熱愛を祈願します!

篠原怜

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1巻

1-1

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   1


 この世には八百万やおよろずの神がいるという。
 学問の神様、商売繁盛の神様、五穀豊穣ごこくほうじょうの神様、台所の神様、トイレの神様……
 そして――
 恋の神様も、もちろんいる。


 午前九時。東京、臨海部にあるオフィスビル。
 地下駐車場に停まった高級車から、春らしいアイボリーのスーツを着た女性が降りた。足にはジミーチュウの、エレガントなピンヒールを履いている。
 うやうやしく頭を下げて、有吉美香ありよしみかは出迎えの挨拶あいさつをする。

「おはようございます、社長」
「おはよう、有吉。もうすぐ四月だというのに、今朝は冷えるわね」
「はい、社長。オフィスは昨日より暖かくしてあります」

 美香の返事に、女性は満足そうな表情を浮かべた。
 彼女は藤堂希和子とうどうきわこ。女手一つで二人の息子を育てながら藤堂フーズを創業し、十年足らずで業界トップに押し上げた人物だ。
 日本経済界の大物を実兄じっけいに持つ彼女は、今最も旬な女性実業家。
 そして目下もっかのところ美香のボスである。

「会議の前に温かいものが飲みたいわ」

 エレベーターに向かって歩き出しながら、希和子が言った。美香は運転手から希和子のバッグを受け取ると、急いでボスの後を追う。

「すぐに温かいものをお持ちいたします」
「ダブルのソイラテにしてね。それと、くれぐれも早く。わかっていると思うけど、あたし――」

 希和子はちらりと美香を振り返り、プレッシャーをかけるような視線を送ってきた。

「待たされるのは嫌いなの」
「承知いたしました、社長」

 そつなく返事をしてから、美香は心の中でソイラテ、ソイラテ……と繰り返し、先を急いだ。
 有吉美香、二十七歳。今日も社長秘書としての一日が始まる。
 目がくらむような高層ビルにあるオフィスの中、スーツにパンプスで忙しく立ち働く。み込んだ髪は後ろにまとめ、シンプルなアクセサリーに控えめな香り。服もメイクも派手すぎるのはNGだが、やぼったい身なりは社長の眉間にしわが寄る。
 藤堂フーズは、食材の定期宅配サービス「ハッピーママ」を運営する会社だ。社長の希和子がシングルマザーで二人の息子を育てた経験をいかし、「頑張るママを応援する」をコンセプトに、ぱぱっと作れるお惣菜そうざいセットから産地指定の厳選食材まで、幅広い商品を扱っている。
 創業以来、仕事や育児に忙しい主婦層を中心に、利用者をぐんぐん増やしてきた。
 そんな成長いちじるしい会社の、えある社長秘書となった美香だが、第二秘書である彼女の業務内容は雑用がほとんど。朝は一番に出勤してオフィスの準備を整え、社長を出迎えた後は飲み物や軽食の用意。電話の取り次ぎはもちろん、来客の対応、社長の肩揉かたもみに使いっ走り……などなど。社長が快適に仕事できるよう、気を配ることが業務の中心だ。
 スケジュール管理や出張のお供は、ペアを組んでいる先輩秘書の高木悦子たかぎえつこがやってくれる。

「ソイラテを買ってきます」

 社長室に着くと、美香は悦子に後を任せてオフィスを出た。この時期の社長のお気に入りは、近所に店舗を構える外資系コーヒーチェーン店の、ダブルソイラテエクストラホット。トールサイズ。
 デリバリーはしてくれないので、必要に応じて美香が買いに走る。

「お願いね」

 そう答えた悦子は三十五歳、独身。秘書歴は十年近い。英語、イタリア語、中国語を操る才女で、その上おしゃれ。悪い人ではないが、絶対に使い走りはやろうとしない。
 まあいいか。デスクワークより、お使いのほうがわたしには向いてるし。
 美香は外国語全般が苦手だし、OLの経験もない。持っているのは、幼稚園教諭の免許と保育士の資格に自動車運転免許くらいだ。
 藤堂フーズには「すくすくっこルーム」という会社直営の企業内保育所がある。美香はそこの保育士募集の求人を見て、この会社にやって来た。それなのに社長秘書に任命されてしまったのは、運命のいたずらというべきか。
 いや、仕事の神に見放されたのかもしれない。


