31 / 161
四、兄の想い、妹の想い
五
しおりを挟む
「で、でっけえぇ……」
藤田庄吉の屋敷に着くと、大和は声をこぼした。
玄関門から細長い道を歩き、辿り着いた藤田邸は、都会で流行っている洋館を模したような造りだった。しかも、平屋の造りが当たり前な阿仁の地域にはお目にかかれない木造二階建てだ。周囲は庭園になっており、今の時期はバラ、チューリップ、シャクヤク、ポピーなどといったハイカラな彩りで洋館を飾っている。佐介を客人と勘違いした庭師が「庭園の殆どが海外の花です」と誇らしげに教えてくれた。
「ほお、ここはまるで外国じゃな」
山神も目を瞠った。
「御免ください! 御免ください!!」
佐介は玄関の扉を力強く叩いた。
ダンダンダン! という力強い音から、たまにミシ……と扉が泣いた。このままだと扉が壊れてしまいそうだ。
「やかましねえど!! 親父は今留守だ!!」
奉公人は何をやっている!? と怒りを露わにしながら庄吉は勢いよく扉を開けた。
「で、でっけえぇ……」
またしても大和は声をこぼした。
庄吉は大きかった。六尺以上ある背丈で三十貫位の重さはありそうだった。厳つい顔の熊が玄関先で仁王立ちしているようだ。背丈が五尺五寸程の大和は口を開けたまま見上げた。
「佳代どこ連れ戻しに来たすけ」
佐介は庄吉に射るような視線を向けていたが、意外にも落ち着いた低い声だった。それを聞いた庄吉は眇めて言った。
「上杉んどこの佐介か。へば、貸した金銭どこ返すってが?」
「んだ。こさ、七十円ある」
佐介は借りていた分の金銭を差し出すと、それを見た庄吉はフンッと鼻で笑った。
「お前、馬鹿野郎だな!? 普通だば利子がつくんだ。んだな……あど、三十円は貰わねえとなぁ」
実際、金を貸したのは親の権蔵であって、庄吉ではない。にも関わらず、彼はさも自分が貸したかのように腕を組んで偉そうに立っている。
佐介の顔は険しくなった。今回、佐介の稼ぎは大和と折半で九十円位だった。全部差し出しても足りない。
「そんたに利子取るなんておがでねが!?」
「佐介、金銭どこ借りてる立場で良ぐ言えだな。へば、佳代はこのまま俺のもんだ! 折角来てけだのに残念だったな!」
悪怯れた様子など一切無く庄吉が言っていると、
「兄ちゃん!? なして、兄ちゃんが……」
庄吉の後ろから佳代の声が聞こえた。家の奥から彼女が驚いた様子で歩いて来る。彼女は佐介に似て目鼻立ちが良く、華のある容姿をしていた。
「佳代! 兄ちゃん、お前どこ連れ戻しに来た!! お前、こいつんどこさ嫁ぐな!! 兄ちゃんだばもう大丈夫だ。またマタギで稼げるようになったすけ! んだがら早くこっちゃ来い!」
佐介は佳代に手を差し伸べたが、彼女は泣きそうな顔で頭を横に振った。
「兄ちゃん、そいだば出来ね。オラは兄ちゃんさマタギどこ続けて欲しくねえんだ! 兄ちゃんさ死んで欲しくねえんだ。また、父ちゃんみたいに死んだらオラ……オラ……」
そう言うと、佳代は手で顔を覆い隠し、わんわんと泣き出してしまった。彼女の意外な態度に佐介はどうして良いかわからず立ち尽くしている。
「うッ……うッ……に、兄ちゃんがマタギやめてけだら、オラ、兄ちゃんと帰る……兄ちゃん、もうマタギなんかやめてけれよおぉぉ!」
「…………佳代」
佐介にとってマタギは魂そのものであり、平次のように最後までマタギとして死にたいとさえ思っていた。銃が撃てなくなった時もマタギを辞めることは出来なかった。それくらい彼にとっては簡単に切って切り離せるものではない。大切な妹の為とはいっても今直ぐに「はい辞めます」と答えることが出来なかった。
だが……
(佳代はそこまでしてマタギどこ嫌がっていたのか、へば俺は佳代の為に……)
今、決めないと佳代はこのまま庄吉のもとに嫁いで後戻りが出来なくなってしまう。断腸の思いで佐介は覚悟を決めようとしたが、
「や、山神様!?」
大和の慌てた声に気づいた時、大和の背中に隠れていたはずの山神は、いつの間にか庄吉の隣で泣き喚いている佳代の目の前に立っていた。
……バァン!!
