私に配慮してください。

谷地雪@第三回ひなた短編文学賞【大賞】

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阿古矢あこや。とりあえず、これ”なるはや”で」

 投げ捨てるようにデスクに置かれた仕事に、俺は顔をしかめて先輩を見た。
 とりあえず。一応。なんとなく。だいたい。俺の嫌いな言葉だ。

槙田まきた先輩。なるはやって何時までですか」
「だーかーら、なるはやだって。わかんない? なるべくはやく。ASAP。すぐやって」

 面倒くさそうにそう言って立ち去りそうな槙田先輩を、俺は慌てて引き留めた。

「だから期限はいつですか。槙田先輩が次の作業のためになるべく早く上げてほしいだけなのか、明確なリミットがあってそこまでに確実に仕上がっていないと困るのか、”なるはや”の指示じゃわかりません」
「うるっせえな、とにかくすぐやりゃいいんだよ!」
「俺は今日笹原ささはら課長から十六時期限の仕事を頼まれています。この作業量だと槙田先輩の作業を優先した場合笹原課長の依頼が終わりません。槙田先輩の作業の優先度が高いようであれば笹原課長に相談して期限を延ばしてもらう必要があります。早い方がいいけれど明日にかかっても構わないのなら笹原課長の仕事を終えてから取り掛かります。温度感を示してもらわないと作業の優先順位がつけられません」
「わーかったわかった、いいよ俺のがあとで! 笹原課長の仕事って明日のプレゼンのだろ? そっち延ばせるわけねえじゃん。考えりゃわかるだろ」
「わかりました。最低いつまでという期限はありますか」
「んじゃまー……明日中に渡してくれればいいよ」

 げっそりした様子で先輩はそう言って去っていった。
 あの感じだと、絶対に明日中に必要というわけじゃなさそうだけど。言われたからには、明日中が期限。
 俺はスマホのTODOリストにアラートと一緒に打ち込んだ。
 付箋などに書くと、それ自体がどこかへ行ってしまう。紙のメモ帳に書くと、どこに何を書いたのかわからなくなってしまう。
 だから俺の仕事の相棒はこのスマホだ。メモは全部この中。検索機能が使えるから探しやすくていい。技術の進歩には本当に助けられている。昔はこんなのなかった。
 やらなきゃいけないことは箇条書きにしてリスト化。終わったら一つずつチェックができるし、期限を登録しておけばアラートが鳴ってうっかり忘れを防止してくれる。
 話を聞きながらスマホを出すのは嫌がる人が多いから、指示はボイスレコーダーに録音しておいて、重要なことはいったん紙のメモにとる。それを後から聞き直して、文字に起こして、スマホに入れ直す。紙や付箋で渡された指示も、全部そうする。
 手間だけど、俺は普通の人みたいにすぐに指示を理解することができないから。覚えておくことができないから。だからこうする。
 本当はメールで連絡を貰えた方が楽なんだけど、さっきの槙田先輩みたいな指示はよくある。メールは面倒くさいらしい。後になって話が食い違ったり、言った言わないの水掛け論になったりするから、俺は全部文字に残した方が結果手間も少ないと思うんだけど。他の人は、ぱっと口で言ってそれで済ますのが一番早いんだそうだ。

 俺はぐっと伸びをして、TODOリストをじっと眺める。
 一時間に一回は、こうやってやることを確認する。そうでないとすぐにわからなくなる。今何をやっているのか、次に何をやるのか。途中で挟まれた作業は無いか。やり残していることはないか。
 今日は何をする。明日は何をする。仕事だけじゃない、俺のスマホには、しなきゃいけないことが山ほど書いてある。
 
 朝は何時に起きる。朝食は冷蔵庫の何段目に置いてあるどれを食べる。ゴミは何時までに何ゴミを出す。消耗品は何が足りなくなっていて、帰りにどこで何を買うか。その日の行動は逐一書く。写真もいっぱいだ。覚えておかなきゃいけない情報のスクショ、買わなきゃいけないものの写真、コンセントを抜いた写真、ガスの元栓を閉めた写真、家の鍵をかけた写真。
 書いて、終わったら消して、また書いて。日々それの繰り返し。
 それでも取りこぼすことがある。何度も何度も確認しているのに。今さっき確認したことを忘れてしまう。
 でもそんな自分にも慣れたから、リカバリーするために忘れた分の予定はどこかに詰め込む。それも書いておく。

 そうやって俺なりに工夫して、何とかやってきた。やってこれたと、思っていたのだけど。

 

 翌日。今日は笹原課長と面談の日。
 話が長くなると、俺はどんどん頭がぼーっとして話の中身がわからなくなってしまう。相手のことを一生懸命見るようにするのだけど、視界がぼやけていって、焦点が合わなくなり、曇りガラス越しに見ているような景色になってしまう。人間の判別ができなくなる。
 だからせめて話したことは後から確認できるように、と俺はいつものようにボイスレコーダーを回した。
 
「阿古矢くん。仕事はどう? 大変じゃない?」
「おかげさまで最初よりは随分慣れました。私のわがままを聞いてくださってありがとうございます」
「いやぁ、うん。僕はいいんだけどね」

 笹原課長には、初期の頃に親身に話を聞いてもらった。入ったばかりの頃はテンパりまくって、何をどうしたらいいのかもわからなかった。
 そこから相談を重ねて、こうしてほしい、こうして貰えたら助かる、という要求を聞き入れてもらって、俺はなんとか仕事ができている。
 笹原課長は指示をメールでくれるし、必ずいつまでと期限も書いてくれる。ありがたい。

