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独りきりの道

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 この世の中はクソゲーだ。
 プレイヤーは俺一人。俺が主人公だから、俺の好きに生きればいい。



克也かつや、あんた高山さん家の犬に石投げたんだって!?」
「うっせーなババア! あの犬がぎゃんぎゃんうるせーのがわりーんだよ!」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ! そんな理由で他人様ひとさまの家族を傷つけて、許されるわけないだろ! 謝りに行くよ!」
「はぁ!? 俺わるくねーのに、謝るわけねーだろ!」
「言ってもわからないんだったら、夕飯抜きだからね!」
「そーいうの虐待って言うんだからな! じどーそーだんじょにつーほーしてやる!」
「こら、克也!」

 舌を出して、俺は二階の部屋に駆け上がった。ババアがぎゃんぎゃん喚いているが、知ったことじゃない。
 俺がもっと小さい時には、ババアは俺のケツを叩いていた。体罰ってやつだ。最低だ。母親失格だ。毒親ってやつだ。
 小学校も高学年になって、ババアは力尽くで俺を捕まえるのが難しくなった。そしたら今度は、飯を抜くとか、欲しいものを買わないとか、そういうことをしだした。知ってるんだからな、そういうのも今は虐待なんだ。
 ババアに何日も食べさせてもらってないって噓泣きしながら警察に駆け込んだこともある。家まで来た警察に、ババアは何度も何度も頭を下げていた。いい気味だ。
 ほんとは一日夕食抜かれただけだし、勝手に自分で食べてたけど。何回もあったから、実質何日も食べてないのと一緒だろ。
 ババアはツメが甘いから、飯抜きって言った時は絶対俺の分が冷蔵庫に入ってる。作っちゃった分はどうしようもないから、次の日にそのまま出すために入れてあるんだろう。甘い甘い。だからババアが風呂に入ってる間に、こっそりレンチンして部屋に持っていく。翌朝またこっそりシンクに食器を置いとけば、朝は忙しいからだいたいバレない。

「あーあ、早く大人になりてーな」

 ぼやきながら、俺はスマホでSNSを見た。
 今はこの小さな板が、何でも教えてくれる。俺はババアよりオヤジより、もっとたくさんのことをいくらでも知ってる。俺の方がずっと頭がいい。
 大人になったら、あんな毒親はさっさと捨てて、俺は一人で自由に生きる。
 SNSが教えてくれた。自分のためにならないものは、切り捨てていいのだ。
 親なんかいらない。友達もいらない。先生なんて、子ども相手に偉ぶるしかできないバカの集まりだ。あんなのの言うことはきかなくていい。
 スマホさえあれば。俺は一人でだって生きていける。



「げえっ!」

 中学に上がって、最初のテスト。俺は軒並み赤点だった。これはババアに怒られる。
 そう考えて、俺は首を振った。ババアが怒るからなんだってのか。別に、学校の勉強なんかできなくたっていい。こんなのは社会に出てからなんの役にも立たない。

「うわっ岡田、ひっでー点数だな!」
「……は?」

 後ろから覗いてきた男子生徒が、俺のテストの点を見て笑った。
 は? バカにしてる?

「オレもたいがいだけどさー、お前もひっでーな! なあ、良かったら」
「うっせーな! 俺はてめぇなんかとはちげーんだよ! 話しかけんなクソが!」

 そいつを怒鳴りつけると、教室がしんとした。次いでひそひそと、女子達が陰口を叩く。

「……あー、岡田。放課後、ちょっと職員室に来なさい」

 教師の言葉に、俺は返事をしなかった。
 その日は、誰も俺に話しかけてこなかった。元々、クラスに友達なんていない。そんなものは、俺には必要がないからだ。
 教師が早くも俺を問題児扱いしているのも知っていた。別にどうでも良かった。問題児って、お前ら教師にとって都合が悪い生徒ってだけだろ。教師にどう思われたって、俺には関係ない。
 教室にいるのもいらいらして、俺は勝手に帰った。
 両親は共働きだから、昼間は家にいない。俺が帰っても文句を言われないのが楽だった。
 部屋でゲームをして過ごす。誰にも文句を言われない。言わせない。
 そうだ。なんであんないらいらする場所にわざわざ行かなきゃいけないのか。
 学校なんか行かなくていい。SNSでそう言っていた。
 やりたくないことはしなくていい。自分が傷つく場所にいなくていい。逃げていい。
 みんなそう言ってる。みんなが言ってるんだから、正しいに決まってる。

