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1章-蓮
蓮ー5
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「熱中症ですよ、きっと。以前、彰文様もこんなふうになったことがあったでしょう」
白いエプロンをかけた年配の家政婦が、心配そうな顔の千秋に言って聞かせた。その家政婦は倒れた真由を家の中に運んでくれて、冷房の効いたリビングのカウチの上に寝かせてくれた。冷たいタオルをおでこや頬に当て、氷の入った冷たい水を真由に飲ませてくれた。
真由はグラスの水を少しだけ飲んでから、再びカウチの上にぐったりと横たわった。意識が朦朧としているのか、呼びかけても目を開けようとしない。
「真由、おい、どうしたんだよ……」
心細い声で妹に呼びかける蓮に、家政婦が声をかけた。
「もしかしたら他に具合が悪いところがあるんじゃないかしら。何だか顔色がねえ……。ご飯はきちんと食べてる?」
家政婦の問いに、蓮はしばらくしてから首を横にふった。白髪の混じった髪を後ろにまとめた品の良さそうな家政婦だったが、蓮の答えに大きくため息をついた。
「やっぱり。家はどこ?親御さんに連絡してあげるから、救急車を呼びましょう。脱水症状を起したら大変ですよ」
救急車と言う言葉に、蓮は更に不安になる。
「家は近くだけど、親は……」
思わず口ごもる。
「あの……、どこに行ったかわからなくて……。帰って来なくって、俺どうしたらいいいかわからなくて……」
唇をかみ締める蓮に千秋はぽかんとなり、家政婦は仰天した。
「帰って来ないって、まさかあなたたちを置いて、家出したとか?」
「そんなんじゃありません。母さんは……」
とっさに大きな声で否定した。お金を借りて、食べるものを買って来るから……。
そう言って母は出かけていったのだ。決して自分達を置いて逃げたわけじゃない。
だがもしこの家政婦が言うように、母が家出したのならどうしよう。お金もなく、日々の生活に疲れ果てた母が、自分達を置いてどこかへ行ってしまったのだとしたら?
電気やガスの使えない古いアパートで小さな妹を抱え、自分はどうしたらいいのだ?
「パパに電話してあげる!千秋のパパなら、きっと助けてくれるよ。真由ちゃんのお母さんだって探してくれるよ。心配しないで、ね?」
突然千秋が蓮の前に進み出て、大きな声で言い放った。
「困ってる人は助けてあげなさいって、いつもパパが言ってるもん。すぐにプリンセス・ホテルに電話するから」
「いいよ、そんな……」
「おやめになって下さい、お嬢様。今日はこちらのホテル組合の方々との打ち合わせも兼ねてるんですよ?こんなことで電話なんかしたら、私が奥様に叱られます。とにかく警察に連絡して、救急車の手配をしてもらいましょう」
「待って、待って下さい!」
蓮はドアのほうに向かいかけた家政婦の行く手を遮った。
「知り合いに電話して迎えに来てもらいます。だから警察なんか呼ばないで下さい。嘘じゃないです、何かあったら連絡しろって俺言われてて……。その人の電話番号を書いた名刺が家にあるんです。走れば十分で行って来れる。だからそれまで妹をお願いできますか?すぐに帰って来ますから」
警察と聞いてパニックになりそうだった。必死に冷静さを取り戻そうとしながら、先週母に会いに来た初老の男のことを思い出した。
蓮が帰宅した時に、アパートの玄関先で五十歳ぐらいの男が母と立ち話をしていた。母は迷惑そうな顔をしていたが、相手は黒っぽい背広を着た誠実そうな人物に見えた。母がそっけなくドアを閉めると、男はドアに向かって深々と一礼し蓮のほうに歩いてきた。そして蓮に気づいて足を止めたのだ。
「私を覚えていらっしゃいますか、風戸(かざと)ですよ。蓮坊ちゃま」
感慨深そうな視線を自分に向ける初老の男は、唇を震わせるようにしてそんな言葉を口にした。
----知らない。こんな奴、見たことない……。
気味が悪くなった蓮は、走って逃げようとした。その手を風戸がしっかりとつかんだ。
「これをお持ちになって下さい。なにかあったら必ず連絡なさって下さい。私はいつでもお力になりますから」
そういって、風戸と名乗った男が蓮の手に握らせたのは一枚の名刺。そこには都内と思われる電話番号と、”風戸 弘義(かざと ひろよし)”という名前だけが記されていた。
家に帰ってから母に風戸のことを尋ねたが、母は相手にしてくれなかった。ただ直感的に風戸が民生委員などではなく、父と関係している人物だろうとぴんと来た。その名刺を蓮は捨てていない。母に見つからぬよう、机の引き出しの奥にしまったのだ。
