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菊次郎の思い

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 老人はニコリと微笑んで言った。

「わしもお前さんと同じだよ。吸血鬼になりたてで混乱しているんだね?わしについて来なさい」

 辰治はぐったりしている男を見ると、この男はすぐ意識を取り戻すから大丈夫だと老人は言った。

 老人は菊次郎といった。吸血鬼になったのは七十歳の時だったそうだ。辰治の主人であるエグモントが日本に来て最初に吸血鬼にしたのが菊次郎なのだそうだ。

 菊次郎は辰治に吸血鬼としての生活の仕方を教えてくれた。きっと辰治が菊次郎に出会わなければ、人間を殺しまくってエグモントに粛清されていただろう。

 菊次郎は宿なしの人間たちのコミュニティを転々として暮らしていた。いわゆるホームレスだ。菊次郎はしみじみ言った。

「家を持たない連中はいい。皆自由だ」

 菊次郎はホームレスたちにも親切だったので、皆菊さん菊さんと頼りにしていた。なじみのホームレスたちに声をかけられると、菊次郎は辰治の事をこう紹介した。

「辰治はわしの息子みたいなもんだよ」

 その時の言葉を辰治は一生忘れないだろう。辰治は親にうとまれて育った。だから親に反抗するために極道の道に進んだ。だが本当は、親に愛して欲しかったのだ。その満たされない欲求が、辰治に破滅の人生を歩ませたのだ。

 辰治は菊次郎によく懐いた。菊次郎は長く生きているので色々な事を辰治に話してくれた。辰治は菊次郎の話しを、小さな子供のように喜んで聞いた。

 そんな辰治を見て、菊次郎はしみじみ言った。

「辰治は本当に良い子だなぁ。何故こんな暮らしをするようになってしまったかなぁ」
「俺はこの暮らし気に入っているよ。おやっさんもいてくれるし」
「だがなぁ、わしはもう、そう長くは生きないだろう」

 菊次郎の言葉に、辰治はハッとして叫んだ。

「何言ってんだよ!おやっさん!吸血鬼は永遠に死なないんだろ!俺はおやっさんとずっと一緒にいてぇよ」

 必死な辰治の顔を見て、菊次郎は困ったように笑って答えた。
 
「そうさなぁ。辰治に共に生きていける仲間ができるまで、がんばるかな」
「俺はおやっさんが仲間でいてくれれば他の奴らなんてどうでもいい」
「そうはいかん。吸血鬼といえども死ぬ時は来る。わしら元人間の吸血鬼は特にな」

 その時の辰治にはわからなかったが、菊次郎は吸血鬼が絶対の存在でない事に気づいていたのだろう。

 辰治は菊次郎の事を思い出し、静かに泣いていた。すると誰かの気配を感じた。振り向くと、辰治のとなりの幹に響が立っていた。

 肩にはトートバッグをさげていて、バッグからは長ネギが飛び出している。響はにこやかに言った。

「辰治、今日ナベやるからお前も来いよ。ジュリアが言ったんだ、辰治はここにいるって」

 響は辰治が泣いている事にはいっさい触れなかった。おそらく辰治のもう一人のご主人である美しい吸血鬼が言ったのだろう。辰治が悲しんでいると。

 辰治は久しぶりに温かい家で美味い食事にありついた。ナベには肉も野菜もふんだんに入っていた。酒は亀のラベルがついたもので、いい日本酒なのだとわかった。少し甘口で、辰治はもう少し辛口がいいなと思った。

 そのまま泊まっていけといわれ、辰治は響と床に転がって眠った。ジュリアだけがベッドで眠るのだ。

 辰治はうとうとする中、ぼんやり考えた。エグモントはどうしてわざわざ辰治に吸血鬼の処分を命じたのか。もしかすると、菊次郎の仇を討たせようとしてくれたのではないか。そう考えてから、辰治は眠りについた。

 

 
 
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