モラトリアムの猫

青宮あんず

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初日に、3

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何となく察していた。
トイレに入る姿を見届けてから、随分と長いこと戻ってこない。ギリギリまで我慢していたことは明らかだったのだから失敗していたとして驚かない。
しかし、失敗したばかりの彼を萎縮させるのは気が引けた。
自分のガラの悪さにはそこそこの自信がある。実際、朔也くんを迎えに行った時、彼は俺を一目見て明らかに身体を強ばらせていた。車内でも俺の顔色を気にしていたようだし、反応を見れば俺に怯えているのは明らかだった。とはいえご飯を買い与えてからは少し安心したようで表情も和らいでいた。
きっと、俺が何を言っても失敗してしまった彼は怯えている。だったらせめて、たくさん慰めの言葉をかけてあげられるように、彼のところに行ってやるべきだと思った。

「……あー、やっちゃった?」
数ある声掛けのなかで、俺が発したのは間違いの部類のものだと気づいたのは声になってからだ。俺の声に反応して、ビクリと身体を強ばらせる様が可哀想だ。濡れたトイレマットに座り込んだ彼は、溢れてしまったのであろう水分をトイレットペーパーで必死に拭っているところだった。
「ごめ、なさい。ごめ、っひ、おれ、かたづける」
「もういいから、風呂入ってきな。濡れてんの嫌でしょ」
また失敗したかもしれない。優しく言ったつもりだったけど、口から出た自分の声はあまりにも冷静すぎた。
でも、硬い動きで振り向いたその顔は真っ青で、これが「青ざめる」ということか。なんて考えていた。あと、涙でびちゃびちゃ。
座り込んだところに目線を合わせて背中を撫でながら、濡れたトイレットペーパーを離させる。
「っ、ごめんなさい、やだ、かたづけ、おれする。ごめんなさい」
「怒ってないから、謝らなくていい。一旦落ち着こう」
自分で汚したところを他人に片付けられるのが嫌らしい。濡れた床はほとんど拭かれているから、あとはマットを変えるだけなのに。
なにも悪いことはしない、落ち着かせてやりたくても、視線を合わせて背中をさすることしか知らない。
少し経てば落ち着いたらしく、無理やり涙を拭ってからまた小さく「ごめんなさい」と言った。
「立てる?無理だったら運んでくけど」
「っん、立てます。すみません」
言葉通りよたよたと立ち上がったから、それに合わせて俺も立ち上がる。手を引いて脱衣所まで連れて行く。あとで下着と寝やすい服を用意してやろう。
棚からバスタオルを取り出して、台の上に置いた。
「濡れた服は洗面台に置いといて。バスタオルはこれね」
「はぃ……すみませ、っひ」
「泣かないで。気にしなくていいから。服はあとでここに置いとく」
「ん、ごめんなさい」
ずっと謝っている。本当に俺は気にしていないし、むしろ自分が怖がらせてしまって言い出せなかったのなら申し訳ないとさえ思っている。まあ、今俺が謝るな気にするなと言ったところできっと変わらないから、それ以上なにか言うのはやめた。
カラカラと扉を閉めて脱衣所を出る。たぶん、一人にしてあげた方がいい。というより、俺があの子の怯えた姿を見るのに耐えられない。

買い置きしていた下着と最近着ていないスウェットを脱衣所に置いて、リビングで待つ。牛乳を温めてココアを作る準備をしながら。
そういえば今度こたつでも買おうか、と悩む。昨日までは一人暮らし故にほとんど自室に篭っていたからこたつなんて必要としていなかったが、誰かと暮らすとすればリビングに集まりやすいものがあった方がいいのではないだろうか。
自分用に作ったココアを飲んでいたら、リビングのドアが開いた。
朔也くんが恐る恐るといった様子で入ってくる。
「おかえり」
なるべく優しく声をかけたが、俺の言葉を聞いた彼は顔をクシャッと歪ませた。スウェットの裾を握りしめている。あぁ、泣く。泣かせたくないのに。
「っう、まっと、かう。あたらしいの。ふくも、かえす」
「……そこ、座って。今ココア作るから」
いらないと言っても、こう言ってくるのは多分自責の念からなんだろう。そりゃ、初めて会った人の家であんな失敗したら立ち直れないよな。下手に慰めるのを一度やめる。
ソファを指さして座れと言ったつもりだったのに、朔也くんは床に座った。
ぱっぱと牛乳にココアの粉を入れてかき混ぜ、朔也くんの前にあるミニテーブルに置いた。俺だけソファに座るのも嫌で、朔也くんの隣に腰を下ろす。
「あのさ、」
「っ、はい!」
「俺、本当に怒ってないんだ。マットの買い直しも必要ないし、その服だってあげるからパジャマにでもして」
金には困ってない。こうやって人間を一人養おうと思えるくらいに。
「わ、かり、ました」
「うん。これでこの話は終わり」
また泣きそうな顔になっている。目元を雑に擦って誤魔化したから、気付かなかったことにしておく。
「ココア冷めちゃうよ」
「ぁ、いただきます」
「どーぞ」
一口飲んで、小さく息を吐き出した。その顔は先程より幾分か緩んでいる。俺も少し残っていたココアを一気に飲み干した。
「そうだ、朔也くんの部屋はそこね。一応客用布団は敷いてるけど、また今度ベッドでも買いに行こう」
「……おれ、ここにいていいんですか?」
「え、話聞いてないの?」
朔也くんをうちに住まわせるということで話はついているはずだ。うちに置く代わりに家事を担当してもらうということも。知らないなら説明するだけだけど。
「だって、だって俺、さっき失敗したのに、」
「あれは仕方ない。遠慮してトイレ行きたいって言えなかったんでしょ?何度も言うけど俺は気にしてないから」
さすがにあの失敗だけで行き場のない人間を見放すほど人でなしではない。まあ、人と暮らすのとか面倒だとは思っていたけど、なんとなく可愛く見えてきたからサラサラ追い出すつもりは無いのだ。
朔也くんは何も答えない。
「ここに住みたくないなら、他に暮らせる場所とか働けるところ探すの手伝うけど、そうじゃないならここにいてよ」
「……本当に、いいんですか」
「もちろん。それに、ここに居てくれる方が俺としては嬉しいかな」
「そ、ですか……」
俯いたままで表情はよく見えないが、頬は赤く染まっている。恥ずかしいのか照れてるのか。まあ、どちらにせよ可愛い。
「とりあえず今日はもう寝なよ。疲れてるでしょ。マグカップは俺が片付けておく」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみ」
部屋に戻っていく背中を見送った。
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