父の助けは要らないと、そう心に決めて生きてきた。でも今はそれどころではないと察知した。自分にはどうすることもできないような問題が起きようとしている。とにかく真由は病気で、母はどこに行ったかわからない。その現状が蓮の心を、普通の十五歳の少年に変えてしまった。
「ほんとに大丈夫?千秋のパパは優しいよ?遠慮しなくていいよ?」
気づくと千秋がそばに立っていた。大きな目に不安そうな色を浮かべ。
「大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」
喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、涙がこぼれそうになる。千秋の気持ちが嬉しかったのと、何も出来ない自分自身に腹を立てたのとで。
自分よりずっと年下なのに、この少女のほうがよほど力を持っている。きっとこの子はこの先もこんなふうに、誰に対してでも惜しみない優しさをふり撒いて、多くの人を支えることだろう。
「このお礼はいつかきっとするから……」
千秋に向かってそう言うと、蓮は家政婦に頭を下げて部屋を飛び出した。「お待ちなさい……!」という家政婦の声と、「あなたのお名前は?」という千秋の声が耳に届いた。
「蓮、坂本蓮だよ!」
走りながら叫んだ声は千秋の耳には届いていなかった。玄関から庭に出た蓮は、急いで歩道に飛び出した。走って生垣の角を曲がったところで、黒塗りの高級車が歩道に寄せて、停まっているのが目に入る。車のそばに立って千秋の屋敷を見つめていたのは、風戸だった。
「坊ちゃま!」
「あ、あんた、どうしてここに……」
息を切らせて立ち止まると蓮は尋ねた。額に汗が噴出してくる。だが答える代わりに風戸は、後部座席のドアに手をかけて慣れた仕草でドアを開ける。中からスーツにネクタイを締めた、見知らぬ男が降り立った。その男を見た瞬間、蓮は男の顔にくぎ付けになった。
仕立ての良さそうなスーツに、髪をきちんと後ろに撫で付けたその男は、歳は二十代の後半くらい。意思の強そうなきりっとした眉と、強い視線を投げかける瞳。蓮の胸に説明のしようがない、妙な感情が沸き起こる。
男は黙ったまま蓮の顔をじっと見据えてから、やがてその顔に蓮が感じているのと同じような、懐かしい者を見つめるような表情を浮かべた。
「お前が蓮か?」
男が言った。少しかすれていたがよく響く声だった。
「……そうだけど、あんたは?」
男の口元が緩む。だがその目には悲しみの色が浮かんでいた。
「律(りょう)だ。脇田律。お前の兄だ」
白いエプロンをかけた年配の家政婦が、心配そうな顔の千秋に言って聞かせた。その家政婦は倒れた真由を家の中に運んでくれて、冷房の効いたリビングのカウチの上に寝かせてくれた。冷たいタオルをおでこや頬に当て、氷の入った冷たい水を真由に飲ませてくれた。
真由はグラスの水を少しだけ飲んでから、再びカウチの上にぐったりと横たわった。意識が朦朧としているのか、呼びかけても目を開けようとしない。
「真由、おい、どうしたんだよ……」
心細い声で妹に呼びかける蓮に、家政婦が声をかけた。
「もしかしたら他に具合が悪いところがあるんじゃないかしら。何だか顔色がねえ……。ご飯はきちんと食べてる?」
家政婦の問いに、蓮はしばらくしてから首を横にふった。白髪の混じった髪を後ろにまとめた品の良さそうな家政婦だったが、蓮の答えに大きくため息をついた。
「やっぱり。家はどこ?親御さんに連絡してあげるから、救急車を呼びましょう。脱水症状を起したら大変ですよ」
救急車と言う言葉に、蓮は更に不安になる。
「家は近くだけど、親は……」
思わず口ごもる。
「あの……、どこに行ったかわからなくて……。帰って来なくって、俺どうしたらいいいかわからなくて……」
唇をかみ締める蓮に千秋はぽかんとなり、家政婦は仰天した。
「帰って来ないって、まさかあなたたちを置いて、家出したとか?」
「そんなんじゃありません。母さんは……」
とっさに大きな声で否定した。お金を借りて、食べるものを買って来るから……。
そう言って母は出かけていったのだ。決して自分達を置いて逃げたわけじゃない。
だがもしこの家政婦が言うように、母が家出したのならどうしよう。お金もなく、日々の生活に疲れ果てた母が、自分達を置いてどこかへ行ってしまったのだとしたら?
電気やガスの使えない古いアパートで小さな妹を抱え、自分はどうしたらいいのだ?
