鋼殻牙龍ドラグリヲ

南蛮蜥蜴

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第84話 哀華

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 男と女
 光と闇
 怪物と人間
 破滅と再生
 憎悪と慈悲

 陰陽の図を体現したかの如く何もかもが相反する二つの巨体が、何者でも捉えられない速度で何度も激しくぶつかり合う。 

 光の龍が滅茶苦茶に振るう拳から膨大なエネルギーが放たれる都度に、黒檀の乙女は致命的な打撃を神楽を舞うような曲線的な動きで柔らかく受け止め、蒼薔薇の剣閃として斬り返す。

 打撃と斬撃の応酬の度に足下の地形が荒廃と豊穣の時を繰り返し、芽生えた命がゴミのように刈り取られ、舞い散った有機成分がまた命を育み、青々とした草原を広げていく。

 現行の科学では検証できない事象を幾度も引き起こしながら続けられる闘争は尋常のものではなく、最早御伽話として語り継がれる神々の戦争そのものだった。

 哀華の殺害に進んで賛成の意を示し、尚且つその死を心の底から喜んだ悪魔の猿共を滅殺せんと、ヒトだけを殺す光の嵐が世界中に広がろうと吹き荒ぶ。 

 雪兎が蠱毒を勝ち抜く都度に人間から超越した存在へ進化していったのと同じく、光の龍に宿った力は雪兎の底無しの憎悪を受けて際限無く昂り、本来持ち得なかった力を齎すほどまで成長していた。

 だが、それに正面から立ち向かう黒檀の乙女にも何故か同等の力が宿り、光の龍の進軍を依然として食い止める。 

 雪兎が巻き起こす光の嵐と対応するよう、くるりくるりと回り続ける闇の澱み。 

 それは世界中に殺人的な光の拡散が行われるのを妨げ、放たれた衝撃を光陰の渦の中へと強制的に引き戻し虚無へと帰した。

 進めもせず退けもせず完全に膠着する戦況。 

 しかし単なる千日手と表してしまうには、その戦いは余りに凄惨過ぎた。 

 互いの能力が拮抗し無力化されるとなれば、そこから先は何処までも泥臭い白兵戦に移る他はない。

 光の龍が突き出した爪と拳が黒檀の乙女の頭蓋や手足を何度引き裂いて擦り潰し、黒檀の乙女が振り翳す剣と盾が光の龍の尾や手足を何度刎ねて竜頭を叩き潰しても、その都度に破壊された部位が瞬く間に復活を遂げ、互いに防御という行動自体が完全に形骸化する。

 結果、人智を超えた二体の戦いは、最終的にノーガードでの殴り合いという単純極まりないものへと成り果てていった。 

 物理法則を超越した打撃と斬撃の応酬は休むことなく続けられ、互いから溢れ出た赤黒い血潮が、くすんだ赤茶色の錆びた荒野に幾筋もの深紅の軌跡を描く。

 一歩間違えれば星の未来すら危うい人智を超越した死闘であるはずが、戦いの余波で生じた莫大なエネルギーの煌めきは澄んだ星空を地上を降ろしたのかと思える程に美麗で、二つの影がステップを踏む都度に艶やかな光と闇の花が咲き乱れた。

 砕けた甲殻が花火のように弾けては黒檀の乙女の艶やかな機体のラインを照らし出し、爆ぜた装甲が木炭のように激しく燃え上がっては光の龍の虚ろな眼の中へ明かりを灯す。 

 雪兎の気性には似つかわしくない鮮血のように赤朱い瞳。 

 それは何も見ていないようで、破滅の奔流の中で苛烈に舞う黒檀の乙女の姿を確かに映し続けていた。

 何もかもを虚無の向こうへと押し流すはずの極光を難無く撥ね除け、恐れも抱かずたった一人で立ち向かってくる哀華と同じ声の何か。 

 無謀とも思える戦いを延々と続けるその存在に対し、雪兎は無意識のうちに恐怖を覚えたのか、遂には大人げなく無理矢理組み付いて拘束すると、トドメとばかりに至近距離からブレスを放射する。 

 無意識のうちに体表から放射され続けるエネルギーとは一線を画く、確実に相手を滅する為の破滅の奔流。 

 そんな物を浴びせられては流石に無事ではいられないのか、黒檀の乙女に初めて再生が追いつかないほどのダメージらしいダメージが入った。 

 何度も再生を繰り返している頭部や腕部のみならず、胸部を覆っていた分厚い装甲までもが吹き飛び、固く護られていた部分が露わとなる。 

 植物繊維と金属繊維で複雑に織り上げられた人工筋肉やドラグリヲに搭載されたものと同等のグロウチウムリアクター、そして身体の奥底に収められていたコックピットの中身まで。

