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精神保健福祉法

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 看護師は、私と一緒に部屋へ入ると扉を閉めた。しかし、扉はきっちりと閉まらず隙間ができている。ドアノブがついていないそれは、から完全に閉じることができないのだ。

「嫌だと思いますけど……服を脱いでもらえますか。下着はつけたままで大丈夫なので」

 ベッドに腰掛けるよううながした看護師は、突然そんなことを言い出した。
 しかし、いくら同性相手でも、体を見られていい気はしない。首を数回横に振ると、看護師は「傷が増えていないか確認しないといけないので」と困ったように言った。仕方なく、私はシャツ、ベスト、スカートを脱いだ。

「傷はこれだけですか?」

 いくつかの痣と、両腕の傷を指差しながら看護師が言うので、私は少しだけ首を傾けた。数本ある白い線を確認すると、看護師はなにやらメモを取り、それから「ありがとうございました。もう着て大丈夫ですよ」と許可を出した。
 私の着替えが終わるのを見届けると、看護師は一度部屋を出た。そして、すぐに戻ってくるといくつかの書類を手に持っていた。ひとつは『入院案内』とデカデカした文字で書かれ、病院のような、ビルのような建物のイラストが載っている。

「入院生活について書いてあるので、時間があるとき目を通してくださいね」

 看護師は書類を床頭台の上に乗せたあと、片膝をついて座った。ベッドに腰掛けている私よりも、少しだけ目線が低くなる。それから私の腕を優しくなでると、看護師はぽつぽつと話し始めた。

「……退院したら、なにをしたいですか?」
「今日から入院なのにもう退院の話ですか?」
「入院するのは、健康になるためですよ。入院して終わりじゃないんです」

 看護師の言葉に、まあ確かに、と半分納得した。たいていの人間は、健康な状態で入院しない。心身を良くするために、なにかしらの処置を施すのだ。
 しかし、私は自分のことを病気だと思っていないし、特別健康になりたいとも思わない。それでも、精神保健福祉法第33条により、私は入院しなければならなかった。《医療保護入院》を言い渡された時点で、私の意見は存在しないのと同じだった。なので、退院後の計画を聞かれても「知らんがな」といった具合で、元気になって死んでやろうとしか思わなかった。
 ただ、目の前の看護師相手にそれを言うのは気が引けたので、なにか他に答えはないかと思考を巡らせた。

「んー……まあ、学校に戻りたいですかね。退学しちゃったんで」
「なんの学校に通ってたんですか?」
「デザイン系。ポスターとか、本の装丁とか、紙に印刷するやつ」
「えー! じゃあ、この資料とかダサく見えますよね」

 看護師が床頭台の上にある『入院案内』を指差したので、「そうですね」と一言だけ返した。
 別に、見た目がダサいかなんてどうでもいい。こういった資料は、正しい情報が適切な場所に置いてあればそれでいい。ビジュアルとしてのデザイン性なんて、誰も求めていないのだ。それなのに、なんとか個性を持たせようとした結果、いろいろと捏ねくり回したデザインが一番嫌いだった。

 そんなことを考えている私の気も知らないで、看護師は話を続けた。

「復学する以外だと、どんな生活を送りたいですか?」
「さあ……普通に暮らせればいいんじゃないですかね」
「普通って、例えば?」
「いい家に住むとか結婚するとかそんな感じ」

 地元の同級生はだいたい結婚してるんで。
 私がそう言うと、看護師は「本当にそういった暮らしをしたいと思ってますか?」と聞いてきた。

「みんながそうしてるなら、それが『普通』なんでしょ。だったらそうすべきじゃないですか」
「その『普通』が、自分にとって幸せとは限らないですよ」
「少なくとも『普通』からズレた人間よりはまともに暮らせると思いますけどね」

 いい家に住むことも、結婚することも、それ自体は私にとってどうでもいい。

「私は『芸術家っぽい社会不適合者』って言われるのが嫌い」

 たいていの人は型にはめられるのを嫌うし、社会の歯車になりたくないと言う。それなのに、型から外れた人間を見ると気持ち悪く感じて、なにか別のくくりに無理やり入れようとする。なんて矛盾した生き物なのだろうか。
 別に、理解できないものや、わからないものに恐怖を抱くのは当たり前だと思う。私も、死を理解していないから死に対して恐怖心を抱いている。記憶を引き継がないで何度も別人に生まれ変わるのか、死んだあともここではないどこかで生活が続いていくのか。
 しかし、それがわからないから早く死にたいと考えるのは、周りからすれば『普通じゃない』らしい。だから私は、『芸術家っぽい』という雑なくくりで片付けられることが多かった。

「私は病気ですか?」突然の質問に、看護師は少し驚いた様子を見せた。

「なんで他の人の『普通』に合わせる必要はないのに死んだらいけないんですか」
「死んでほしくないからです。みんなが悲しみます」
「じゃあ勝手にそう思ってればいいじゃないですか。私には関係ないし」
「……今は、具合が悪いからそう感じるんです。元気になったらやりたいことがいっぱいできて、生きてたら楽しいことも――」
「死んだ人間だったらいいけど。そんなこと、生きてる人間に言われたくないです」

 ひどいことを言われて傷ついたのか、気が立っている人間をなだめる対処法のひとつなのか、ただ単に言葉が出てこないだけなのか。言葉を遮られた看護師は、そのまま口を閉じてしまった。

「本当に楽しいことが待っているかなんてわからないのに無責任じゃないですか」

 私は腹を立てていた。死生観について理解されないことは仕方がない。彼女は看護師で、人の命を救う立場の人間だから。
 しかしそれよりも、『幸せ』や『楽しい』など、自分が理解できないものを押しつけられたのが嫌だった。生きているうちに幸せを見つけられる保証はないし、そもそも、見つけたところで生きるのがつらくなるだけだ。死んだ人間に言われたなら少しは説得力もあるだろうが、あいにく死人と話す能力は持っていない。

 看護師の手を振り払った。

「それに私は、幸せになりたいなんて思ってない。人間は幸せになると停滞するんです、考えることをやめるから。それなのにさっきから幸せがどうとか、そうやって押しつけられるのが一番嫌いなんだよ!」

 突然怒鳴られても、看護師はびくともしなかった。普段から詰められ慣れているのかもしれない。病棟の看護師たちのやりとりなんて見たことないけれど、バイト先の病院で空気感は知っている。なんて嫌な環境なのだろうか。
 そして私は、なんて嫌な患者なのだろうか。私より2、3つ年上くらいの、大学を出たばかりのような看護師に怒鳴りつけたって、なにかが変わるわけでもないのに。

「……無責任って思われてもいいです。嫌われたっていいです」

 先ほどまで黙っていた看護師が、ゆっくりと口を開いた。一方で、目はパチパチと忙しなく動いていて、緊張しているのがわかる。

「でも、生きてほしいって、幸せになってほしいって、勝手だけど思ってます。だから、退院したらどんな生活を送りたいか、一緒に考えてほしいです。これは、宿題です」

 今にも泣き出しそうな看護師は、震えながらも、はっきりした声でそう言った。
 その姿を見ていたら、「ああ、やっぱり私は病気なんだな」と思った。
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