山神は思いきり佳代の頬を引っ叩いた。
引っ叩かれた彼女は、紅葉のように赤く腫れた頬をむき出したまま呆然としている。
「煩い! 駄犬のようにぎゃんぎゃんと吠えおって、これだから女は嫌いじゃ!」
最初は佳代の態度に苛立っていた山神だったが、女を引っ叩いてスッキリしたせいか、最後は口角が上がっていた。
「ほっぺたが膨れて良い顔になったのう」
「お、お前、誰だ!? なしていきなりオラどこぶつんだ!?」
佳代の涙は止まったが、信じられないといった怒りが湧き出ていた。
「儂か? 儂は……」
山神はチラッと振り返って大和を見ると、大和は必死に口をぱくぱく動かしていた。それを見た山神はニヤリと笑う。
「ふふん。儂は山神じゃ」
「や、山……? お前、何言ってんだ!?」
大和の必死の意志表示も虚しく、したり顔で山神が答えると、佳代は呆気に取られてしまい、湧き出ていた怒りは一瞬で収まってしまった。
「ハハハハ!! 面白いおなごでねが! ……ん? よく見れば、お前も、めんけえ面っこしてるな」
佳代の隣で腕を組んで立っていた庄吉が、前かがみになって山神の顔をまじまじと覗き込んだ。
「佳代とは違った器量がある。お前、俺の妾にならねえか? 勿論、金銭はたっぷり出してやる。一生贅沢して暮らせるど! いやぁ、一夫多妻な生活も夢でねな」
「や、止めんか! 愚か者!」
嫌がる山神を無理矢理抱き寄せて満足気に笑う庄吉だったが、
「痛だだだだだっ!!」
庄吉の足下に激痛が走り、彼が下を見ると子熊が脛に齧り付いていた。
「この、クソ熊が!!」
子熊の民子に怒った庄吉は民子の首根っこを片手で掴み上げると思いっ切り投げ飛ばした。
「民子!」
山神が民子に向かって叫ぶと同時に、大和は庄吉に向かって走り出し、彼の胸ぐらを掴んだ。
「!?」
庄吉は大和に胸ぐらを掴まれ、抵抗しようと手を出そうとしたが、彼の視界から大和の姿が消えた刹那、庄吉の身体が宙を舞うと今度は背中に激痛が走り、しばらく呼吸が出来なくなった。
大和は自分よりも一尺ほど大きい男を、いとも簡単に背負投げをしていた。
「おい。いい加減にせねば、お前どこ撃つど」
ようやく庄吉は呼吸が出来るようになったが、今度は声を出すことが出来なくなった――地面に仰向け状態になった庄吉の視線の先には、研ぎ澄まされた鋭く光る緋色の双眸が彼の顔を抉るように見下ろしていた。
ヒュッ、と首が切られた感覚を覚え、庄吉は再び呼吸が出来なくなった。更に、腰が抜けて起き上がれなくなってしまったため、遠くからみれば熊がマタギに撃たれたように見える。否、これから大和は庄吉を撃とうとしていた。
「小僧、儂の獣になれとは言ったが、人の道を外すことはするなよ」
投げ飛ばされた民子は地面に叩き打たれることなく佐介に受け止められていた。民子の無事を確認した山神は大和のもとに行くと、彼の殺気を帯びた背中を軽く叩いてやった。すると、大和の身体から殺気がスッと消えた。
「あ、あんた、目の色が……一体何者だ……?」
ガクガクと震えながら佳代は大和を異様な目で見ている。
「佳代、大丈夫だ。こいつは悪い奴でね。俺の恩人だ」
民子を抱っこしながら佐介が佳代に近寄ったものだから、彼女は安心するどころか両手を振って拒絶した。
「く、熊!! 近寄るな! 兄ちゃん、なして熊どこ抱えてらんだ!? 頭おかしくなってらんだか!?」
佳代の怯えて慌てる様を見て、佐介は困ったように笑った。
「佳代は知らねども、この熊は山神様どこの使いだ。神様の熊どこ殺したら駄目だでな」
ほれ、と言って佐介は民子を佳代の前に突き出した。何も知らない民子はつぶらな瞳で佳代を見ていた。