「無駄よ、貴方がいくら目と耳を塞いで否定しても私は絶対に諦めない。 だって私は、貴方のことを愛してるから」
「!!!!!」

 吹き飛んだ装甲の隙間から姿を晒し静かに言葉を紡ぐのは、金属と樹脂によって復元された哀華のようなもの。 

 だが雪兎の身体に入り込んだアルフレドの力の欠片は、その依り代に宿る意識が誰の者であるのかを偽り一つ無く告げる。

 目の前に佇む者が、間違いなく哀華本人であることを。

「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 僕は絶対に認めない! こんな理不尽なことがあっていいはずが無い!!!」

 驚愕と動揺、そして混乱のあまり、雪兎は無意識の内に激しく自傷しながら泣き叫ぶ。 

 全ては哀華の無念を晴らす為。 

 そのために戦いを決意したはずなのに何故だと、全身から鮮血を吹き立たせ、身を悶えさせながら何度も咆哮した。

 その理由は単に哀華と戦う羽目になったからというだけではなく、今この瞬間も世界中に散らばったグロウチウムからの通信から感じる、悪魔の猿共の残虐極まった醜悪な思念。

 “何だかよく分からないけどムカつくから”などという身勝手極まりない理由で哀華を含めた数多の命の殺害に賛成を示し、それが達成されたと知れると今度は簒奪者共が新たに眼前へ吊した毒入りの餌に釣られて殺戮と破壊を平気で行い始めた衆愚の幼稚な精神性を容認出来ず、雪兎はアルフレドの力の一端を利用して世界中の悪魔の猿共との精神への介入を開始した。

 その瞬間、世界中の人々の脳内へ等しく雪兎からの問いかけが送られる。

 何故殺した。 

 何故同胞たる人間の死を喜んだのか。 

 そもそもいつから貴様らは無責任に他人を裁いて良いほど偉くなったのか。 

 答えられないのなら望み通り焼き殺してやると。

 それに対して明瞭な答えは一切帰ってこない。 

 帰ってくるのは雪兎が幼い頃から直視させられてきた人間の恥部そのもの。 辛く苦しい外敵との戦いの全てから目を逸らし、安全な要塞都市の中でひたすら惰眠を貪ってきた家畜未満である人間もどき連中の、醜い醜い責任の押し付け合いだった。

「……見られてる? 俺達は今あの化け物に見られているのか?」
「殺される! あの野郎お気に入りの便器が壊されたからって俺達に八つ当たりするつもりだ!!!」
「違う! 我々は悪くない! 悪いのは我々を煽ったメディアだ!」
「お前が邪悪なのは我々のファクトチェックの正しさが証明している! 我々メディアこそ正義であり真実だ!!!」
「俺達社会的弱者を平気で責めるなんて残酷だぞ! 差別だ! エゴだ! 傲慢だ! こんなヘイトは許されない!!!」
「は……ははは、貴方様こそが世界の支配者! 貴方が欲しいものは何でも献上しますから私だけは殺さないで!」

 貴賓席で偉そうにふんぞり返っていたはずが、本当は最初から断頭台に寝かされていた事にようやく気がついた衆愚の、それはそれは醜く汚らしい命乞いと媚び、そして逆恨みが雪兎の憎悪をさらに強く大きく煽り立てる。

「“こんなもの”のために……、哀華さんは今戦わされているのか? こんなゴミを護る為に!? 何でこんな惨いことを彼女にさせるんだ! カルマ! グレイス! 何か言い訳があるなら言ってみろ!!!」

 哀華と同じく人の悪意のおぞましさを身を以て経験しておきながら、哀華を擁して黒檀の乙女の肉体を構成する“人在らざる知性”の二人組を名指しして雪兎は憎悪の咆哮を上げた。 

 自分と同じものを今も聞かされているはずが、何故恥ずかしげも無く悪魔の猿共を護るのかと。

 害獣や外道相手以外には決して向けなかった殺意を躊躇いなく全身に滾らせながら雪兎は問い質す。 納得のいく返答をしなければお前らでも殺すと冷酷に言外に示すと、それに対しての答えなのか、カルマとグレイスは大量の思念の中から隠されていたものを洗い出し、それらを雪兎に送り届けた。

 既に雪兎からの報復を受け、内側から焼き殺される人間が世界中で大量に出始める中、二人が夥しいノイズの中から拾い上げたのは、雪兎が命を賭して守り抜いた人々の命の鼓動。

「これは……」
『これは貴方が身と心を削って護ってきた人間の善性の結晶。 ヒトという愚かしい種族を現在まで生かし導き続けた灯火です』
『たしかに君の言うことは正しいよ雪兎兄ちゃん。 ……でも、その愚かな連中の澱みすら振り払う輝きがあったことを絶対に忘れちゃいけないんだ。 それがあったからこそ、リンやその前任者達は世界樹に組みせず人間の為に戦えたんだって』

 胸に渦巻く憎悪を鈍らせる何かに戸惑う雪兎を励ますように、カルマとグレイスは穏やかに言葉を紡ぐと、それに呼応して少しでも雪兎と繋がりを持った人々の悲しみが、憎しみで塗り固められていた雪兎の心を釘付けにする。

