妖しの彼女

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斑大姫(中)

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僕の住むマンションはよくある住宅地の一角にあり、周りには特にこれといったものはなにもない。その住宅地に囲まれるように「白波公園」と書かれた看板のある公園がぽつんとある。僕等は今その公園のブランコに並んで座っている。昼間はマンションに子連れのママさん達の憩いの場になっているのであろうがもちろん20時を回っている今では誰一人いない。

「こんな時間に……どうしたんだ井上さん?」

つばのついた帽子を深く被って黒いパーカーを羽織った井上さんは、僕の方をチラリと見たが何も答えずブランコに揺らす脚を大きく伸ばした。井上さんの私服は初めて見たけれど、男の僕から見ても何と言うかカッコイイ。決して女の子らしい服装ではないけれど実にサマになっているのである。

(女の子からモテそうだな……)

変な考えが頭をよぎりぶんぶんと首を振った。

「本当に、何かあったの?」

「浅木君はさっきからそればかり」

じゃりと音を立てて井上さんがブランコから降り立つと両手を組み背筋をぐっと伸ばした。そればかりと言われても、こんな時間に突然他人の家に押しかけられれば誰だってその理由が気になるに決まっているではないだろうか。しかもそれが女子高生ともなれば尚更なのだけれど、僕の質問は全く意に介さずてくてくとジャングルジムに向かって歩き出した。僕はそれを追うようについて行く。


井上さんはジャングルジムのてっぺんに座ると、キョロキョロと辺りを見回した。

「ここが浅木君の住んでる場所なんだ」

「うん、何もない所だけれどね」

ジャングルジムに器用に腰をかけ足をブラブラさせている井上さんを見ると、少し危なっかしい気がするのだけれど、そんな僕の心配をよそに井上さんは暗い空を見上げる。


「浅木君は今の彼女でいいの?」


それは突然で意外すぎる程に意外な質問だった。というか僕にはその質問の内容が理解できない。

「綾篠さんの事?」

「もちろん」

「どういう意味……?」

「もし……浅木君が綾篠さんの性格について行けないのなら、無理する事ないんじゃないかって事」

それは暗に綾篠さんとは別れた方が良いという事なのだろう。普通に考えれば当たり前の忠告かもしれないけれど、わざわざこんな時間に家まで来てそれを僕に言う必要があるだろうか?

僕は井上さんの意外な質問の真意が読み取れなかったけれど、続く言葉はもっと意外な物だった。

「私が代わりに彼女になってあげてもいいよ……」

それは小さな声だった。井上さんは夜空を見上げていた顔を僕の方へ向けると何とも言えない程、切ないような悲しいよう顔をしていた。当然、僕は意外過ぎる提案に何と答えたら分からなかった。もちろん答えは「NO」である事は間違いないのだけれどそれを上手く会話にできないのだ。こんな状況は人生で初めてだし、何と言ってそれを伝えればいいのか上手い言葉が見つからなかった。

それは時間にしてとても短いものだったけれど、ジャングルジムの上から僕を見下ろす井上さんと、それを見上げる僕達は見つめ合ったまま会話の途切れた時間が流れた。


不意にポケットに入っていた携帯電話が鳴り、心臓がドクンと音を立てる。


(ヤバイ――!)


それは必然的な直感だったけれど間違いなかった。

僕は携帯の画面も見ずにそれを取り出すと、機先を制するように先にそれを述べる。

「ご、ごめん綾篠さん!  これは違うんだ……!」

「何に対して謝っているのか、何が違うのか。後でゆっくり聞かせて欲しいのだけれど浅木君」

綾篠さんの淡々とした声が携帯電話から聞こえる。

「浅木君が今、どこで誰と何をしているか知らないけれど」

少し早口に言葉を繋げる。

「今、浅木君が一緒にいる人は人間じゃないわ。早くそこから離れて」


……。


綾篠さんの言葉にゆっくりとジャングルジムの上にいるそれを見る。

ジャングルジムの鉄棒に器用に足を絡めている井上さんがいる。器用に、そう器用に何本のも足を絡めている。1,2,3,4,5,6本もある。見上げた井上さんは暗い夜空に浮かぶ月の下で6本もの足をジャングルジムに絡めながら2本の腕で顔から胸へと体をなぞっている。その光景はどこか綺麗にも見えたけれど、当然恐ろしい物に間違いない。