 美香が希和子の秘書になったのは、去年の夏だった。その年の春までは、キリスト教系の幼稚園で先生をしていたが、園長のパワハラに耐えかねて退職していた。
 それから数カ月。心機一転、再就職を決心した美香は、すくすくっこルームの求人情報を見つけて見学に訪れた。
 すくすくっこルームはこぢんまりとした保育所だったが、明るく清潔で、子どもたちがのびのび過ごしていた。さらにこの園は病児保育にも対応しているので、子どもが急病の時でも親は仕事を休まずに済む。
 まさに親にも子どもにも素晴らしい環境で、勤務条件も悪くない。美香は強く心をかれた。
 ぜひ、ここで働きたい。ここでたくさんの子どもたちを笑顔にしてあげたい。そう思って採用試験にのぞんでみると、とんとん拍子に選考は進み、最終面接の場に希和子が現れた。

「肩がったわ。んでくれないかしら、有吉さん」

 エレガントなほほ笑みを浮かべながら、カリスマ社長は何とも突飛とっぴな要望を言ってよこした。藤堂フーズについてはホームページで調べた程度の知識しかなかったが、希和子がたびたびテレビに出ていたこともあり、彼女の顔と名前は知っていた。
 これも何かの適性を見るのだろうと、美香は求められるまま、社長の肩を揉み始めた。
 すぐに希和子が心地良さそうな声を上げる。

「あなた、上手ねぇ……。力加減がちょうどいいわ」
「ありがとうございます。以前の上司も肩凝りがひどくて、たびたび揉んでおりました」

 気を良くした美香は、ついついそんなことを言ってしまった。元上司の園長は希和子と同世代の女性だったが、人使いが荒く、よく肩や腰のマッサージをさせられていたのだ。

「そうなの。どうりで上手なはずだわ。素晴らしい才能をお持ちよ」
「才能だなんて……。ただ子どもの頃からピアノを習い、学生時代はテニスもやっておりましたので、指の力や握力が強いのだと思います」
「まあ、ピアノにテニス。素敵なご趣味だわ。あ、あ、そこそこ……、うーん……」

 気持ちいいわぁ……と、希和子があまりにも無邪気むじゃきに喜ぶので、美香は心を込めて肩を揉み続けた。今思えば、それが運のツキだったのかもしれない。
 やがて希和子はにっこりほほ笑むと、人事部長に命じた。

「彼女はあたしの秘書にしてちょうだい」
「はい?」

 顔を見合わせる美香と人事部長に、希和子はきっぱりと言い放った。

「聞こえなかった? 有吉美香は社長室付の秘書で採用よ。有吉さん、明日から出社してちょうだい」
「でも、わたしは保育士の求人を見て……」
「代わりの秘書が見つかるまでよ。見つかり次第、すくすくっこルームに異動させてあげるから。それまで頑張りなさい!」

 有無うむを言わさぬ希和子の勢いに圧倒され、美香は拒否することができなかった。後で聞いたのだが、ちょうど前任の第二秘書が辞めたばかりで、希和子は肩揉かたもみが上手な人材を大至急で探していたのだそうだ。
 以来、美香の新米秘書としての日々が始まった。
 業務中に肩がれば――