最初は目を背けたが、徐々に目を丸くしながら佳代は民子を観察し始めた。
「よく……見れば……熊って、めんけえかも……?」
「佳代、熊どこ憎いか? 山どこ憎いか? んだども俺たちマタギは熊や山の恵みのお陰で生きてらんだよ」
「んだども、熊や山の災害のせいで兄ちゃん死んじまうかもしれない」
「それは……」
佐介が答えに困ったその時、彼の目が見開いた。
「佳代!!」
パンッ、パンッ、パァンッ。
「――に、兄ちゃん!?」
佐介は佳代を庇って彼女に覆いかぶさると、庄吉の方に顔を向けて睨んだ。地面に着地した民子は急いで山神と大和のもとへ走り出す。
「ちっ! 外したが」
庄吉は腰が抜けたままの状態で懐に隠していた拳銃を佐介に向けている。この拳銃は二十六年式拳銃で火力が弱く、命中率も比較的低いと言われているが、日本軍が使用する物で庄吉のような素人が扱うような代物ではなかった。
「庄吉! お前みたいな坊っちゃんが、なしてそんた銃持ってらんだ!?」
佐介が佳代に当たらないように自分の身体を盾にしながら言うと、
「なしてって、親父のツテで軍人から買ったんだ。金銭があればこんたことも出来んだ」
手元の銃を自慢気に見せつけて得意げな顔の庄吉だったが、三発撃った弾は誰にも当たっていない。
「お前どら、この俺様どこ怒らせたのが悪い!! 女だちどこ置いてちゃっちゃと帰れ!!」
再び庄吉は佐介に向けてトリガーを引いた。
ダァンッ。
「っっ!?」
拳銃を持つ手が熱くなり、手の感覚がなくなった庄吉は驚愕した。火傷で赤くなった手には吹き飛ばされた拳銃のグリップ部分しか残っていなかった。
大和が撃った一発の弾が、小さい獲物に命中したのだ。
少しでも外したら庄吉の手は拳銃と共に吹き飛んでいたであろう。そう思うと、庄吉は青褪めた顔になり泡を吹いて倒れてしまった。
「糞野郎が、いい加減にせねば撃つど」
距離にして僅か一間程先で、細い煙が立ち上る銃口を庄吉に向け、大和は立ち膝をついて睨みを効かせていた。
「……ははっ。撃ってがら言うなで。お前の銃も俺と同じ単発式だべ?」
佐介は立ち上がり「もう銃を降ろせ」と、安堵の顔で言いながら佳代を起こしてあげた。佐介に支えられながら佳代は恐る恐る大和を見るが、自分たちを助けてくれたと思うと、徐々に大和に対して恐怖心が無くなってきた。
(おっかねえ人だけど、兄ちゃんどこ助けてくれた。おっかねえけど、おっかねえけど……)
次第に佳代の頬が仄かに色付き始める。
「……小娘、儂の獣に手を出すなよ」
「!? うわっ!! どでした!! お前、脅かさねでけれ!」
山神は佳代の耳元で囁くと、驚いて青くなった彼女をからかうように山神は笑った。
「へば、庄吉が気絶している間にちゃっちゃと帰るど。佳代、お前も一緒に帰るど! こんた異常野郎のどこさ嫁ぐなんて、兄ちゃん死んでも許さねがらな!」
借りていた金銭七十円を白目を向いた庄吉の顔元に置くと、有無を言わさずに佐介は佳代の手を引っ張った。
佐介に握られた手に目を向けると、佳代の顔が青褪めて歪む。
「兄ちゃん、手から血が出てる……」
佳代に言われて佐介は初めて怪我をしていたことに気がついたようだ。佳代を庇った時に地面を擦ったのだろう。
「ん? ああ、本当だな。こんた傷、唾つけとけば治るべ。そんたごとより佳代が怪我してねぐて良がった!」
佐介は佳代に向けて朗らかに笑って見せた。彼女の顔は更に歪み、今にも泣き出しそうだった。
――兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん!
