緋色ノ叉鬼

越子

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十八、立山の噂話

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「立山に入る前に、近くの宿場で一晩休みませんか?」

 清兵衛の提案に、山神が「今日は野宿じゃない」と歓喜し、皆も同意した。

 立山町に着くと、そこは登山客で賑わっていた。清兵衛曰く、立山は山岳宗教とは別に、立山信仰が有名であるとのこと。立山の天に穿つような威厳が極楽浄土のようだと、立山にある地獄谷の険しさが本物の地獄のようだと、人々は立山曼荼羅の地獄絵図を見て崇拝していた。修業僧ほど過酷なことはしないが、彼らは地獄に落ちないようにと、山に登って参詣することが最近の流行とのことだった。

「おお! 宿が沢山あるぞ!」

 山神は瞳を輝かせて街を見渡した。富山にはマタギ宿がないため、民子と飛吹は近くの山で身を潜めてもらっている。

「登山客で町が賑わうのは良いことだども、こんたに人が多いと立山さある鬼神草どこ見つけるのだば難しいんでねが?」

 佐介が清兵衛に疑問をぶつけると、清兵衛も渋い顔で唸った。

「だけど、あの不思議な男に会えれば……」

 十八年前、立山で出会った美丈夫な男に、もう一度会えれば鬼神草が手に入るのではと、清兵衛は抱いていた。だが、その男が再び自分の前に現れる可能性があるのかどうか、正直、不安なところである。

「どうしたら、再び彼に会えるのだろうか……」

 ブツブツと呟く清兵衛に、山神が彼の背を叩いた。

「清兵衛、まずは飯じゃ。儂は腹が減ったぞ!」

 威厳など一寸も無く、腹を押さえて訴える彼女の切なげな顔に、清兵衛は「確かに、そうですね」と表情を緩めた。

 そうして彼らが飯屋を探していると、一人の町娘が蕎麦の暖簾を掲げている店の前から笑顔で話しかけてきた。

「お兄さん方、ここの蕎麦はいかがですか? とっても美味しいよ。しかもなんと、かけ蕎麦を十杯完食した人は無料だよ! 勿論、残したら十杯分お支払いになりまーす!」

 それを聞いた佐介と山神は顔を合わせて首を横に振ったが、彼らの中で一番の大食感である清兵衛は目を輝かせた。

「十杯食べて無料ですか!? それは良いですね! 皆さん、行きましょう!」

 何も知らない大和と右京は、顔色が芳しくない佐介と山神を見て首を傾げていた。

 蕎麦屋の娘に案内されて彼らが店内に入ると、入り口前の席で西洋の制服を着た男が険しい表情でかけ蕎麦を啜っている。武装をしていたマタギの三人、特に大和と佐介は肩に掛けている銃をビクッと揺らした。

 マタギは国の許可の下、銃を扱っているので悪い事をしているわけではない。だが、どうしても制服姿の男を見かけると落ち着かないのだ。

「……ねえ、隅の席に座らない?」

 右京も同じ気持ちだったのか、大和達にコソッと話した。

「あ、お姉さん、私にかけ蕎麦を十杯ください。あと、彼ら人数分のかけ蕎麦を一杯ずつください」

 席に座るやいなや清兵衛は、給仕の女性を呼んで迷いなく注文をした。周囲の客たちは、目を丸めて清兵衛を見ている。

「清兵衛よ。おぬし、本当に一人で十杯食べるつもりか?」

「ええ。勿論です。今まで気を遣って十分に食べられませんでしたから……」

 清兵衛の言葉に皆、自分の耳を疑った。

 ――十分に食べていなかっただと!?