「肩が凝ったわ。有吉、揉んでちょうだい」
「はい、ただいま」

 経済番組に出演するため、テレビ局に行った時も――

「スタイリストが用意した服が気に入らないわ。すぐにテレビ局まで別の服を持って来て」
「すっ、すぐにお届けいたします!」

 さらには、ロシアからVIPを迎える時に――

「ロシアからお越しになるお客様が、忍者に会いたいそうよ。手配して」
「はい、え、忍者?」

 社長のリクエストは私用も含めて膨大ぼうだいな量だった。残業なんて当たり前、深夜だろうが休日だろうが、お構いなしに携帯に連絡が入る。悦子の話では、前任の第二秘書は一カ月もたずに辞めたらしい。
 しかし美香だけが厳しくされているのではなく、社員全員が高い水準を求められているのだ。有能と認められれば、年齢や性別に関係なくチャンスを与えられる。逆に無能の烙印らくいんを押されてしまうと、古参こさんであってもバッサリ切られる。
 そのため、社員たちは陰で社長を「ピンヒールを履いた悪魔」と呼び、恐れていた。
 新しい秘書さえ見つかれば、すぐにも保育所に異動できる。そう信じて頑張っている美香だが、半年以上経ったのに、いまだに代わりの秘書は来ない。仕事の神は間違いなく自分を見捨てたのだと、近頃真剣にそう思う。


「どうした。暗い顔して」

 買ってきたラテを手に、美香がエレベーターを待っていると、隣に人が立った。顔を上げなくても誰だかわかる。こののびやかな甘い声と、その場にいるだけで人々の注目を集めてしまうような存在感。

「専務」

 希和子の次男で、この会社の専務を務める藤堂貴大たかひろがそこにいた。今日も仕立ての良さそうなスーツに身を包み、後ろには坂田さかたという、若い男の秘書を従えている。

「また社長のパシリか」

 からかうように言うと、貴大は美香の手にしたラテを見てぷっとき出した。

「パシリだなんて……。これがわたしの仕事ですから」

 後ろで坂田も笑った気がして、美香はとても恥ずかしくなった。

「悪い。冗談が過ぎたな。確かにそれも大事な仕事だ」
「いえ……」
「有吉がいつも骨を折ってくれるから、社長が気持ち良く仕事ができる。結果、俺たち役員や各部署のトップへの風当たりも弱くなり、社内に平穏が訪れ、仕事の効率が上がる。みんな有吉には感謝してるよ。そうだよな、坂田」
「はい、専務」

 坂田は美香をちらりと見ると、ほとんど表情を変えぬまま返事をした。
 一応はめてくれているらしい。美香の沈みかけた気分が、じわじわと浮上し始めた。
 貴大はいつもこうだ。顔を合わせるたびに、元気か? 飯食ったか? 残業ばっかするなよ、などと声をかけてくれる。
 重役なのに気さくな性格で、ちょっぴり俺様な一面もあるが、基本的には誰にでも親切だ。
 年齢は三十歳。陰で悪魔と呼ばれている母親には顔も性格も似ておらず、その風貌ふうぼうはとろけるほどにハンサムで、希和子の長男で副社長を務める大輔だいすけ共々、「独身極上ブラザーズ」とささやかれ、社内の多くの女性をとりこにしている。

「有吉。もっとこっちに来いよ。ラテを落とすぞ」
「は、はい……」

 エレベーターは、思ったよりも混んでいた。貴大は体の向きを変え、美香とラテが押し潰されないように、自分の腕でガードしてくれる。
 美香の頬は、長身の貴大のスーツの胸に押し当てられた。

「専務、あの……」
「じっとしてろ。でないと、こぼすぞ」
「はい、でも」

 ど、どうしよう。これじゃあ、まるで――
 まるで満員電車の中で抱き合うカップルのようだ。顔を上げれば、貴大と至近距離で見つめ合うことになってしまう。けれど無理に動けば、社長のラテが潰されかねない。彼が身に着けたさわやかな香水が鼻をくすぐり、美香の心臓はバクバク鳴り出した。
 どうか、彼に聞こえませんように。
 目的の階に着くと、美香は慌てて貴大から離れ、エレベーターを降りた。そして一緒に降りた彼に、頬を赤らめながら礼を言う。

「ありがとうございました」
「いや。それより顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「熱なんか、ありません……」