「兄ちゃん! オラ、オラは……兄ちゃんどこ好きだ! だから、だから……」
佐介の背中に抱きつき、佳代は黙ってしまった。驚いた佐介は後ろを振り向いたが、佳代の顔は見えない。彼は困ったように頭を掻いた。
「佳代? 兄ちゃんも佳代どこ好きだ。お前はちゃんと幸せになれな」
佐介の背中でズズッと鼻を啜る音が聞こえた。
「に、兄ちゃんも幸せにならねばダメだ。オラ、幸せになれね。……マタギやめてけれなんて言って、ごめんしてけれな……マタギじゃない兄ちゃん、やっぱ想像出来ね!」
「おいおい。想像出来ねってお前、自分で言っておいて、そいだばおがでねが!?」
怒ったかと思いきや、佐介は嬉しそうに笑った。佳代の顔は見えなかったが、彼の背中から伝わる振動はクククッっと速くなり、先程とは違うものだった。
きっと彼女も鼻を啜りながら笑っているのだろう。
藤田庄吉の屋敷に着くと、大和は声をこぼした。
玄関門から細長い道を歩き、辿り着いた藤田邸は、都会で流行っている洋館を模したような造りだった。しかも、平屋の造りが当たり前な阿仁の地域にはお目にかかれない木造二階建てだ。周囲は庭園になっており、今の時期はバラ、チューリップ、シャクヤク、ポピーなどといったハイカラな彩りで洋館を飾っている。佐介を客人と勘違いした庭師が「庭園の殆どが海外の花です」と誇らしげに教えてくれた。
「ほお、ここはまるで外国じゃな」
山神も目を瞠った。
「御免ください! 御免ください!!」
佐介は玄関の扉を力強く叩いた。
ダンダンダン! という力強い音から、たまにミシ……と扉が泣いた。このままだと扉が壊れてしまいそうだ。
「やかましねえど!! 親父は今留守だ!!」
奉公人は何をやっている!? と怒りを露わにしながら庄吉は勢いよく扉を開けた。
「で、でっけえぇ……」
またしても大和は声をこぼした。
庄吉は大きかった。六尺以上ある背丈で三十貫位の重さはありそうだった。厳つい顔の熊が玄関先で仁王立ちしているようだ。背丈が五尺五寸程の大和は口を開けたまま見上げた。
「佳代どこ連れ戻しに来たすけ」
佐介は庄吉に射るような視線を向けていたが、意外にも落ち着いた低い声だった。それを聞いた庄吉は眇めて言った。
「上杉んどこの佐介か。へば、貸した金銭どこ返すってが?」
「んだ。こさ、七十円ある」
佐介は借りていた分の金銭を差し出すと、それを見た庄吉はフンッと鼻で笑った。
「お前、馬鹿野郎だな!? 普通だば利子がつくんだ。んだな……あど、三十円は貰わねえとなぁ」
実際、金を貸したのは親の権蔵であって、庄吉ではない。にも関わらず、彼はさも自分が貸したかのように腕を組んで偉そうに立っている。
佐介の顔は険しくなった。今回、佐介の稼ぎは大和と折半で九十円位だった。全部差し出しても足りない。
「そんたに利子取るなんておがでねが!?」
「佐介、金銭どこ借りてる立場で良ぐ言えだな。へば、佳代はこのまま俺のもんだ! 折角来てけだのに残念だったな!」
悪怯れた様子など一切無く庄吉が言っていると、
「兄ちゃん!? なして、兄ちゃんが……」
庄吉の後ろから佳代の声が聞こえた。家の奥から彼女が驚いた様子で歩いて来る。彼女は佐介に似て目鼻立ちが良く、華のある容姿をしていた。