 それから俺は学校に行くのをやめた。
 昔は義務教育だから絶対に行くものだ、って言われていたらしいが、今は必ず学校に行かなきゃいけないなんてことはない。フリースクールというのもある。勉強なんてどこにいたってできる。なんであんな低能どもと一緒の狭い空間に閉じ込められなければならないのか。
 週末にはオヤジが部屋に怒鳴り込んできた。なんと部屋の鍵を壊しやがった。クソが。色々ごこーしょーなことを言っていたようだが、俺は全然聞く気がなかった。うざいと思っていた。
 あまりにも話を聞かないからと手を出されそうになったが、俺は片手にスマホを持って、いつでも通報できるようにしていた。一回でも殴ったらすぐに警察に通報してやる、と脅すとオヤジは悔しそうに歯ぎしりした。
 俺は内心ほくそえんだ。13歳の子どもだもんな。殴ったらオヤジが悪いに決まってる。
 それでも親父は胸倉を掴んで、子どものことは親の責任だとか、一緒に警察に行くくらい、とかぬかしやがった。だから俺はすぐにスマホを動画に切り替えた。

「これ、全部録画してるんだからな! 中学生の子どもを殴った暴力オヤジだって、SNSで拡散してやる! オヤジの会社のやつらも見るだろうな! そしたらオヤジ、クビかもな!」

 嘲笑した俺に、オヤジは怒りを通り越して、脱力していた。
 ざまあみろ。SNSは正義だ。子どもに暴力を振るった動画なんて出まわったら、オヤジはきっと会社にいられなくなる。そしたら生活できなくなる。警察に怒られるくらいは覚悟できても、さすがにクビまでは無理だろ。
 動画の編集なんて、スマホ一つで簡単にできる。それが本当に悪いかどうかなんて関係ない。炎上すればそれでいい。会社にはどんどん電話がかかって、家の住所が特定されて、そんな騒ぎの中心になったら誰もが遠巻きにする。誰も助けてくれない。他人はしょせん他人だ。
 勝ち誇ったような俺に、オヤジは何もかもを諦めた顔をして、好きにしろと言った。

 俺は引きこもった。スマホで興味のあることだけ勉強して、それでいつか金も稼げると思っていた。だからわざわざフリースクールとか、そういう勉強する場所には行かなかった。
 オヤジはもう何も言わなかった。ババアは、たまにうざい説教をかましてきた。

「克也、あんた本当にこのままずっと学校行かなくていいの?」

 だるい、と思いながら俺はゲームに熱中した。部屋の鍵は直してあったから、ババアはドアの向こう側だ。むかつく顔を見なくていい。

「ねえ、学校で、そんなに嫌なことあった? あんたが誰かにいじめられたとか、先生に理不尽なことで怒られたとか、そういうんだったら無理しろなんて言わないよ。母さんも一緒に怒ってあげる。けど、何となく嫌だってだけなら、頑張ってみたら何か変わるかもよ。学校でしかできないこと、たくさんあるでしょ。部活は? 友達は? あんた一回も友達を家に連れてきたことないよね」

 いらっとして、ドアに手近な物を投げつけた。

「うっせーな! 友達なんかいらねーよ! 今は一人で生きていける時代なんだ! 昔の価値観押し付けんなよ!」
「……本当に、一人で生きていけるって、思ってる?」
「あったり前だろ!」
「ならあんた、今誰のお金で生活してんの? 誰のおかげで家にも食事にも困らずに、そうやってゲームしてられるの?」
「未成年なんだから、親が金出すのは当然だろ! お前らの勝手で生んだんだから、お前らが世話すんのが義務だろうが!」

 親には感謝しなきゃいけない、親は愛さなきゃいけない、なんて昔の話だ。
 親は子どもが欲しくて子どもを産む。けど、生まれてきたくて生まれてきた子どもなんかいない。子どもなんて、みんな親のエゴだ。
 自分の都合で生んでおいて、自分が望んだ風に育たなかったから放り出すなんて許されるもんか。
 でも子どもは親を捨てていい。だって子どもは親を選べない。どんなクソでも子どもを持てば親になってしまう。そんなクソの面倒を見るために、自分の人生をすり減らさなくていい。
 人は自由だ。自分のために生きていい。
 そう、SNSが教えてくれた。