 大和の家に居候していた時は、一食で五、六合の米を平らげていた。弥彦の所に世話になった期間も毎日大人三人分くらいの食事量で、それを見た弥彦が驚愕していた。それでも一カ月以上も彼らを置いてくれたことには、無愛想ではあるが懐の大きさを感じる。

 それなのに、十分に食べていなかったとは、耳を疑わざるをえなかった。

「はぁい! お客さん、お待ちどおさま!!」

 最初に人数分の五杯のかけ蕎麦が、大和たちの座っている卓上に運ばれた。

 清兵衛は、一杯目をあっという間に平らげると、次から次へとかけ蕎麦が運ばれていく。どんどん空になった器が積み上げられていく様を、大和たちは途中から箸を止めて呆然と見ていた。

「――ご馳走様でした」

 何食わぬ顔で清兵衛は箸を置き、手を合わせた。

「まだ余裕そうな顔をしているね……!?」

 清兵衛の隣に座っていた右京が信じられない様子で彼を覗き込んでいると、突然、彼らの卓上に影が差した。

「お前たち、ここの者ではないな。どこから来た?」

 右京が、影が差した方を見上げると、店内で蕎麦を啜っていた制服姿の男が見下ろしていた。隅の席に座っていた彼らだったが、清兵衛の食いっぷりが目立っていたのだろう。気がつけば店内の人々が彼らに注目していた。

「それに、お前とお前、その銃はどうして持っている」

 制服姿の男は三十代で清兵衛と同じくらいの歳なのだが、清兵衛に反して威厳のある顔で声にも重みがあった。とても同年代には見えない。そんな男に銃を指さされ、睨みつけられた大和と佐介は「やっぱり目を付けられた」と言わんばかりに顔を見合わせた。

「あれ? 貴方……もしかして、たっちゃん!?」

 救世主のような軽い声が重い空気を遮った。その声は目を丸くした清兵衛だった。

「ん? なんだお前は……ん? ……お前、清兵衛か!?」

「はい! 私です! わあぁぁ、たっちゃん、久しぶりですねぇ! 数十年ぶりですね。巡査になられたのですか。子供の頃から正義感が有り余ってましたものね!」

「……いい加減、たっちゃん呼びはやめろ! 達樹たつきと呼べ」

「えー、何を今更。この歳になって急に言い換えられませんよ、たっちゃん」

「この歳だからだよ! いつまでも子供時代の呼び方しやがって……」

 どうやら二人は幼馴染であったようだ。

 いつの間にか清兵衛の調子に持って行かれ、達樹は手で頭を押さえると黙り込んでしまった。答える機会を見失った大和と佐介は、この隙に店を出ようと速やかに立ち上がったが

「おい、お前ら待て。まだ返答を聞いていない。何故銃を持っている」

 やはり逃げ切る事ができなかった。

「たっちゃん、その方たちは秋田でマタギをしているんですよ。だから銃を持っていても山刀を持っていても合法です」

「マタギ? こいつらが……そうか。聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだな」

 救世主の返答のおかげで大和と佐介は胸を撫で下ろした。すると、今度は見る目を変えて達樹が彼らに言った。

「秋田からマタギがわざわざ立山の地へ来たということは、あの噂を知ってのことか?」

「え? 噂??」

 佐介が聞き返すと、清兵衛が「立山で何かあったのですか?」と重ねて達樹に訊いた。

「何だ。知らないで来たのか。それならば、良い。変なことを聞いて悪かったな」

 そう言い捨てると、達樹は踵を返して店を出て行った。

 ――あの噂とは何だったんだ?

 気になる言葉だけを残された彼らは暫し呆然としていたが、彼らの空気をお構い無しに店に居た客たちは「かけ蕎麦を十杯完食した人なんて初めてだ」と歓喜し、清兵衛を讃えていた。そして店主はというと、厨房でひっそりと頭を抱えていた。今まで看板娘に誘われ、軽い気持ちで参加し完食に失敗した挑戦者から、十杯分の支払いを貰って稼いでいたのだろう。初めての敗北である。

 清兵衛に「二度目の挑戦はご遠慮願いたい」という言葉をかけて、店主は四人分の支払いを渋い顔で受け取った。
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