ひとのかたち

織賀光希

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2のかたち

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「今日もミカは、ずっとあそこにいるのか?」
「うん。ほとんど動かずに座ってるわ」
 仕事から帰り、娘の視界に入る黄緑色のソファに、沈んだ。でも、娘が僕の方に寄って来ることはなかった。
 少し前まで、玄関の立て付けの悪いドアを、横に引いた時に現れていた、娘の笑顔。それは、今日もない。

 何かが少し変だ。娘から元気が、消えかけているような気がする。妻も妻で、人形のように、表情をほぼ変えずにいる。そして、淡々と家事をこなしている。
 家の中の会話や笑い声は、全てテレビの中で繰り広げられているものだけ。右の角にあるテレビの画面では、ただ人が流れている。その右側では、中途半端に開けられた、窓から吹く風で、水色のカーテンが揺らめいている。
 正面を向き、首の角度を少し上げた。すると、真ん丸の時計の秒針が一定のリズムを刻んでいた。

 その時計の、やや左下の地べたには、娘と、その仲間達が、静止画のように存在していた。
 娘と、その仲間達の右側で動く、この幾つもの微動が存在しなかったらヤバかった。僕の時間は、もう止まってしまっていたことだろう。
 娘は、正面の突き当たりの、硬いフローリングにいた。お人形さんのように、腰を据えていた。
 娘の左には、頭でっかちで、様々な濃さのグリーンで織り成された、ミドリちゃん。右には、細身で異国感溢れる金髪の三姉妹が、昨日と変わらず鎮座していた。

 娘が言うには、左から長女、次女、三女らしい。娘に寄り添っているのは、どうやら三女らしい。娘は、彼女達を『ドール三姉妹』と名付けた。今はそのドール三姉妹と、心の中で会話をしているようだ。娘は、お人形の世界に、どっぷりと浸かっていた。
 おめめを前よりも、クリクリとさせている。長い髪の毛は、後ろで綺麗にまとめられている。首は、あまり揺れてはいない。そして、口元には、ほのかな笑みを浮かべている。以前に増して、娘はお人形さんだった。

 娘が、本気でお人形になりたいという気持ちが、ズッシリと伝わってくる。今は、とても可愛いという言葉以外、出てこなかった。
「ミカ? もうすぐご飯よ!」
「はーいっ!」
 妻のやる気の無い、地を這うような声に、娘が全力で答える。その心を擽るような、人間味のある高音に、胸の中に詰まっていたわだかまりが、ストンと落ちていった。

 娘の顔全体に、幸せそうな笑顔が溢れ出す。僕の目をざわつかせるほどの動きを、見せ始めていた。床の板を蹴る一定のリズムが、テーブルの周りを大きな音で、ぐるぐると回り続ける。
 テーブルに置かれたパステルカラーの食器や、食器に盛られた茶色いおかずの方に心配が移る。それほど、娘は元気に走り回っていて、少しだけほっとした。

 あの定位置に、娘がいる時の恐ろしいほどの静けさに、思考回路は麻痺していた。そういえば、昨日の娘も、こんな感じだった。元気がないのは、お人形さんに埋もれているときだけ。なりきっているのだから、仕方がないと思うしかないのだろう。
 娘の、息を飲むくらいの再現率は、不安を煽る。もう、はしゃいでいる娘を、見られないのではないか、とさえも思ってしまう。なりきりすぎず、隣のお人形さんの真似を、初めてした時のような、ぎこちない感じが、僕にはちょうど良かった。

「ミカ、座って食べよう」
「はーいっ!」
 四角いテーブルのまわりを沿うように、走り回っていた娘は立ち止まる。そして、ちょこんと座った。
 フローリングに比べて、格段の柔らかさを誇る、黄土色の絨毯が、娘を受け止める。娘が、背を向けているテレビからは、深刻な声が流れていた。
「ミカ、さっき本当のお人形さんみたいだったぞ」
「みたいじゃなくて、ミカは本当のお人形さんだもん」
「そうだったな」
「パパも一緒にお人形さんになろうよ」
「あっ、パパはいいかな」

 こんな時くらいしか、娘の声は聞けない。食事、お風呂、寝るとき以外はほぼ、お人形さんたちに、埋もれてしまっている。お人形さんになっているときは、話しかけても、口を利いてくれない。
 娘のお人形さんになるという夢も、もちろん大切にしたい。だが、クリクリしたおめめで、嬉しそうに僕を見つめながら話す、このような時間の方が、大切だと心から思っている。
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