「佳代! 兄ちゃん、お前どこ連れ戻しに来た!! お前、こいつんどこさ嫁ぐな!! 兄ちゃんだばもう大丈夫だ。またマタギで稼げるようになったすけ! んだがら早くこっちゃ来い!」
佐介は佳代に手を差し伸べたが、彼女は泣きそうな顔で頭を横に振った。
「兄ちゃん、そいだば出来ね。オラは兄ちゃんさマタギどこ続けて欲しくねえんだ! 兄ちゃんさ死んで欲しくねえんだ。また、父ちゃんみたいに死んだらオラ……オラ……」
そう言うと、佳代は手で顔を覆い隠し、わんわんと泣き出してしまった。彼女の意外な態度に佐介はどうして良いかわからず立ち尽くしている。
「うッ……うッ……に、兄ちゃんがマタギやめてけだら、オラ、兄ちゃんと帰る……兄ちゃん、もうマタギなんかやめてけれよおぉぉ!」
「…………佳代」
佐介にとってマタギは魂そのものであり、平次のように最後までマタギとして死にたいとさえ思っていた。銃が撃てなくなった時もマタギを辞めることは出来なかった。それくらい彼にとっては簡単に切って切り離せるものではない。大切な妹の為とはいっても今直ぐに「はい辞めます」と答えることが出来なかった。
だが……
(佳代はそこまでしてマタギどこ嫌がっていたのか、へば俺は佳代の為に……)
今、決めないと佳代はこのまま庄吉のもとに嫁いで後戻りが出来なくなってしまう。断腸の思いで佐介は覚悟を決めようとしたが、
「や、山神様!?」
大和の慌てた声に気づいた時、大和の背中に隠れていたはずの山神は、いつの間にか庄吉の隣で泣き喚いている佳代の目の前に立っていた。
……バァン!!
山神は思いきり佳代の頬を引っ叩いた。
引っ叩かれた彼女は、紅葉のように赤く腫れた頬をむき出したまま呆然としている。
「煩い! 駄犬のようにぎゃんぎゃんと吠えおって、これだから女は嫌いじゃ!」
最初は佳代の態度に苛立っていた山神だったが、女を引っ叩いてスッキリしたせいか、最後は口角が上がっていた。
「ほっぺたが膨れて良い顔になったのう」
「お、お前、誰だ!? なしていきなりオラどこぶつんだ!?」
佳代の涙は止まったが、信じられないといった怒りが湧き出ていた。
「儂か? 儂は……」
山神はチラッと振り返って大和を見ると、大和は必死に口をぱくぱく動かしていた。それを見た山神はニヤリと笑う。
「ふふん。儂は山神じゃ」
「や、山……? お前、何言ってんだ!?」
大和の必死の意志表示も虚しく、したり顔で山神が答えると、佳代は呆気に取られてしまい、湧き出ていた怒りは一瞬で収まってしまった。
「ハハハハ!! 面白いおなごでねが! ……ん? よく見れば、お前も、めんけえ面っこしてるな」
佳代の隣で腕を組んで立っていた庄吉が、前かがみになって山神の顔をまじまじと覗き込んだ。
「佳代とは違った器量がある。お前、俺の妾にならねえか? 勿論、金銭はたっぷり出してやる。一生贅沢して暮らせるど! いやぁ、一夫多妻な生活も夢でねな」
「や、止めんか! 愚か者!」
嫌がる山神を無理矢理抱き寄せて満足気に笑う庄吉だったが、
「痛だだだだだっ!!」
庄吉の足下に激痛が走り、彼が下を見ると子熊が脛に齧り付いていた。
「この、クソ熊が!!」
子熊の民子に怒った庄吉は民子の首根っこを片手で掴み上げると思いっ切り投げ飛ばした。
「民子!」