「確かに、あんたは未成年だから。大人になるまでは、ちゃんと死なないように面倒見るよ。でも、その後はどうすんの。親は必ず、あんたより先に死ぬんだよ」
「日本の制度は、人を死なせないようにできてんの。日本人でいる限り、最低限の生活はできるようになってんの」

 バカな親はものを知らない。何もしなくったって、人間どうにか生きていけるように世の中はなっているのだ。わからなかったらSNSで聞けば教えてくれる。

「その制度って、誰がやってくれるの?」
「はあ? 国に決まってんだろ」
「そうじゃないよ。国の制度を使うためには、役所に行って、役所の人に相談に乗ってもらわないといけないだろ。役所の人だって、人間なんだよ」
「公僕は公僕の仕事をするだけだろ」
「仕事をする人達だって、みんな心があるんだよ。心を持った人達と関わって、これから生きていくんだよ」

 説教臭いことを言い出した、と俺は溜息を吐いた。もう聞く気もしなかった。そんな人情に訴えかけるような言い方、今時流行らない。

「誰の力も借りずに生きていくなんて、できやしないよ。母さん達はあんたの家族だから、こうやって話したり、面倒みたりしてるけど。赤の他人なんてね、そんな親身になってくれやしないよ。自分をバカにする人間に、誰が親切にしてやりたいのさ。あんたが通販してる荷物を持ってくる宅配員も、コンビニで買い物するレジの店員も、電車の駅員だって。みんな人間だよ。あんたの態度以上のことはしないよ。悪態つかれりゃ追い返すし、冷たくされたら最低限のことしかしないし、優しくされたら困った時に助けようと思う。そういう人達と、これからどうやって関わっていくの。失敗の許される子どもの内に色んな人のことを知らないで、大人になってからどうやって接するつもりなの」

 そういうの同調圧力って言うんだぜ、と心の中だけで呟く。田舎の悪習みたいなもんだ。
 みんな仲良くやってるんだから、和を乱さずにうまくやれって?
 知るかよ。なんで他人のために自分の神経すり減らさないといけないんだよ。
 仕事でやってるやつらは仕事なんだから、金さえ払えば文句ないだろ。それでちゃんとしないのは職務怠慢ってやつだ。クレーム入れればいい。

「あんたの克也って名前はね、何かを成し遂げられるように、ってつけたんだよ。大きなことじゃなくてもいい。困難にぶつかっても、負けずに打ち勝てるように。心の強い人間に、なってほしいって」

 知るかよ。子どもは親の所有物じゃない。そんな期待を押しつけられても困る。なってほしいようになるわけないだろ。ロボットじゃないんだから。

 返事をしない俺にババアは溜息を吐いていなくなった。
 それ以降、ババアは説教臭いことを言わなくなった。



 結局俺は中学校にはほとんど行かずに卒業した。高校くらいは行けとオヤジはうるさかったが、俺は絶対に行かないと決めていた。名前を書けば受かるような高校に勝手に願書を出されていたが、試験もブッチした。
 中卒でも働くことはできる。早く家を出たかった俺は、仕事を探した。アルバイトの面接をいくつか受けたけれど、なかなか決まらなかった。中卒可って書いてあったくせに落とすなんて、クソが。学歴フィルターってやつだ。求人に嘘書きやがって。当然クレームを入れた。

 もうやめようかと思っていたところで、一つだけ受かった。引っ越しの現場だった。体力勝負だから面倒だったけど、そこしか受からなかったのだから仕方ない。労働くらいはしてやろう、と初バイトに挑んだ俺だったが。
 開始三時間でクビになった。
 客の大事な物を落として壊してしまった。なんか高かったらしい。だったら厳重に梱包しておけ、と俺は客に言った。そしたら客が激怒した。
 俺は間違ってない。人に運ばせようとしておいて、ちゃんとしておかないのが悪い。そもそも結構重かった。落とすのも仕方ない。
 上司はぺこぺこ謝っていたが、俺は謝りたくなかった。悪くないのに謝る必要なんかない。謝るってのは、自分の非を認めるってことだ。日本人はすぐ謝り過ぎだってSNSで言っていた。
 結局その品物の弁償は親がしたらしい。こういうのって会社が払うもんじゃねえの、と思ったが、なんかダメだったらしい。よくわからないが、俺の懐は別に痛まなかったから関係ない。
 ただクビにされたことは腹が立ったので、俺はSNSでこのことを呟いた。ちょっとだけ脚色して、不当に解雇されたと。そしたらみんなが味方してくれたので、俺は満足した。訴えましょう、と言ってくれた人もいたけど、そこまでは面倒だった。バイト先が悪く言われるのを見て、溜飲は下がった。