 あなたのせいです――
 入社してから、ずっとずっと、憧れてきたのだから。しかしそれは口にできない。
 彼の周りには、彼を狙う美女がうじゃうじゃいる。美香のような平凡な容姿の雑用係などお呼びじゃないのだ。
 しかも以前に悦子から聞いた話では、貴大は希和子の意向でたびたび見合いをしているらしい。希和子の兄は日本有数の大企業である、藤堂グループ総帥そうすいの藤堂和明かずあきだ。となれば見合いの相手も、良家の子女に違いない。
 貴大は優しいから、自分のことを気にかけてくれる。だけど、身の程はわきまえなくてはと、日頃から美香は思っていた。
 お先に、と貴大に一礼し、美香はソイラテを持ったまま廊下を急いだ。しかしすぐに貴大に追いつかれた。社長室はこの突き当たりなのだが、専務室も同じ方向なのだ。
 ちなみに秘書室も同じフロアにあり、室長と役員付ではない秘書たちが詰めているが、美香と坂田は、それぞれのボスの部屋の前に席を用意されていた。

「有吉」
「はい?」

 美香と並んで歩きながら、貴大が話しかけてきた。

「最近どうだ?」
「どうだとおっしゃいますと?」
「仕事だよ。無理してないか? いくら社長相手でも、できないことはできないと言っていいんだぞ」

 上方から、優しい視線が降りそそいだ。この会社で美香にこんな言葉をかけてくれるのは、たぶん貴大だけだろう。他の社員は社長の機嫌をそこねないように立ち回ることで精一杯で、美香のような雑用係を気づかう余裕はないのだ。貴大の優しさに触れて、胸の中が温かいもので一杯になった。

「ときどき、難しいご要望をいただきますが、なんとかなっております」

 実際はときどきではない。しょっちゅうだ。しかしそこは貴大の手前、呑み込む。

「そっか。ありがとう」
「はい?」
「おふくろのワガママを聞いてくれて。礼を言うよ。役員と息子と、両方の立場から」

 美香は足を止めた。嬉しくて涙が出そうだった。
 貴大は数歩進んでから、両手をスラックスのポケットに差し込んで振り返る。

「いえ、だって、これがわたしの仕事ですから……」
「そうか。じゃあ、君の仕事を頑張れよな。そのうち飯でもおごるから」

 端整な顔にセクシーな笑みを浮かべ、貴大は専務室に消えた。その後に坂田が続く。
 見送る美香の胸はきゅんきゅん鳴っていた。仕事の神には見捨てられたが、恋の神はまだ諦めるなと言っているみたいだ。
 手の届かない相手。けれど想い続けるのは自由だということだろうか。



   2


 イケメンの笑顔は、疲れた心に栄養を補給してくれるサプリみたいなものだ。
 けれど時間が経つと、その効力は消えてしまう。
 四月に入って最初の金曜日。貴大は昨日から大阪に出張している。エレベーター前で励まされた日以来、顔を合わせても食事に行く話は出なかった。
 ほらね。やっぱり社交辞令。期待するだけ無駄なのよ。
 午後九時を回り、一人で社長室の片付けをしていた美香は、残念な気持ちで一杯になった。
 社長は夕方から、悦子を伴い同業者との会合に出ていた。今頃は仕事の話も終わり、ホテルでの会食の最中だろう。それが済めば、二人ともまっすぐ帰宅する予定だ。

「ホテルのブッフェか。わたしなんて……」

 リフレッシュルームに常備されている冷凍グラタンを、残業の合間にレンジでチンして一人で食べた。食材宅配会社なので、社員のために無料の軽食が用意されているのだ。他にはパンやフルーツ、飲み物もそろっている。
 来週になったら、退職願を出そうかな。
 もくもくとデスクまわりの片付けを進めていくうちに、美香の頭にはそんな考えが浮かんできた。
 秘書の仕事には慣れたと思っている。悪魔のような社長ではあるが、あれでなかなか可愛いところもあるのだ。美香が肩をんであげると心から喜んでくれるし、残業代もケチらない。髪型はこうしてみなさいとか、こんな色のブラウスが似合うとか、少々強引だが的確なアドバイスをしてくれる。それに従った結果――