山神が民子に向かって叫ぶと同時に、大和は庄吉に向かって走り出し、彼の胸ぐらを掴んだ。
「!?」
庄吉は大和に胸ぐらを掴まれ、抵抗しようと手を出そうとしたが、彼の視界から大和の姿が消えた刹那、庄吉の身体が宙を舞うと今度は背中に激痛が走り、しばらく呼吸が出来なくなった。
大和は自分よりも一尺ほど大きい男を、いとも簡単に背負投げをしていた。
「おい。いい加減にせねば、お前どこ撃つど」
ようやく庄吉は呼吸が出来るようになったが、今度は声を出すことが出来なくなった――地面に仰向け状態になった庄吉の視線の先には、研ぎ澄まされた鋭く光る緋色の双眸が彼の顔を抉るように見下ろしていた。
ヒュッ、と首が切られた感覚を覚え、庄吉は再び呼吸が出来なくなった。更に、腰が抜けて起き上がれなくなってしまったため、遠くからみれば熊がマタギに撃たれたように見える。否、これから大和は庄吉を撃とうとしていた。
「小僧、儂の獣になれとは言ったが、人の道を外すことはするなよ」
投げ飛ばされた民子は地面に叩き打たれることなく佐介に受け止められていた。民子の無事を確認した山神は大和のもとに行くと、彼の殺気を帯びた背中を軽く叩いてやった。すると、大和の身体から殺気がスッと消えた。
「あ、あんた、目の色が……一体何者だ……?」
ガクガクと震えながら佳代は大和を異様な目で見ている。
「佳代、大丈夫だ。こいつは悪い奴でね。俺の恩人だ」
民子を抱っこしながら佐介が佳代に近寄ったものだから、彼女は安心するどころか両手を振って拒絶した。
「く、熊!! 近寄るな! 兄ちゃん、なして熊どこ抱えてらんだ!? 頭おかしくなってらんだか!?」
佳代の怯えて慌てる様を見て、佐介は困ったように笑った。
「佳代は知らねども、この熊は山神様どこの使いだ。神様の熊どこ殺したら駄目だでな」
ほれ、と言って佐介は民子を佳代の前に突き出した。何も知らない民子はつぶらな瞳で佳代を見ていた。
最初は目を背けたが、徐々に目を丸くしながら佳代は民子を観察し始めた。
「よく……見れば……熊って、めんけえかも……?」
「佳代、熊どこ憎いか? 山どこ憎いか? んだども俺たちマタギは熊や山の恵みのお陰で生きてらんだよ」
「んだども、熊や山の災害のせいで兄ちゃん死んじまうかもしれない」
「それは……」
佐介が答えに困ったその時、彼の目が見開いた。
「佳代!!」
パンッ、パンッ、パァンッ。
「――に、兄ちゃん!?」
佐介は佳代を庇って彼女に覆いかぶさると、庄吉の方に顔を向けて睨んだ。地面に着地した民子は急いで山神と大和のもとへ走り出す。
「ちっ! 外したが」
庄吉は腰が抜けたままの状態で懐に隠していた拳銃を佐介に向けている。この拳銃は二十六年式拳銃で火力が弱く、命中率も比較的低いと言われているが、日本軍が使用する物で庄吉のような素人が扱うような代物ではなかった。
「庄吉! お前みたいな坊っちゃんが、なしてそんた銃持ってらんだ!?」
佐介が佳代に当たらないように自分の身体を盾にしながら言うと、
「なしてって、親父のツテで軍人から買ったんだ。金銭があればこんたことも出来んだ」
手元の銃を自慢気に見せつけて得意げな顔の庄吉だったが、三発撃った弾は誰にも当たっていない。