 それからはバイトもやめた。
 無理して働かなくていい。仕事は嫌だったらやめていい、とSNSでも言っていた。
 人間は働くために生きてるんじゃない。幸せになるために生きているのだ。いい言葉だ。俺の人生を仕事なんかに削られてたまるものか。
 とはいえ小遣い程度は欲しかったので、俺はネットで調べて、動画収入やアフィリエイトで僅かな収入を得ていた。犯罪ギリギリのものもあったが、犯罪にならないスレスレのラインを教えてくれるハウツー教材があるのだ。便利な世の中だ。
 それでも金が欲しい時は、親の財布からこっそりったりした。俺はまだ未成年なんだから、十分な金は与えられてしかるべきだ。
 引きこもりがちだったが、たまに外に出て外食したり遊んだりもするようになった。動画の素材集めもしている。
 学校の制服を見ると、優越感があった。あんな風にみんなで同じ格好をして、バカみたいだ。せっせと勉強したって、あいつらの大半はろくな人生を送らない。貴重な若い時間を無駄にしている。
 俺は人生を楽しんでいる。自分が楽しいことしかしない。これこそが人のあるべき姿だ。人はみんな自分のために生きているのだから。

 ふと制服同士のカップルがいちゃついているのが目に入った。俺は舌打ちした。家でやれよ、恥晒しめ。
 高校生の内から恋愛しか頭にないような猿は、どうせそのうち学生妊娠とかして、ろくでもない人生を送るのだ。他人に依存しないと生きられない人間なんて、弱者め。
 俺は一人でも生きられる。これこそが勝ち組というものだ。



 18歳になって、俺は成人した。相変わらずまともに働きもしない俺に痺れを切らして、オヤジはついに俺を勘当した。俺がずっと未成年であることを盾にしていたから、成人したなら文句ないだろう、ということだった。
 俺は元々早く家を出たかったので、特に異論もなかった。これでうざいババアからの小言を聞いたり、オヤジにいちいち溜息を吐かれたりしなくて済む。
 勘当なんてされたところで、俺にちっともダメージはない。こんなのただの宣言だ。口で勘当すると言ったところで、法的な縛りは何もない。遺産相続だって拒否できないのだ。俺は一人息子だから、親の遺産は全部俺に入る。

 ババアは俺に甘いから、勘当された時にいくらかの金を用意してくれた。それで暫くネカフェで過ごしていたが、いい加減住む場所とか決めないとまずい。かと言って、働く気にはなれない。
 ならどうするか。賢い俺は知っている。生活保護を受ければいいのだ。詳しい手順はよく知らないが、役所に行けばやってくれるだろう。それがやつらの仕事なんだから。

「はぁ!? 通らねーってどういうことだよ!」

 役所の窓口で、俺は机を叩いた。周囲の視線が突き刺さるが、知ったことじゃない。

「ですから、岡田様の場合、まず条件が」
「知らねーよ! 生活保護は誰でも受けられるんだろ! 家も職もねーんだから、当然俺も受けられるだろ!」

 聞いた話と違う。SNSでは簡単に受けられるって言ってた。働きたくないって理由でもいいんだって。役所は拒否なんかできないはずだ。

「そもそも申請書類が」
「だからそれはそっちでやれよ!」
「そういうわけには……」

 警備員がちらちらとこっちを見ている。そろそろ追い出されるかもしれない。
 俺は悪態をついて席を立った。役立たずの公僕め。
 背を向けて出ていく途中、別の窓口で老人が何かの手続きをしているのが目に入った。