「美香、オシャレになったわねえ」

 去年の暮れに実家に帰ると、母親にそう言われた。久々に会う友人の反応も同じだった。められて悪い気がするはずもなく、だったらもう少し秘書を頑張っちゃおうかな? ……となってしまったのだ。しかし、ふと冷静になった時、やっぱり子ども相手の仕事に戻りたくなる。社長好みのスタイリッシュなスーツやパンプスで過ごすより、動きやすい服にスニーカーで園庭を走るほうがしょうに合ってる――めぐり巡って、こんな結論に落ち着くのだ。
 だが、この調子ではすくすくっこルームには異動できないと思う。永遠に。

「やっぱり神様なんかいないわ。いるのは、ピンヒールを履いた悪魔だけよ」

 金曜日だというのに、デートの予定もないさびしい現実。自分は社長に上手く丸め込まれているのだというストレスが高じて、美香はつい愚痴ぐちらしてしまった。するといきなり背後でドアが開く音がした。

「何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「きゃっ! せ、専務……!」

 驚いた美香が振り返ると、社長室の入り口に貴大が立っていた。いつ大阪から戻ったのだろう。

「驚かせてごめん。明かりがついていたから、おふくろがいるのかと思ったら、やっぱり君だったのか」

 半ば冷やかすような口調で言うと、貴大はすたすたと中に入って来た。どうやら社長の悪口の部分は聞いていないらしい。美香は、ほっと胸をで下ろした。

「社長はホテルでの会合の後、そのまま帰宅のご予定です。急ぎのご用件でしょうか?」
「いや、そうじゃない。君一人か? 高木はどうしたんだ」
「社長のお供の後、直帰すると連絡がありました。わたしも片付けが済んだら帰ります」
「そうか」

 貴大は腕時計を確認しながらゆっくりと近付いて来た。空気が動いて、彼のまとうシトラスの香りが鼻をくすぐる。
 この香り、嫌いじゃない。さわやかすぎず、ほのかに甘い。この前エレベーターの中でいだから覚えている。
 スーツはどこのブランドだろう。銀座辺りに店を構える老舗しにせのテーラーだろうか。
 もしくは母親がヨーロッパの高級ブランドが好きだから、そちらかもしれない。たとえばアルマーニとか、グッチとか。どちらにしろ、長身で肩幅のある彼だから、なんでも似合いそうだ。そして思う。
 どうして彼は、あの社長の息子なんだろう。
 いずれどこかの社長令嬢と結婚するのだろうから、下手に近付かないでほしい。優しくされたら期待してしまう。高鳴る胸をどうしずめたらいいかわからなくなる。
 彼への想いがつのりすぎて、どうにかなりそうだった。そんな美香に、腕時計から視線を上げた貴大が声をかける。

「食事はまた今度だな。そろそろ切り上げろ。家まで送るから」
「え?」

 美香はぽかんと口を開けたたまま、まじまじと貴大を見た。

「俺の車で君を家まで送ると言ったんだ。実は今日、君を食事に誘うつもりだったが、大阪での仕事がなかなか片付かなくて、こんな時間になっちまった。すまないな、俺のほうから言い出したのに」

 先日言っていたのは、どうやら本気のお誘いだったらしい。奈落ならくの底まで落ちかけていた美香の気分は、彼の言葉に救われぐんぐん浮上していった。

「ありがとうございます。でも、わたしのことならお気になさらずに。電車で帰りますから」
「遠慮は禁物きんもつだ。食事は来週の金曜にしよう。他の予定を入れるなよ」
「でも、あの……」
「くどいぞ。それとも何か、俺の車には乗れないとでも?」
「いえ、そんなわけでは……」
「じゃあ、どうして。俺に家を知られたら困るとか?」
「そんなことありません!」

 また一歩貴大が近付いて来て、思わず後ずさった美香のお尻にデスクがぶつかる。これ以上逃げられない。今夜の貴大は、いつもとは何かが違うみたいだ。

「じゃあ、余計な気を回すな。人の厚意は素直に受け取るもんだ」

 貴大の男らしい黒い瞳が、すぐそばに迫った。
 どうしよう、断れない。だって彼が好きだもの。
 これは一人で残業していることへのご褒美ほうびだろうか。だったら、いっそ素直に受け取ってしまおうか。

