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ラブソング

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 日曜日といったら、俺は昼まで寝ていることが多かったが、この日は、朝7時に起きた。
 ミカと約束した、ミサに出席しなければならない。

 親父も母も弟の隼人も皆まだ寝ている。俺は音を立てないように足を忍ばせて、自分の部屋から洗面台に行った。
 ぼさぼさの髪をヘアー・ブラシで整えて歯を磨くと、ミカに会える喜びが眠気を取り去った。
 鏡に映る俺はみすぼらしい。

 教会に行くんだったら、どんな恰好をすれば良いのか? 金髪のだらしない俺が、教会の中に入らせてもらえるのか?
 不安になる。自分の部屋に戻り、俺は髪をスプレーで黒くして、襟のある白のポロシャツと、目立たない黒のジーンズを身にまとった。
 俺にできる精一杯のフォーマルな装いだ。これで神様は許してくれるだろうか?

「何してんの?」
 パジャマ姿の母がノックのせず俺の部屋に入ってきて、眠そうな目で俺に言う。俺の物音で起きたみたいだ。そして、母は不審な目で俺を見ている。

「出かけるんだ」
「日曜日のこんな朝っぱらから? 髪を黒くして、どうしたの? そんな外見だけ綺麗にして、……ホントに、ゲイみたいね」
 少しでもまともになろうと前向きになっている俺に対して、母は容赦なく悪口を言う。

 もう許せなかった。
 
 怒りを止められない俺は、ヘアー・スプレーを床に思い切り投げつけた。
「何するの! この男女」
 母は大声で言う。
「俺の勝手だろう! 部屋から出て行けよ!」
 俺が叫ぶと、母が泣いた。
「どうしたんだ? 一体何事だ?」
 騒々しさに親父まで起きて、俺の部屋に入って来る。

「別に」
 俺は素っ気なく答えた。
「タケシが暴力を振うの」
 母は泣きながら、親父に助けを求める。

「タケシ、親不孝をするのもいい加減にしろよ!」
 親父は、俺に殴りかからんとする勢いで、俺の胸元を掴んで怒鳴った。親父は警備員の仕事をしているから体格が良い。

「俺は確かに隼人みたいに頭も素行もよくないよ。でもな、なぜこの家の奴らは皆、寄ってたかって、俺を見下げるんだ? 俺はゲイじゃないけど、少数派だ。それが悪いか?」
 俺の言葉に、親父は俺を殴るのを躊躇し、胸元を掴んだ手を離した。

「ご近所さんに恥ずかしいからよ」
 母が横から口出しした。
「何だと? 俺は息子なのに恥ずかしいのか?」
「もう、勝手にしなさい!」

 母は俺を見捨てて部屋を出ると、親父もついて行った。
 この家に俺の居場所はない。今更、親父や母の態度が改まるのを期待すらしていない。もう家庭崩壊の末期的な症状だ。

 俺は、ため息混じりに家を出た。
 自転車に乗って教会に向かうと、途中で小雨が降り出す。空には、どんよりとした厚い灰色の雲が覆っていた。
 俺は傘を差しながら自転車を運転する。
 日曜日の朝は、琵琶湖岸の国道161号線に全然車が通らない。いつも渋滞している道が静かだと、世界にたった一人取り残されたような不思議な感覚になる。

 右手に広がる琵琶湖を見ると、さざ波の中でマガモが親子で寄り添っていた。昔ここで母と一緒にマガモにパンの切り屑をやったものだ。かつて母は優しかった。
〈タケシ、お前はどんな大人になるんだろうね? お母さんは、それだけが楽しみなんだから〉
 昔の母の言葉を思い出すと、虚しさで胸が張り裂けそうだ。

 俺が間違っているのか? 俺の実の父親が生きていたら、俺を助けてくれるだろう。しかし、もう死んだのだ。死ねば、全てが消える。
 母も死んだ「俺の本当の親父」について一切口にしなくなった。薄情な母が憎い。憎しみがまた俺の心を狂わせる。

 雨の滴が琵琶湖の水面にリズミカルに落ち、悲しみの波紋を広げる。俺は一人ぼっちだ。
 ミカはそんな俺を、邪魔者扱いしない。あいつだって親に捨てられた身なのに自分を卑下せずに、前向きに生きている。どうしてあんなに強くいられるのか、俺には理解できない。