「えぇと、ここは、どう記入するんでしたか」
「ああ、ここはですねー、これと、これを書いて」
「うーんと、これ? ですかねぇ」
「難しいですよねー。大丈夫ですよ、ゆっくりでいいですから」
「ごめんなさいねぇ。ありがとうねぇ」
「いいんですよ。じゃぁ、もう一度、最初から説明しますね」

 はぁ!?
 俺は思わず怒鳴りそうになったが、警備員がまだこちらを見ているのでぐっと耐えた。
 どういうことだよ。俺と全然対応が違うじゃねーかよ。同じ給料だろ、仕事しろよあいつ。ろくでもねー窓口に当たった。あいつじゃなけりゃ、きっと通ってたのに。クソみたいな応対しやがって。ろくに説明もされなかった。あれじゃわかるわけねーだろ。
 次はこいつを指名したらちゃんと説明してもらえるんだろうか、と老人の対応をしていた窓口の女を見たら、さっと目を逸らされた。かちんときて怒鳴りつけそうになったが。

 ――役所の人だって、人間なんだよ。
 ――仕事をする人達だって、みんな心があるんだよ。

 ふいに、ババアの言葉を思い出した。
 気分が悪くなって、俺は早足で役所を出ていった。
 ふざけんな。給料もらって仕事してるんだから、相手によって態度を変えていいはずないだろ。
 俺のせいじゃない。



 結局俺はネットに頼って、苦戦しつつも正しい書類を揃えて、調査の対処もネットで教わった通りにして、なんとか生活保護の受給に成功した。
 そこからは最高だった。働かなくていい。好きなことだけして毎日過ごせばいい。一人暮らしだから文句を言うやつもいない。
 まともに仕事なんかしたことがないから、働かないことへの罪悪感なんかあるはずがない。贅沢はできないが、別に金持ちになりたいなんて野心もない。俺の生活は満たされていた。
 ただ、たまに。言葉を忘れそうになることがある。
 当然文字は読める。けど、誰とも話さないから、声を出すことを忘れそうになるのだ。
 別に誰かと喋りたいなんて思っちゃいないが。たまには女と遊ぶのもいいよな、と俺はキャバクラに行った。

「いらっしゃいませー!」

 若い女の子達がにこにこ笑顔で迎えてくれる。俺は思わず顔がにやけた。
 ろくに学校にも通わなかった俺は、女と接した経験がほとんどない。俺の人生に女なんて必要ないからそれで良かった。
 負け惜しみとかじゃない。結婚や恋人が必要だなんて、昔の価値観だ。女なんて、わがままだし、金がかかるし、すぐにネットで男叩きをする。今の時代は女尊男卑でもてはやされて、調子にのっているのだ。女なんて害悪だ。あいつらのせいで日本はどんどん悪くなる。女と結婚なんて、正しく人生の墓場だ。そんなものを進んでしようなんてやつの気がしれない。
 女なんて、若い内だけ、たまにこうやって可愛がってやればそれでいいのだ。

「ええ~! カツヤさんおもしろ~い!」

 俺の席についたキャバ嬢は、俺の話に笑顔で相槌を打って、他愛ない話に拍手をしてくれる。そうそう、女はこうあるべきだよな。

「ね~カツヤさん、マヤたくさんお喋りして喉渇いちゃったぁ。ドリンク飲んでもいーい?」

 甘えてきたキャバ嬢を、俺は鼻で笑った。

「はぁ? こんくらいで甘えたこと言ってんなよ。ドリンクが欲しいなら、それ相応のサービスをしてみせろよ」

 ドリンク代はセット料金とは別料金だ。要は自分に課金しろ、と言っているのだ。だったら、それに見合うだけのサービスを受けないと話にならない。
 俺は肩に回した手を胸に滑らせた。それがドレスの中に入る前に、キャバ嬢が俺の手をがっと掴んだ。

「ごめんなさぁい。キャバクラはお触り禁止なんですよぉ。そういうことしたいなら、そっちのお店行って?」
「はぁ!? 水商売の女が調子のってんなよ! 男に媚び売るのがお前らの仕事だろ!」