「パパに電話してあげる!千秋のパパなら、きっと助けてくれるよ。真由ちゃんのお母さんだって探してくれるよ。心配しないで、ね?」
突然千秋が蓮の前に進み出て、大きな声で言い放った。
「困ってる人は助けてあげなさいって、いつもパパが言ってるもん。すぐにプリンセス・ホテルに電話するから」
「いいよ、そんな……」
「おやめになって下さい、お嬢様。今日はこちらのホテル組合の方々との打ち合わせも兼ねてるんですよ?こんなことで電話なんかしたら、私が奥様に叱られます。とにかく警察に連絡して、救急車の手配をしてもらいましょう」
「待って、待って下さい!」
蓮はドアのほうに向かいかけた家政婦の行く手を遮った。
「知り合いに電話して迎えに来てもらいます。だから警察なんか呼ばないで下さい。嘘じゃないです、何かあったら連絡しろって俺言われてて……。その人の電話番号を書いた名刺が家にあるんです。走れば十分で行って来れる。だからそれまで妹をお願いできますか?すぐに帰って来ますから」
警察と聞いてパニックになりそうだった。必死に冷静さを取り戻そうとしながら、先週母に会いに来た初老の男のことを思い出した。
蓮が帰宅した時に、アパートの玄関先で五十歳ぐらいの男が母と立ち話をしていた。母は迷惑そうな顔をしていたが、相手は黒っぽい背広を着た誠実そうな人物に見えた。母がそっけなくドアを閉めると、男はドアに向かって深々と一礼し蓮のほうに歩いてきた。そして蓮に気づいて足を止めたのだ。
「私を覚えていらっしゃいますか、風戸(かざと)ですよ。蓮坊ちゃま」
感慨深そうな視線を自分に向ける初老の男は、唇を震わせるようにしてそんな言葉を口にした。
----知らない。こんな奴、見たことない……。
気味が悪くなった蓮は、走って逃げようとした。その手を風戸がしっかりとつかんだ。
「これをお持ちになって下さい。なにかあったら必ず連絡なさって下さい。私はいつでもお力になりますから」
そういって、風戸と名乗った男が蓮の手に握らせたのは一枚の名刺。そこには都内と思われる電話番号と、”風戸 弘義(かざと ひろよし)”という名前だけが記されていた。
家に帰ってから母に風戸のことを尋ねたが、母は相手にしてくれなかった。ただ直感的に風戸が民生委員などではなく、父と関係している人物だろうとぴんと来た。その名刺を蓮は捨てていない。母に見つからぬよう、机の引き出しの奥にしまったのだ。
父の助けは要らないと、そう心に決めて生きてきた。でも今はそれどころではないと察知した。自分にはどうすることもできないような問題が起きようとしている。とにかく真由は病気で、母はどこに行ったかわからない。その現状が蓮の心を、普通の十五歳の少年に変えてしまった。
「ほんとに大丈夫?千秋のパパは優しいよ?遠慮しなくていいよ?」
気づくと千秋がそばに立っていた。大きな目に不安そうな色を浮かべ。
「大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて」
喉の奥から熱いものがこみ上げてきて、涙がこぼれそうになる。千秋の気持ちが嬉しかったのと、何も出来ない自分自身に腹を立てたのとで。
自分よりずっと年下なのに、この少女のほうがよほど力を持っている。きっとこの子はこの先もこんなふうに、誰に対してでも惜しみない優しさをふり撒いて、多くの人を支えることだろう。
「このお礼はいつかきっとするから……」
千秋に向かってそう言うと、蓮は家政婦に頭を下げて部屋を飛び出した。「お待ちなさい……!」という家政婦の声と、「あなたのお名前は?」という千秋の声が耳に届いた。
「蓮、坂本蓮だよ!」
走りながら叫んだ声は千秋の耳には届いていなかった。玄関から庭に出た蓮は、急いで歩道に飛び出した。走って生垣の角を曲がったところで、黒塗りの高級車が歩道に寄せて、停まっているのが目に入る。車のそばに立って千秋の屋敷を見つめていたのは、風戸だった。
「坊ちゃま!」
「あ、あんた、どうしてここに……」
息を切らせて立ち止まると蓮は尋ねた。額に汗が噴出してくる。だが答える代わりに風戸は、後部座席のドアに手をかけて慣れた仕草でドアを開ける。中からスーツにネクタイを締めた、見知らぬ男が降り立った。その男を見た瞬間、蓮は男の顔にくぎ付けになった。
仕立ての良さそうなスーツに、髪をきちんと後ろに撫で付けたその男は、歳は二十代の後半くらい。意思の強そうなきりっとした眉と、強い視線を投げかける瞳。蓮の胸に説明のしようがない、妙な感情が沸き起こる。
男は黙ったまま蓮の顔をじっと見据えてから、やがてその顔に蓮が感じているのと同じような、懐かしい者を見つめるような表情を浮かべた。
「お前が蓮か?」
男が言った。少しかすれていたがよく響く声だった。
「……そうだけど、あんたは?」
男の口元が緩む。だがその目には悲しみの色が浮かんでいた。
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