 4日前、ミカと二人きりで歩いた道。
 この道の果てに俺の未来があるんだろうか?
 自転車のスピードを上げて、静まった街の朝を眺めていると、気持ちが落ち着く。軒を連ねる釣道具屋や、喫茶店、電気屋などはまだ店を開いていなかった。
 馴染みのあるスタジオ161を通り過ぎる。今日はミサが終わった後、午後からここでまた練習する予定だ。

 雨の匂いがする。
 小雨は渇いた無機質な街に潤いを与え、風景を和ませる。湿った風が頬に当たり、髪を揺らした。そしてやっと教会が見えた。
 教会の敷地内に自転車を止める。外国人や日本人数人が歩いて次々に教会の中へ入っていった。素行のよさそうな信者たちの、幸せそうな横顔を見ると、はたして俺にここに来てよかったのか、と改めて疑問に思った。
 知らない場所に踏み込むのは、やっぱり度胸がいる。俺は身震いがしたが、勇気を振り絞って教会の中へ入った。
 教会には長いテーブルと椅子が左右対になって並んでいる。参拝者は少ない。全部で20人前後だろうか。テーブルは空きのスペースが目立っている。
 テーブルとテーブルの間にある中央のスペースは、結婚式ではバージン・ロードとして使われる通路だ。テレビで見たことがある。俺は一番後ろのテーブルに着席し、ミカを探した。

 教会の一番奥には、色とりどりのステンド・グラスでデザインされた天井と、その下に神が括り付けられた十字架が飾られている。十字架の手前には神父が教義を教えると思われる司会台のようなものに、マイクが設置されていた。
 神父はまだ来ていない。

 司会台の右手にはオルガンに奏者が座っている。その対面、司会台の左手には讃美歌を歌う子どもたちがシスターのような黒い服を着て2列になって並んでいた。

「あ、タケシ!」
 讃美歌隊の中から大きな声がする。俺はすぐにミカだと分かった。
 ミサに参加している人たちがミカの騒々しい様子に、凝視する。ミカは讃美歌隊の列を抜け出し、俺のそばに駆け寄って来た。そして神聖な場所だというのに、ミカは大胆にも俺に抱きついた。

「来ないかと思ってた。嬉しい」
 ミカは俺の耳元でつぶやいた。ミカの人肌の温かさを感じると、これだけで生きていることに意味があるように思えた。

 参拝者の視線が俺に突き刺さる。
「なあ、ミカ。神の前で抱き合うのは、ちょっとまずいんじゃないか」
 俺はミカを制止しようとした。神父さんが見たらきっと怒るだろう。
「別にいいじゃない。ねえ、何で今日は髪が黒いの?」
 ミカはやっと俺の体から離れ、黒髪を見て言った。

「だって、ふしだらな恰好でここへ来たら天罰が下るかなって思ってさ」
「ふふ、いつもどおりで良いのに」
「そんな奴がここへ来たら、神父さんが怒るぞ」
「大丈夫だって。ダディーは見かけだけで人を判断しないから」

「ダディー?」
「ここにいる子どもは皆、神父をそう呼ぶの」
 静かであるべき場所で俺とミカが大きな声で無駄話をしていると、そのダディーが入って来た。
 白髪で髭を生やし、背の高い太った外国人だ。入ってくるなり笑顔で私とミカに近づいて来た。

「ようこそ。こちらは初めてですね?」
 神父は日本語が上手かった。俺は頭を下げる。
「ダディー、この人がタケシ」
「オウ、この前聞いた人だね。私はこちらの教会の神父、アランです」
 神父は、上から下まで俺を舐めるように見て笑った。
「ロックン・ローラーじゃないのですか? これじゃファンキーじゃなくてつまらないですね」
「へ?」
 神父はまた大声で笑った。

 随分大らかで型破りな性格のようだ。普通だったら、小学生のミカをたぶらかしている、と怒られるシチュエーションなのだが。ミカ同様、神父もちょっと変わっている。

「よろしい。今日はよく来てくださいました。タケシさんは世間に抗うかのような、いい目をしています」
「そうですか?」
「いいことです」
「いいことですか?」
「はい。欲を言えば、もう少し自分らしいロックなファッションの方がいいかな」
「本気ですか?」

 俺は神父の言っているのが冗談だと思った。だって世間の真っ当な人たちとは、おおよそ反対のことを言うからだ。
「本気に決まってんじゃん」
 ミカが横から口出した。ミカも神父と同じようににやにや笑っている。

「いいですか、あるがままの自分を偽ってはいけません。人は時に過ちを犯します。しかし本当のあなたは、愛を求めている。そして人々の心を鎮めようとしている。これは尊いことです。だからロックに生きなさい。そして人を信じ、ラブ・ソングを歌いなさい」