「僕はいいんだけど……槙田くんがねぇ」

 言いにくそうに、笹原課長は苦笑した。
 槙田先輩。何度お願いしても、適当な指示をやめてくれない。メールで送ったことに口頭で返事をする。俺はあの人の対応にいつも困ってしまう。

「笹原課長。申し訳ないんですけど、課長からも槙田さんに言っていただけないでしょうか。あの人の仕事のやり方だと私はついていけません。指導係を引き受けてくださったことは感謝していますが、私の言うことは何一つ聞いてくれないんです」
「うーん……」

 笹原課長が頬をかく。板挟みにしていることは申し訳ないが、あの人が少しでも歩み寄ってくれないと、俺はいつまでもまともに仕事ができない。

「聞いて、かぁ」

 苦々しい顔で、笹原課長が呟く。
 俺はどきりとした。心臓が嫌な音を立てている。
 こういう空気はわかるのだ。びりびりする。人が不機嫌になった時の空気は、伝播する。手がかすかに震えた。
 でもなんで不機嫌になったのかは、わからない。
 じとりと嫌な汗が伝った。

「僕は課長で、部下の面倒を見るのも仕事だしね。なるべく、要望とかは聞くよ。意思疎通は大事だ。でもそれは双方向で行われるもので、一方通行であってはいけない」

 真面目な顔で、笹原課長が俺を見据える。

「僕は阿古矢くんの話をなるべく聞いてきたつもりだよ。それは槙田くんもだ。最初は彼、あそこまでじゃなかったでしょう。でもああなった。その原因が自分にあるとは、阿古矢くん思わない?」
「……私が、仕事ができないから、ですか」
「できるようになる努力をして見えないから、だよ」

 目の前が真っ暗になった。努力をしてない? 俺が?
 あんなに毎日いっぱいいっぱいで、仕事が終わってからもその日のことを必ず家で纏め直して。何度も何度も確認して、何度も何度も練習して。
 他の人より何倍もやって、それでも普通の人に追いつけない。それだけなのに。

「阿古矢くんは”してほしい”ばかりだよね。ああしてほしい、こうしてほしい。そうでないと仕事がしにくいっていう言い分はわかったよ。でも、君がこちらに”してほしい”と思うように、こちらも君に”してほしい”がたくさんあるんだよ。それはできないのに、自分の要求だけは全部通ってほしいっていうのは、ちょっと無理があるよね」
「全部通してほしいとは、思ってないです。ただ、なるべくなら、仕事が円滑に進めばいいと」
「阿古矢くんにとっては円滑かもしれないけどさ。他の人の手間考えたことある? 阿古矢くんはメールの方が見やすいかもしれないけど。言う方はさ、通りすがりにちょっと声かけて「はい」って返事貰えたら、三秒で済むことをね。わざわざパソコンの前に座って、メーラーを立ち上げて、文字を全部打って、署名入れて、送信して。それって積み重なるとね、結構な手間なんだよ。阿古矢くんはその負担を他人に押し付けている」
「それは、多少手間かもしれませんが、記録に残った方が他の人にだって」
「そのボイスレコーダーもね。覚えてられないっていうから許可したけど。会話がいちいち記録されてるって、結構ストレスだよ。なんでもかんでも記録、記録じゃね。監視されてるみたいだし、信頼されてない気分だ」
「そんなつもりないです! ただのメモのつもりで」
「つもりはなくてもね、結果そうなるんだ。君が仕事をしやすいように我々に求める配慮は、我々にとって負担になる。そして君は、その負担を補うだけの成果を出せない」

 既に頭がくらくらしていた。笹原課長の言葉は半分も入ってこない。
 ただ、俺が負担になっている、という事実だけは、はっきりと胸に残った。

「会社っていうのは学校じゃないんだよ。君を育てるためにあるんじゃない。会社は利益を上げるために社員を雇っている。なら君は会社にどれだけ貢献できる?」
「貢、献」
「阿古矢くん、一般雇用だよね。つまり君は、普通の人と同じように、社員一人分として、給料に見合う戦力としてカウントされているんだ。君を雇うことで補助金が出たりはしないし、安い賃金で仕事をさせているわけでもない。だったら同じ給料の人達と同じだけの仕事ができないと困る」
「……それは……誰もが、全く同じに、仕事ができるわけじゃ」
「そうだよ。だから僕も、最初は皆の話を聞くんだ。得意不得意はそれぞれ違う。チームで動けば成果が倍増することもある。少し手を貸せば、大きな利益を上げてくれる社員もいる。そういう人は手助けしようって思うだろう。槙田くんがそうだ」

 槙田先輩。そうだ。あの人は、とても仕事ができる人なんだそうだ。
 人よりできるから。人より余裕があるからと、だから俺の教育係を引き受けてくれた。

「でも君は、手助けして、周りが配慮して、それでやっと普通と同じくらいしかできない。君の負担を、周りが分け合っている。一番割を食っているのが槙田くんだ。君の面倒を見るために、貴重な戦力が満足に動けずにいる。これは会社にとっても損失だ。わかるかい?」

 優しいと思っていた笹原課長の目は、鋭く俺を射抜いた。

「配慮をするのは、そうすることで利益が生まれると思うからだ。君に気分良く仕事をしてもらうためじゃない。損失しか生まないのなら、配慮をする理由は無いよ」

 それに何と返したか、記憶にない。
 ただ俺はふらふらと面談室を出て行って、その後は仕事が手につかなくて、ずっと怒られていた気がする。
 もういいと言われて、俺は定時で会社を出た。
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