「はい……じゃあ、お言葉に甘えて」

 貴大の熱意に負けてうなずけば、彼は表情を和らげて美香の腕をそっと叩いた。

「十五分後に駐車場だ。遅れるなよ」


 貴大の車は黒のドイツ車だった。車高が低めのツードアのボディは、顔が映るくらいぴかぴかに磨かれている。美香を助手席に乗せると、貴大はカーナビをセットして発進した。臨海部にある本社ビルから美香の住むマンションまで、三十分の距離だとナビがげる。

「聞いてもいいか? 有吉」

 車を発進させてすぐに、貴大が口を開いた。

「はい、なんでしょうか」
「そろそろ辞めたくなったんじゃないか? 前の秘書は、おふくろがあまりにもこき使うんで、ある日突然来なくなり、退職願を郵送で送り付けてきたよ」

 心の中を読まれたみたいで、美香は息が止まりそうになった。

「楽な仕事ではありませんが、いつかすくすくっこルームに異動させてもらう約束なので」
「そっか、有吉は保育士募集の求人を見てうちに来たんだっけか」
「はい」

 貴大に直接話したわけではないが、秘書に採用された経緯けいいは社内に知れ渡っている。

「元はキリスト教系の幼稚園で教えていました。保育士の資格も持っております」

 美香は今とは違う日々を思い出す。あの頃は、社長ではなく子どもたちを出迎える朝から一日が始まった。
 春には遠足や写生会、夏はプールに花火。クリスマスの朗読劇や聖歌隊の指導もやった。お給料は今ほど高くはなかったし、中には問題を抱えている子どももいたが、子どもたちに教えることは楽しかった。

「幼稚園はどうして辞めたんだ?」
一昨年おととし、園長が変わったんです。新しい園長は、それはそれは暴君でした」
「なんだか、うちの社長みたいだな」

 貴大の声は、明らかに笑いを含んでいた。

「そんなことは……、確かに社長は厳しい方ですが、理由もなく部下を怒鳴ったりしません。それに残業や休日出勤をした場合は、きちんと手当をくださいます。けど園長は……」

 その時の気分で職員に当たり散らすし、休日には無報酬で私邸していの草取りまでさせられた。

「情緒不安定で、公私混同型……ってとこか」
「そんな感じです。あと、寄付の額で子どもを差別したんです」

 親が裕福で多額の寄付を見込める子どもは、多少の悪さをしても大目に見られた。そんなこと、教育の場ではあってはならないことだと美香は思っている。

「すごい園長だな。ところでキリスト教系ということは、礼拝をやったりしたのか?」
「はい。一日の始まりはお祈りからで、食事の前にも神に感謝の祈りを捧げます」

 ふうーん、と何やら楽しげに貴大は相槌あいづちを打っていたが、やがて真面目な声で言った。

「もしかして、有吉はキリスト教徒なのか?」
「いいえ。前の園はクリスチャンでなくても採用されました」
「そうか、安心した。ついでに君の家族構成は?」
「……両親と弟が一人、川崎に住んでます……って、あの……専務。何が安心なんですか?」

 美香の問いに、貴大は前を向いたまま、大げさに首を横に振って見せた。

「いや、こっちのことだ。それで暴君の園長にムカついて、啖呵たんかを切って辞めたとか?」

 今度は美香が首を横に振る番だった。

「そんな勇気ありません。園長の方針ですから従っていました。けど、一度だけ園長に意見したらその直後からいじめというか、その……」
「パワハラか」
「はい。わたしだけ無視されたり、一人ではできそうもない仕事を押し付けられたり……。それでストレスで体調を崩して入院したんです。もう、辞めるしかないって思いました」

 園内で孤立させられ、不眠や神経性の胃炎に悩まされた。今思うと、メンタルの弱さを痛感する。

「なかなかの修羅場しゅらばを体験してるんだな。それなのにまた、おふくろみたいなボスの部下になるとは」

 望んでなったわけじゃない。ついてなかっただけだ。
 

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