「ラブ・ソングですか? は……い」
「では、一緒に祈りましょう。ミカ、お前も列に戻りなさい」
「はーい」
 神父に促され、ミカは俺に小さく手を振って讃美歌隊の列に戻って行った。神父が教会正面の一番前にある司会台につくと、参拝者が一同に立ち上がり、讃美歌を歌う。そして聖書を講義し出した。

〈あるがままの自分〉
 俺は、神父が言った言葉が頭の中から離れない。俺を否定するのではなく、肯定した。こんな大人が世間にいる、ということが驚きだった。

 ミサは2時間程で終わった。中身や内容など俺には分からないが、不思議と穏やかな気持ちになる。参拝者は帰り、孤児院の子どもたちらしき讃美歌隊のメンバーも教会から出て行ったが、その中でミカだけはまた俺のところに駆け寄って来た。

「どうだった?」
 ミカはわくわくした顔で、俺にミサの感想を聞いてきた。
 シスター姿のミカは、また魅力的だった。
「どうって?」
「悪くないでしょ、この教会」
「うん。神父さんは、不思議な人だな」
「そう? まともな大人だと思うけど」
「まとも過ぎて、びっくりだよ。世間の大人はあんないい人ばかりじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん」

 ミカの純粋さが、痛かった。俺はミカの大きくて澄んだこの目を絶対に汚したくないって思えた。
「ねえ、ダディーが言ってたみたいに、ラブ・ソング、つくってよ」
「ラブ・ソングはつくったことがないからな。難しいよ」
「ねえ、外に出よう!」
 ミカは俺の手を引いて、教会の外へ走って連れ出す。そして、人気のない教会の敷地内にある中庭に行き、周りを見わたして、誰も見ていないことを確認する。

「おい!」
 ミカが見つめながら抱きついてくる。これは、さすがにマズいだろう。
「何よ、いいでしょ? 私のこと嫌い?」
 ミカは強引だ。
「いや……」
「私のこと、好きでしょ? 違う?」
「うん、……す、き、……だけど」
「じゃあ、いいじゃない。大人のタケシがしかけたら犯罪だけど、子どもの私が無理矢理やったら不可抗力になるでしょ」
「えぇ、でも……」

 何が起こったのか、すぐに理解できないが、唇には柔らかい感触がある。
 これが、キス……というものか。

 ミカはいつも自分の気持ちに真っ直ぐ過ぎて、俺は戸惑うことばかりだ。
 21歳の俺が小学6年生のミカとキスをしている。しかも教会内で、だ。
 でも、そんな強引なミカを俺は愛しく思った。
 情熱に満ちたミカの唇が離れると、ミカははにかんだ女の顔になった。

「ね、今の気持ちを歌にして。タケシは一人じゃない。私がいる。私を想うラブ・ソング、聴きたいの」
 ミカが甘えた声で言う。
「やってみるよ。ミカがそばにいてくれるんだったら、何でもできるような気がする」
「本当? 好きだよ、タケシ」
 そして再び神を冒涜するかのようなキスをした。

 それまではいつか誰かに裏切られるんじゃないか、と怯え、バンドのメンバーにさえ警戒していた。
 ミカは裏切らないという絶対的な安心感をくれる。人が人を想う、愛ってものを信じてみようと初めて思えた。

 この夜、俺は自宅で初めて愛をテーマに作詞をしてみる。ミカを想う愛を真剣に受け止め、詞を書くのは、どうも恥ずかしい。バンドのメンバーに見せたら笑われるんじゃないか。
 しかし、覚悟を決めた。きっとこれも、俺が大きく成長するためのステップだ。今後音楽活動を続けていく上で、ラブ・ソングは必須のものだからだ。

 目を閉じて、キスの感触を思い出した。そして大きく息をすると、自然と俺の握ったボールペンがノートに言葉を並べていく。

 一人じゃないんだ、誰だって 
 そう信じるたび 人は生まれ変わる
 切り刻んだ聖書の中に
 愛の欠片が埋もれてる
 さあ十字架を背負ってキスしよう
 あなたに巡り会えてよかった
 一人じゃないんだ、この世の誰もが
 愛がある
 かけがえのない愛がある

 こんなロマンチックな内容を真面目に俺が書くなんて狂気染みている。
 書き終わると、改めて自分が変わったのだと再認識できた。

 思い尽くすままに書いたバランスの悪い字数の詞だ。口ずさみながらギターを持つと、メロディが溢れて出てきた。歌詞の上にコードを記入し、詞を付け足したり、一部を削除したりしているとまとまった歌になった。

 タイトルは『キス』。
 通常だったら俺の詞を元にユウタが作曲するのだが、ラブ・ソング第1号となるこの歌だけは自分で全てつくりたかった。

「は? 何だこりゃ?」
 翌日バンドのメンバーとスタジオ161に集合し、俺が昨夜書き上げた曲のデモを聴かせると、ユウタは拒絶反応を示して言う。
「キスだってよ、キス。お前が恋愛をテーマに書くなんて異常だぜ」
 アツシは、俺を馬鹿にして大笑いしている。

「タケシ、あのガールに惚れたな? このロリコン! キスしたのか? ひょっとしてやっちゃったの? この犯罪者!」
 アツシは突然背後から右腕で俺の頭をヘッド・ロックし、からかった。
 アツシは歌のクオリティの部分じゃなく、俺の精神的な変わりように興味を持ったようだ。

「ミカは関係ない」
 俺の必死の弁解など、アツシは聞いていない。
「『ミカ』だってよ。聞いたかユウタ? もう恋人感覚だな」
「アツシの言い方は大げさだけど、確かに小学生をたぶらかすのはよくないぞ」
 ユウタは、異様に思っている様だ。

「作詞と俺のプライベートは関係ないだろ。それに、小学生のミカに21歳の俺が手を出す訳がないだろ」
 俺は嘘をついた。メンバーに事実を言えば変人扱いされそうだったからこう言うしかなかった。

「そうなのか? 面白くないな」
 ミカと俺との関係をネタに騒げなくなるとアツシは静かになった。
「なんでこんな歌、つくったんだよ。こんなのバンドの音楽性と違うじゃないか」
 ユウタは真面目に、作詞の内容を吟味している。アツシも頷いた。メンバーには、この歌のテイストを受け入れがたいようだ。

 しかし、俺はこういう音楽を一度やってみたかった。愛がなくて怯える人たちが少しでも愛について何かを感じ取ってくれるのなら、俺たちが音楽に熱中することの意味を見出せそうな気がしたのだ。

 そして俺に期待するミカのため。
 これは俺のエゴかも知れない。でも俺のエゴでバンドの音楽が進歩するんだったら、文句はないはずだ。
 俺はメンバーを何とか説得したかった。

「俺は至って真面目なんだけど。どうだ、駄目かな? カッコ悪くても、バンドの人気を出す戦略としてあえてピュアなラブ・ソングを歌ってみないか?」
 俺は、理屈をこねて説得する。
「世間に媚を売ってるみたいじゃないか」
 ユウタは、自分の担当である作曲まで俺が手を出したことすら不満に思っている。

 俺はギターを弾いて『キス』を歌ってみせた。本気だというのを示そうと、ただ、盲目的に叫ぶように声を出す。
「テンポは、もうちょっと早めの方が良いな」
 聞き終わったアツシがぽつりと言った。目を閉じてドラム・ワークをイメージしているみたいだ。

「サビは転調して、半音上げた方が良いかな。その方が盛り上がる」
 ユウタは冷静に俺の原曲を分析すると、ベースを持ってこの歌にマッチするように弾き始めた。
 三人で演奏を合わせ、途中それぞれのアイデアを付け足しながら、ミディアムテンポのロック・バラード『キス』が完成した。

 後日、飛翔のライブでこの歌を試しに歌ったら、今までに体験したことのない客の反応を感じた。魂のこもった愛の歌は、凄いパワーを持っている。
「最高! タケシって、すごい」
 ライブに来てくれたミカも、この歌を聞いて歓喜の声を上げる。そしてライブを終えるとミカがまたステージに飛び乗ってきて、俺に抱きつき、頬にキスをした。

 音楽とは愛だ。俺は確信する。
 本物の愛を世の人々は求めている。そしてミカがその愛の大切さを教えてくれた。
 こんな風にして、かつて反抗的で騒がしい音楽一辺倒だった俺たちの音楽に対する姿勢が変わった。
 俺はミカへの尊敬と愛を昇華させて、誰もが共感出来るラブ・ソングを作詞するようになる。ユウタも俺の愛の詞に触発されて、メロディー・ラインに狂おしい魂の叫びみたいな凄みが、作品の中に出始めた。

 そして駆け出しだった俺たちのバンドは実力を徐々に発揮し、ライブハウス「飛翔」の中でトップへと登り詰めた。
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