「お前どら、この俺様どこ怒らせたのが悪い!! 女だちどこ置いてちゃっちゃと帰れ!!」
再び庄吉は佐介に向けてトリガーを引いた。
ダァンッ。
「っっ!?」
拳銃を持つ手が熱くなり、手の感覚がなくなった庄吉は驚愕した。火傷で赤くなった手には吹き飛ばされた拳銃のグリップ部分しか残っていなかった。
大和が撃った一発の弾が、小さい獲物に命中したのだ。
少しでも外したら庄吉の手は拳銃と共に吹き飛んでいたであろう。そう思うと、庄吉は青褪めた顔になり泡を吹いて倒れてしまった。
「糞野郎が、いい加減にせねば撃つど」
距離にして僅か一間程先で、細い煙が立ち上る銃口を庄吉に向け、大和は立ち膝をついて睨みを効かせていた。
「……ははっ。撃ってがら言うなで。お前の銃も俺と同じ単発式だべ?」
佐介は立ち上がり「もう銃を降ろせ」と、安堵の顔で言いながら佳代を起こしてあげた。佐介に支えられながら佳代は恐る恐る大和を見るが、自分たちを助けてくれたと思うと、徐々に大和に対して恐怖心が無くなってきた。
(おっかねえ人だけど、兄ちゃんどこ助けてくれた。おっかねえけど、おっかねえけど……)
次第に佳代の頬が仄かに色付き始める。
「……小娘、儂の獣に手を出すなよ」
「!? うわっ!! どでした!! お前、脅かさねでけれ!」
山神は佳代の耳元で囁くと、驚いて青くなった彼女をからかうように山神は笑った。
「へば、庄吉が気絶している間にちゃっちゃと帰るど。佳代、お前も一緒に帰るど! こんた異常野郎のどこさ嫁ぐなんて、兄ちゃん死んでも許さねがらな!」
借りていた金銭七十円を白目を向いた庄吉の顔元に置くと、有無を言わさずに佐介は佳代の手を引っ張った。
佐介に握られた手に目を向けると、佳代の顔が青褪めて歪む。
「兄ちゃん、手から血が出てる……」
佳代に言われて佐介は初めて怪我をしていたことに気がついたようだ。佳代を庇った時に地面を擦ったのだろう。
「ん? ああ、本当だな。こんた傷、唾つけとけば治るべ。そんたごとより佳代が怪我してねぐて良がった!」
佐介は佳代に向けて朗らかに笑って見せた。彼女の顔は更に歪み、今にも泣き出しそうだった。
――兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん!
「兄ちゃん! オラ、オラは……兄ちゃんどこ好きだ! だから、だから……」
佐介の背中に抱きつき、佳代は黙ってしまった。驚いた佐介は後ろを振り向いたが、佳代の顔は見えない。彼は困ったように頭を掻いた。
「佳代? 兄ちゃんも佳代どこ好きだ。お前はちゃんと幸せになれな」
佐介の背中でズズッと鼻を啜る音が聞こえた。
「に、兄ちゃんも幸せにならねばダメだ。オラ、幸せになれね。……マタギやめてけれなんて言って、ごめんしてけれな……マタギじゃない兄ちゃん、やっぱ想像出来ね!」
「おいおい。想像出来ねってお前、自分で言っておいて、そいだばおがでねが!?」
怒ったかと思いきや、佐介は嬉しそうに笑った。佳代の顔は見えなかったが、彼の背中から伝わる振動はクククッっと速くなり、先程とは違うものだった。
きっと彼女も鼻を啜りながら笑っているのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる