリアンは、自らの名を隠さなかった。
派閥の異なる公爵家の娘であり、追放された身であることも。
だが、領民たちは彼女を異分子としてではなく、公爵の客として温かく迎え入れた。
涙は流さないと決めていた。
それでも、視界が微かに滲むのを止められなかった。
帰りの馬車の中、リリアンは改めてロベルトに向き合った。
「追放された身の私を引き留めてくださり、本当に感謝しております。ですが……これ以上、ご迷惑をお掛けするわけにはいきません。明日にでも、国境を越えようと思います」
「リリアン。私の記憶では、君はもっと賢い令嬢だったはずだが」
その声音は低く、怒りよりも先に、失うことへの焦りが滲んでいた。
「目的地も当てもなく、無一文の女が一人で国境へ行って、どうするつもりだ?」
「それは……。ですが、追放は王命です。私がここにいると知られれば、公爵様まで咎めを受けてしまいます」
「……ならば、君に仕事を任せる。対価として、正当な報酬も支払おう」
「え……?」
「その仕事が終わるまで、私の領地で、私の屋敷で暮らす。これは命令だ」
有無を言わせぬ口調。
だが、その瞳には、彼女を見捨てるつもりなど微塵もない、不器用な庇護の情が宿っていた。
戸惑う間に、馬車は屋敷へ到着する。
そこでは、残された犬たちが健気に主人の帰りを待っていた。
「明日から仕事を任せる。今日は、ゆっくり休め」
馬車を降りる彼女の手を取り、エスコートする。
その手は驚くほど大きく、温かい。
リリアンを降ろすと、ロベルトは愛馬に跨りまた仕事に出かける。彼は風のように去っていった。
※
翌朝、リリアンに与えられた「仕事」は、拍子抜けするほど簡単なものだった。
「君には、犬たちの世話を頼みたい。散歩や食事の管理だ。……昨日、彼らも君に懐いていたようだからな。猫派なのに、申し訳ないが……」
朝食の席でそう告げたロベルトは、心なしか視線を泳がせていた。
(……昨日の『猫派』発言を、まだ気にしていらっしゃるの?)
その不器用な気遣いに気づき、リリアンは胸の奥で小さく笑った。
「承知いたしました。精一杯、努めさせていただきます」
そうして始まったリリアンの「仕事」だったが、彼女はただ犬と遊んで過ごす令嬢ではなかった。
午後。
公務から戻ったロベルトは、庭園の東屋でペンを走らせるリリアンの姿を見つけ、足を止めた。
彼女の足元では愛犬たちが満足げに喉を鳴らして眠り、その側には、何やら複雑な数字が書き込まれた数冊の帳簿が広げられている。
「……何をしている。犬の世話はどうした」
背後から声をかけると、リリアンは驚く様子もなく、優雅な動作で振り返った。
「おかえりなさいませ、公爵様。ええ、散歩のついでに、この子たちの食事を管理している厩舎や、出入りしている業者の方々とお話しさせていただいたのです」
彼女が差し出した紙束を手に取り、ロベルトは目を見開いた。
そこには、大型犬たちの体調に合わせた最適な栄養配合と、それに伴う仕入れコストの削減案、さらには近隣の村での「使役犬」の健康管理を通じた、慈善事業の拡大計画までもが整然とまとめられていた。
「この仕入れルートの見直しをすれば、年間でこれだけの余剰金が出ます。それを、視察で見かけた村の共同農場の支援に回してはいかがかと……。微力ながら、アルヴァレス家で学んだ会計の知識を応用してみました」
リリアンは「お恥ずかしいですが」と控えめに微笑む。
だが、ロベルトの衝撃は計り知れなかった。
「……驚いた。君は、ただ犬と散歩をしていただけではないのか」
「はい。この子たちのお世話をするなら、彼らが食べる物のルーツや、この領地を支える人々の暮らしも知っておきたいと思いまして。猫派ではありますが、任されたからには完璧にこなしたいのです。……それとも、余計なことでしたでしょうか?」
不安そうに首を傾げる彼女を、ロベルトはじっと見つめた。
王室に媚びず、追放されてもなお、その高い教養を「他者のための最善」に迷わず使える気高さ。
「……いや。余計どころか、私の内政官たちでもこれほど短時間でここまでの案は出せないだろう。やはり君は……私が評価した通り、素晴らしい女性だ」
彼女に気づかれないよう小さく息を吐いた。
(……犬派か猫派かなど、どうでもいいことだったな。君の有能さを、改めて思い知らされたよ)
本当は、計画書の素晴らしさだけでなく、夢中でペンを動かしていた彼女の横顔から目が離せなかったのだが──今の彼に、それを認める余裕はない。
「リリアン。その計画書、明日からの会議で正式に検討させてもらう。……明日の散歩も、頼めるか?」
「ええ、もちろん喜んで」
「それと……。君にもう一つ、頼みたい仕事がある。今夜、私の執務室を訪ねてくれ」
「はい、承知いたしました」
夕日に照らされた二人の間に、昨夜よりも少しだけ、温かくて確かな信頼が芽生え始めていた。
その夜、リリアンは約束通りロベルトの執務室の重厚な扉を叩いた。
扉の向こうから響いたのは、短く、けれどどこか緊張を孕んだ「入れ」という声。
入室したリリアンの目に飛び込んできたのは、机に広げられた膨大な地図と、ロウソクの火に照らされたロベルトの険しい表情だった。
「夜分に失礼いたします、公爵様。……お仕事のお話とお聞きしましたが」
ロベルトはペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。彼は一瞬だけ、夜の装いに着替えたリリアンの姿に目を奪われたようだったが、すぐにそれを打ち消すように視線を地図へと戻した。
「……リリアン。呼び出して済まない。君の知恵を正式に借りたいのだ」
ロベルトは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
「この領地は豊かだが、依存している物流ルートに危うさがある。私は万が一、何らかの事態で物流が滞ったとしても、領民が誰一人として困窮しない『自給自足の強固な基盤』を作りたいと考えているんだ」
リリアンは、彼の言葉に深く感銘を受けた。多くの貴族が目先の贅沢に耽る中、この若き公爵は、いつ訪れるか分からぬ不測の事態に備え、民を守ろうとしている。その先見の明に、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「……公爵様。それは、とても素晴らしいお考えですわ」
「だが、私一人では細かな流通や備蓄の計算まで手が回らない。……そこで、君に内政の補佐を任せたい。君の、あの有能さが必要なんだ」
ロベルトは、リリアンの瞳をまっすぐに見つめた。
「君を『犬の飼育係』という名目で雇ったのは、周囲の目を欺くためだ。君の尊厳を守りつつ、私の傍でその力を貸してほしい。……受けてくれるか」
それは命令ではなく、初めて彼が差し出した「信頼」だった。
「……謹んで、お受けいたします。ロベルト様。貴方の領民を、私が責任を持って守るお手伝いをさせていただきます」
その夜、二人は明け方まで地図と帳簿を突き合わせた。リリアンが示す細やかな備蓄案や、近隣領地との物々交換のルート提案に、ロベルトは何度も目を見開いた。彼女の言葉はいつも明快で、未来への希望に満ちていた。
「……すまない。君の話が興味深く、ついこんな時間まで付き合わせてしまったな」
「いえ、私は大丈夫です。公爵様もお休みにならないと。続きはまた後ほど」
リリアンは静かに一礼をし、扉へと背を向けた。
そのとき、ロベルトが彼女の背中に向けて問いかけた。
「……数年前の飢饉の時、アルヴァレス公爵の領地だけは被害を最小限に抑え、耐え抜いていたな。……あれは、君の手腕だったのか?」
リリアンは足を止め、ゆっくりと振り返った。
だが、肯定も否定も口にはしない。ただ、柔らかな、けれどすべてを物語るような微笑みを浮かべる。そして静かに会釈をして、部屋を後にした。
その日から、ロベルトの傍らには常にリリアンがいた。
時に公務に同行させて意見を求め、遠出で何日も不在にする際は、信頼の証として屋敷の管理さえも彼女に託した。
リリアンの毎日は充実していた。
もはや名目上の「犬の飼育係」という枠を超え、彼女は領地内を自由に歩き回り、その手には常に収穫予想や在庫状況が記された手帳が握られていた。
彼女の相棒という名の護衛は、あの日から片時も離れない銀色の大型犬・ダスクだ。
彼女が農村で長老たちと新しい保存食の相談をしている間も、ダスクは静かに足元で寄り添い、彼女をじっと見守っていた。
ロベルトと同じ、美しい青の瞳。
公爵と離れている時間も、まるで彼に見守られているような、不思議な安らぎを感じるようになっていた。
「リリアン様、また新しい保存食の試作ができましたぞ!」
農村の人々もまた、彼女の聡明さと優しさに魅了されていった。いつしか領民たちは、ロベルトの隣に立つ彼女を、敬愛を込めて「公爵夫人」のように認識し始めていた。
リリアンの提案した「余剰作物の加工と備蓄システム」により、領内の家計は劇的に安定し始めていた。ロベルトは、そんな彼女の活躍を誰よりも誇らしく思っていた。
夕暮れ時、視察から戻ったロベルトは、中庭でダスクに寄り添い、書類を確認しているリリアンの姿を見つけると、それまでの疲れがすべて吹き飛ぶのを感じる。
「……リリアン、あまり根を詰めすぎないように」
背後から声をかけると、彼女は花が綻ぶような笑みを見せる。
「公爵様! 見てください、今年の冬の備蓄計画、目標を上回りましたわ」
「ああ、君のおかげだ。……君がこの領地に来てくれてから、すべてが好転しているよ」
本当は、「君がいるだけで、私は救われている」と伝えたかったが、彼はあえて「仕事の評価」という形をとる。
リリアンはすでに、国境を越えて異国で暮らすにも十分すぎるほどの報酬を彼から受け取っていた。
本来なら、いつこの地を離れても自由なはずだった。
けれど──。
寡黙な彼の隣で過ごす静かな時間や、愛らしい犬たちに囲まれる穏やかな暮らし。
リリアンにとって、それはかつての華やかな公爵家でも得られなかった、心安らぐ本物の幸せに満ちた時間となっていた。
この温もりを、まだ手放したくない。
そう思ってしまうほどに、彼女の心はいつの間にか、
この場所と、彼のそばに留まることを選んでいた。
だが、そんな「魔法のような時間」は、永遠には続かなかった。
彼女が領地にもたらした驚異的な成果と、卓越した手腕の噂は、商人の口づてに王都へと漏れ聞こえてしまったのだ。
「……バティストゥータ公爵領に、女神のような才女がいる」
「その容姿は、追放されたアルヴァレス令嬢に酷似しているという──」
ある日、領地の屋敷に重苦しい空気が流れた。
王都から派遣された使者が、一通の親書を携えて現れたのだ。
執務室に呼び出されたリリアンが見たのは、かつてないほど険しい表情で書簡を握りしめるロベルトの姿だった。
「……公爵様。何があったのですか?」
ロベルトは、絞り出すような声で答えた。
「……王都からだ。王妃が、君の居場所を突き止めた」
リリアンの背筋に冷たいものが走る。
「書面にはこうある。
『国外追放の身でありながら不法に国内に留まるリリアン・アルヴァレスを、速やかに王宮へ引き渡せ。
さもなくば、匿ったバティストゥータ公爵を反逆罪に問う』と……」
それは、最愛の「蜜月」を断ち切る、無慈悲な宣告だった。
書簡の内容を理解した瞬間、迷わず即答した。
「王宮へ参ります。今すぐ支度を」
その刹那、室内の空気が凍りついた。
ロベルトの表情が劇的に変貌し、怒りに満ちた声が執務室に響き渡る。
「誰が行かせるものかっ!」
リリアンは、感情を露わにして切迫したロベルトの姿に目を見開いた。
「何故、即答できる!?
君は賢い女性だろう。王宮へ戻れば命がないことくらい、分かっているはずだ!」
けれど、怯まなかった。
真っ直ぐにロベルトの瞳を見据えて言い返す。
「行かなければ、公爵様が反逆罪に問われます。
それだけは、絶対に嫌なのです。
……領民のためにも、この国のためにも、貴方を失うわけにはいきません。
……私も、貴方を失いたくない。だから、どうか行かせてください」
リリアンの瞳から、一筋の涙が溢れ落ちた。
追放を宣告されたあの日も、両親を想い孤独に震えた夜も、決して流さなかった涙。
しかし、自分のせいでこの誠実な男の身に泥を塗ることだけは、どうしても耐えられなかった。
ロベルトは堪えきれないようにリリアンを抱き寄せ、折れそうなほど強く抱きしめた。
その背中に手を回した瞬間、リリアンが堰き止めていた感情が、嗚咽となって溢れ出す。
「リリアン……もう、この感情を抑え続けることはできない。
最初から、君を手放すつもりなど毛頭ないんだ」
「公爵様……っ」
「君が強い女性なのは知っている。
だが今は……頼むから、私に縋ってくれ」
ロベルトはリリアンが泣き止むまで、慈しむようにその小さな背を撫で続けた。
彼は、秘めていた覚悟を彼女に伝えた。
王はすでに正気を失っていること。
近いうちに王弟殿下を擁立して旗を揚げること。
そして、この一年の備えはすべて、その時のために君の知恵を借りたのだということ。
「俺がいない間、この家を、この領地を君に任せたい」
「……私で、よいのですか?」
「初めから、俺は君しか見ていない。君しか考えられない」
互いに自然と重なった唇。
もはや愛を囁く言葉は必要なかった。
肌を通じて伝わる鼓動が、何よりも強く互いの想いを証明していた。
※
ついに、決戦を翌日に控えた夜。
ロベルトの寝所で、二人は愛し合った余韻に浸りながら寄り添っていた。
彼はリリアンを抱き寄せ、安堵させるように告げた。
「君の父上、アルヴァレス公爵のことだが……。
君を保護していることは伝えてある。父上は君のために、すでに王弟側として参戦を決めてくれた」
「お父様が……。やはり、戦いは避けられないのですね」
(お父様……そしてロベルト様。
どうか、愛する人たちが無事でありますように)
胸元で手を組み、切なる祈りを捧げた。その震える肩を、ロベルトの大きな手が優しく包み込む。
「君にできることは、これからもたくさんある。……俺を、そしてこの領地を支えてくれて、本当にありがとう」
彼の深い感謝の言葉が、リリアンの心に沁み渡る。
「……戻ってきたら、リリアン・バティストゥータ公爵夫人になってくれるか?」
「ええ。もちろんですわ」
今度の即答には、迷いも悲しみもなかった。
ついに、ロベルトが発つ日が訪れた。
軍用犬として訓練された四頭の犬たちが、主人の馬の周りを囲んでいる。
「本当に、リアムたちも連れて行くのですか?」
「ああ。彼らは優秀な軍用犬だ。
だが、ダスクだけはここに置いていく。必ず君を守るように言い聞かせてある」
「……あなたたち、絶対にご主人様を守るのよ」
一匹ずつ別れを惜しむように撫でるリリアンに、ロベルトが少しだけ不満げに眉を寄せた。
「リリアン。犬よりも、もっと俺との別れを惜しんでくれ」
普段の冷静さはどこへやら、愛犬にまで嫉妬する愛しい人に、ふっと笑みをこぼした。
「ロベルト様、約束を忘れないで。
戻ったら私を、貴方の妻にするのだと」
「俺は最初から、そのつもりだ」
最後の口づけを交わし、リリアンはロベルトの背中が見えなくなるまで、その姿を目に焼き付けた。
愛する人が発った後、領地は静かな緊張に包まれた。
だが、リリアンが指揮を執る領内では、混乱など一切起きなかった。
彼女は毎日ダスクを引き連れて領内を見回り、不安に震える領民たちの手を握り、励まし続けた。
「大丈夫です。公爵様は、必ず勝利を持ち帰ってくださいます」
追放令嬢であった彼女は、いつしか領民たちから「曙光の令嬢」と崇められるようになっていた。
彼女は毎日、ロベルトの執務室から王都の方角を眺め、彼のために整えた豊かな大地を守り続けた。
やがて、王都陥落の報せが届く。
腐敗した王権は終わりを告げ、新たな王が即位した。
その報せを聞いた瞬間、リリアンは初めてその場に泣き崩れた。
ダスクが心配そうに、彼女の涙を舐めとる。
「……ああ、良かった。ロベルト様、貴方は勝ったのね……!」
彼女は立ち上がり、朝日が差し込む窓を力いっぱい開けた。
遠くの坂道から、見覚えのある銀色の毛並みの馬と、黒い外套の男が見える。
リリアンはドレスの裾を翻し、中庭へと駆け出した。
戦地へ向かった四頭の犬たちが歓喜の声を上げて彼女の元へ走り込み、
その後ろから、泥と埃に塗れたロベルトが馬を降りる。
その瞳は、以前よりもずっと優しく、熱く、リリアンだけを見つめていた。
「……リリアン。ただいま戻った」
その一言で、これまでの不安も孤独も、すべて報われた。
ロベルトの胸に飛び込んだリリアンを、彼は二度と離さないという強い力で抱きしめた。
「お帰りなさいませ、ロベルト様……!」
雲ひとつない、どこまでも澄み渡った蒼穹に、犬たちの祝福の遠吠えが響き渡る。
かつてすべてを奪われた令嬢と、
彼女にすべてを与えたいと願った公爵。
眩い陽光に包まれた二人の本当の物語は、
この輝かしい朝の中から、
今、始まったばかりだ。
(END)
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