「浅木君、そこに何がいるの?  何か見える?」

携帯電話の置くから綾篠さんの声が聞こえる。僕はその声を聞いたまま井上さんから目を離せずにいたけれど、やがて自分でも信じられない程に枯れたような声が出た。

「く……」

「く?」

「クモ。だ」

僕の声に井上さんがニヤリと笑うと、ゆっくりとジャングルジムに絡ませていた足を解き、その足を地面に向けて伸ばした。降りて来る井上さんに思わず後ずさりする。本当は踵を返し走って逃げ出したかったけれど、僕を真直ぐ捉えて離さない井上さんの瞳がそれをさせないのだ。

ドクドクと心臓が脈を打つ。

井上さんの帽子の奥にある瞳が怪しく赤に染まる。

「電話を切って。これからは私が側にいるから」

井上さんがゆっくり僕に手を伸ばした時、携帯電話の向こう側で綾篠さんが叫ぶ。

「早く、そこから、離れて!」

その声にハッとして僕は後ろを向くと駆け出した。


井上さんに手を伸ばされた時の感覚。

それはどこかで体験したような感覚だったけれど、今はそんな事はどうでもいい。一刻も早くこの場から離れなくちゃいけない。振り返ると6本の足に2本の腕をぶら下げた井上さんが僕を追いかけている。その姿は恐ろしい程に異形だ。もはや下半身は人間の姿ではなく完全に蜘蛛のような形をしていて幽霊というより妖怪だ。

僕はもつれる足を踏ん張らせながらなんとか走って井上さんと距離を取る。幸い僕を追う井上さんは微笑を浮かべたままゆっくり歩いてくるだけで、追いつかれる事はなさそうだ。息を切らせながらそのまま公園を出て歩道に飛び出した。

が、不思議な事に瞬きをした次の瞬間に目に映ったものは公園の景色だった。まるで今まさに歩道から公園の中へ入ってきたかのようにブランコや滑り台などの遊具がある。その中にはもちろん微笑みを浮かべた井上さんもいる。僕は訳が分からないまま、また公園を飛び出した。

しかしやはり目に映るのは公園の景色だった。


(抜け出せない――!?)


何らかの力が作用しているのか、もしくは僕自身の体に異変があったのかは分からないけれど、どうやらこの公園から出られないらしい。その間にも井上さんはゆっくり近づいてくる。

「あ、綾篠さん!  離れられないんだけれど……!」

「その蜘蛛はどんな形してるの?」

綾篠さんの質問がとてつもなく悠長な物に聞こえるけれど、恐らく大事な質問なのであろう事が声色に表れていた。

「どんな? 下半身が蜘蛛の足で」

「それから?」

綾篠さんが言葉の続きを急かす。

「上半身は井上さんなんだ」

「そう。やっぱりそうなのね」

綾篠さんは声を落として呟く様に言った。しかし綾篠さんが何に納得して何を理解したのか分からないけど、僕自身の危機的状況は変わっていない。

「マダラオオヒメ...まさかまだ生きてたなんてね」

僕は綾篠のさんの言葉に耳を疑った。マダラオオヒメはかつて井上さんにとり憑いた霊だが、その時はこんな恐ろしい姿ではなく単に蜘蛛の痣だったのだ。しかし言われてみればなるほど、それならば井上さんの姿をしているのも納得できる。

「人の体から離れたマダラオオヒメが生きてるなんて信じられないけれど、私以外が浅木君に寄り付くなんて許せないわね」

霊で嫉妬の対象にする綾篠が少し怖かったけれど、今はそんな事よりこの状況を打破する方法を知りたい。

「マダラオオヒメは井上香織の欲望を食らって成長してしまった。だからその欲望を叶えようとするはず」

欲望...?

「マダラオオヒメは何か欲しいとか、何かしたいとか言わなかった? もしそれがあればそれを壊してしまえばいいわ」

綾篠さんの言葉に絶句した。マダラオオヒメの欲望。それは僕が綾篠さんと別れてマダラオオヒメと付き合う事だ。そんな事は無理に決まってるし、そんな事は意味が分からない。

「マ、マダラオオヒメは僕と付き合いたい。って言ってるんだけど、どうしたらいいんだ?」

「……」

電話越しの綾篠さんから、電波を通して殺意が伝わってくる気がした。

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