 怒鳴りつけると、キャバ嬢が不機嫌そうな顔をした。
 はぁ? 客に向かってそんな顔していいと思ってんの? お前らプロだろ。

「なぁ! こいつチェンジで!」

 俺は黒服を呼んで、キャバ嬢を変えてもらった。交代した先ほどのキャバ嬢が、待機席でひそひそと他の嬢に何かを話している。ちらちらとこっちを見ているから、俺の悪口だろう。店内で客の悪口を言うなんて、教育のなってない店だ。
 不機嫌な顔をしたままの俺に、交代したキャバ嬢が一生懸命話しかけていたが、無視した。ずっと無視していると、キャバ嬢も黙り始めた。

「おい。お前何黙ってんだよ」
「え? あ、えっと、あんまりお喋り好きじゃないのかなぁ~って。だから、静かにお酒を楽しんでもらえたら? 的な?」
「はぁ? 俺が返事しようがしまいが、お前は喋れよ。もてなすのがお前の仕事だろ」
「そ、そうだよねぇ~! 気がきかなくてごめんねぇ~!」

 隣のキャバ嬢が、ちらっと待機席に視線を送った。待機席のキャバ嬢が首を振る仕草をする。はぁ?

「もういい、会計!」

 遊びに来たはずなのに、いらいらさせられて俺は店を出た。
 この店はハズレだ。まともに接客もできないなんて、キャバクラとして終わっている。最低料金しか払っていないが、それでも高いくらいだ。こんな店。



 それからも俺は、あちこちのキャバクラを回ったり、ちょっと奮発して風俗に行ったりしながら過ごした。人と接するのはそれくらいだった。若くてバカな女に説教して回るのは心地が良かった。みんな笑顔で聞いてくれるし、内心俺に感謝しているはずだ。そのはずなのに、何店かは出禁にされた。意味がわからない。俺は店の悪口をSNSに書きまくった。
 あとは一人でだらだら部屋でゲームしたり、たまにパチンコに行ったりして過ごす。近所では俺のことは噂になっているようで、誰も話しかけてこない。人間関係なんか煩わしいから別にいい。
 そうやって何年も、何十年も過ごした。
 家族も友達も恋人もいないが、十分に人生は過ごせている。何の不自由もない。病気になっても病院代は無料だ。気軽に行くことができる。
 ずっとそうやって過ごしていけると思っていた。

 五十も過ぎて、初めて「寂しい」という感情が湧いた。
 そんなことは、一生感じないと思っていた。俺の人生に、他人なんて必要ない。
 でも、体が自由に動かなくなってきて。行動も制限されてきて。自分を支えてくれる人間が誰もいないことに、微かに不安を感じていた。
 具合が悪くなれば病院に行けばいい。でも、病院の看護婦はもう俺の話をあまり真剣に聞いてくれない。ナースステーションで、俺の相手は嫌だと言っているのを聞いた。
 誰かと話をしたいと思うことが増えた。その分、キャバクラ通いが増えた。でも、キャバ嬢も最初ほどサービストークをしてくれなくなった。毎回最低料金しか使わないのに過剰なサービスを求めるからだ、と一度No.1の嬢に説教されたことがある。何様だ、と思ったが、俺に一生懸命営業してくれる嬢がいないのは事実だ。
 病院の待合室でも、俺の相手をしてくれる患者はいない。役所では俺は要注意人物としてマークされていて、強面の偉そうな職員が対応すると決まっていた。若い女職員相手にくだを巻くこともできなくなった。
 その辺の店で店員相手に話したり、コールセンターに電話をかけて無駄に長話することも増えた。けどやつらはまともに話を聞こうとしない。クレームを入れたら、逆にこっちが悪いみたいな注意をされた。むかついたので悪口をさんざんSNSに書き込んだが、この頃には俺のアカウントでの発信は相手にされなくなっていた。アカウントを変えたこともあるが、何故かすぐに特定されて、嘘だのクレーマーだのと言われるようになった。
 俺の周りには、誰もいなかった。元々誰もいなかったが、僅かな会話を交わすことさえ、まともに相手をされなくなった。
 別に、構わない。五十年、何の問題も無かったのだ。これからだって。きっと、一人で。
 一人で、生きていける。だってみんな、そう言ったじゃないか。

 七十も過ぎて。俺は老人ホームに入っていた。一人で暮らすにはかなり厳しい状態になっていたからだ。ろくな生活をしていなかったので、体の衰えは早かった。
 生活保護受給者でも老人ホームには入れる。俺はちゃんとネットで知っていた。これからはホームのスタッフの世話になれば生きていける。楽な人生だ。

「おい! おい、だれか! 早く来い!」

 コールを押しながら俺は怒鳴った。嫌そうな顔をしながらホームのスタッフが来る。

「はいはい、岡田さん。どうしました?」
「背中が痒い。かいてくれ」
「はいはい」

 職員は嫌そうに溜息を吐きながらも、一応背中をかいてくれた。

「全く、呼んだらすぐ来い。なんのためのコールなんだ」
「すみませんねぇ」

 全然悪いと思っていなさそうな声だった。なんだその態度は。

「だいたいお前ら介護職員なんて、ろくに勉強もできない低能だから」
「はいはい」

 素直に話を聞いておけばいいんだ、全く。

 少しは歩くか、と思って介助用具を使いながら廊下を歩く。すると、スタッフ達が集まって話をしているのが聞こえた。

「ほんっと嫌よねー、岡田さん!」
「大したことない用事ですぐコール押すのよね」
「私三回に一回くらいは後回しにしてるわ。本人も押したこと忘れてるし」
「寂しいのよ。ご家族、誰もいないんでしょ?」
「自業自得よぉ。あんなのと結婚したい女なんて、誰もいないでしょ」
「誰に対しても高圧的で、わがまま放題、言いたい放題! 施設の利用者さん達からも嫌われてて、岡田さんに対するクレームの対応するのも大変なのよ」
「まぁなんとかやり過ごすしかないわよねぇ。話は適当に受け流して、最低限の面倒だけ見てればいいわよ。文句言ってくるご家族もいないんだし。虐待とか疑われたらニュースになっちゃうから、最低ラインは守ってね」
「あの人の言うことなんて誰も信じないわよ」
「それもそーねー」

 俺は怒鳴りこんでやろうかと思った。けど、言葉は出て来なくて、拳を握りしめただけだった。
 人に好かれていないのはわかっていた。好かれる必要なんてないと思っていた。だって俺は一人で生きてきたから。一人で良かったから。
 他人に媚びる必要なんてない。自分が良ければそれでいい。だって自分の人生だから。自分のことを一番に考えればいい。
 ずっとみんなそう言っていたのに。こんな風になるなんて、誰も言わなかった。誰も。

 ――誰の力も借りずに生きていくなんて、できやしないよ。

 違う。教えてくれた人は、いた。俺が聞かなかっただけだ。
 古い価値観だとバカにして。SNSのみんなを信じた。あいつらは、俺の人生になんの責任も持ってくれないのに。
 たった一人、俺の人生を考えてくれた人の言葉を、無視した。

「母さん……」

 今更、どうしたらいいのかわからない。だって学んでこなかったから。誰からも教わらなかったから。
 どうやって人と関わったらいいかわからない。どうしたら親切にしてもらえるのかわからない。
 一人きりでいいなんて、若くて元気だから言えることだった。それが一生変わらないなんて、どうして思えたのか。
 生きているだけでたくさんの人と関わっていたのに、一人で生きているような全能感があった。誰にも気を遣わないなら、誰からも気を遣われないのは当然だ。
 気の合う人間とは深く内面を晒して、相手の本当の心を知って。気の合わない人間ともそれなりにやって、衝突を避けたり表面を取り繕うことを知って。そういうことを、子どもの内から学んで生きる。家族と、友達と、恋人と、先生と、同僚と、上司と、伴侶と。様々な人と、関わって。
 みんなそうやって生きている。それが人の中で生きるということだ。その和を無視するなら、輪から弾き出されるのは当たり前だ。自分がそれを望んだのだから。

 ベッドで寝込んでいると、ふいに咳が込み上げてきた。だんだん止まらなくなって、痰が喉に絡んだ。咳き込み続けたがそれが取れずに、息苦しくなった。
 コールを押すが、誰も来ない。早く、早く来てくれ。
 何度も押す。まだ来ない。
 ああ、また老人のわがままだと思われているのか。ずっとそうだったから。
 俺がそうしてきたから。

 これが、俺の、人生か。
 一人で生きてきた、俺の。

 薄れゆく意識の中、母さんの料理を思い出していた。
 ああ、あの夕飯が抜かれた日。冷蔵庫に入っていた、俺の分。
 あれ、きっと。

 最期の瞬間まで、俺は独りきりだった。
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