 最前線で共に背中を預け合ってきた兵士達が
 呉から辛うじて救い出された無辜なる人々が
 今この時も使命を胸に空を舞い続ける諜報員が
 貧困に負けず前向きに生き続ける元気な子供らが
 異元に放り出されて死を待つのみだった漂流者達が
 上位者気取りの狂人達により人生を弄ばれた実験体達が
 人の手によって造られた地獄から助け上げられた有力者達が

 たった一人の愚直で優しい男の為に祈る。

 そして、衆愚に流されず確固たる己を持ち続けた生真面目な人間達の懺悔と、未だ人の悪意を知らない無垢な子供達の慰め。 さらに極めて合理的な判断で雪兎や哀華への攻撃に反対を示し続けた人々の理性の輝きが、憤怒に狂った雪兎に縋るように願う。

 人を惑わし狂わせるみっともないプライドや自己顕示欲、決して正解の無い矜持とイデオロギーの虚栄を引き剥がした後、人の心に残るのは“死にたくない”“生きていたい”という極めて原始的な欲求だけ。 

 決して何色にも染まらない、本当の人の願いが雪兎の思考を乱していった。

「くっ……ううう……!!!」

 殺ろうと思えば、わざわざ哀華を傷付けずとも単純な行動一つで殺し尽くせる。 

 何も考えずにただ、自らが踏みしめる大地に向かって全力でブレスを吐き付ければいいだけのこと。 

 それだけで地球に寄生する悪魔の猿共は問答無用に粉砕出来る。

 しかし、雪兎はそうすることが出来なかった。 

 一寸先すら見えない暗黒の中で懸命に輝く光の粒。 それらを踏み潰すことが出来なかった。 

 憎しみと共に心の根幹を為す誰よりも優しい性根が、誰彼構わず全てを滅殺することを辛うじて許さなかった。

 雪兎の迷いに応じるかのように、今まで嵐のように吹き荒れていた破滅の風が弱まり、今まで眩かった龍の姿が薄れ、燃え殻の如き龍の骨格が露わとなる。

 つい先ほどまでの威容が嘘のように窶れきった燃え殻の龍。 

 それに向かって、哀華は今度こそ雪兎を説き伏せようと静かに機体を歩み寄らせていく。

「……私も全ての人間が分かり合うことなど出来ないことくらいは分かってる。 でも、その根底にある気持ちは皆一緒なはず。 だって私達は、どれだけの時が流れようと死ぬまで人間以外の何者にもなれないから」

 頭を抱えて激しく苦悩する雪兎に慈愛の視線を向けながら、哀華は静々と語る。 

 これ以上苦しむことはない、これからはずっと一緒にいようと。

 だが、雪兎はその言葉を受け入れることが出来なかった。

「僕は……、貴女を殺すよう無責任に煽り立てた連中と共に生きるつもりはない!!!」

 自らの手を汚さず哀華の殺害を達成し、尚且つそれを心の底から喜んだという事実を雪兎は決して容認出来ず、 それに呼応して燃え殻の龍の喉奧から再び滅却の光が洩れ、地上から何もかも消し飛ばさんとその輝きは指数関数的な勢いで大きくなっていく。

「くっ!!!」

 雪兎に無用な殺しを絶対にさせまいと、哀華は躊躇い一つなく龍の喉元を狙って片刃の剣を振り回す。 

 説得で止められないのなら、せめて物理的にでも止めてやろうと意を決して。 

 紫紺の結界を纏った刀身が弧を描き、雪兎の手で放たれんとしていた莫大なエネルギーを無害な方角へ流出させんと燃え殻の龍の首筋に迫った。

 ――瞬間に、燃え殻の龍は口の中に蓄積させていたエネルギーを突如霧散させると、振り下ろされた剣を素早く掴み取り、その切っ先を自らの意思で自身の胸へと導き入れた。 

 刹那、片刃の剣の切っ先が霧のように薄れかけた燃え殻の龍を貫き、急所である黒い脊髄をへし折って血潮を噴き上げさせた。 

 決して害獣の類いではないという証たる赤々とした血潮を。

「え……?」

 一瞬何が起きたかを理解出来ず、哀華は雪兎に剣を突き立てたままおろおろと機体を後逸させるが、すぐさま正気を取り戻すと悲愴に満ちた声色で雪兎に語りかける。

「雪兎……貴方まさか……」
「違う、僕はあんな連中の為に犠牲になるんじゃない。 僕はただ、この手で貴女まで殺したくなかった。 ……本当にただそれだけなんです」

 制御できなくなった破滅の光によって自身の身を焼かれ、ただの灰と化しつつある雪兎。 

 彼はコックピットを開放して姿を現した哀華を見つめながら穏やかに言葉を紡ぐ。 

「哀華さん……やっぱり貴女は綺麗だ……。 この世で誰よりも素敵な人だ……。 僕は貴女を……」

 愛してた。

 つい昨晩ようやく素直に告げられた言の葉を口にして、燃え殻の龍はがっくりと俯いて膝をついた。 

 後はただ、跡形遺らず燃え尽きるのを待つだけだと言わんばかりに、その龍は煌々と揺らめく残り火の中で静かに目を瞑る。

 すると、その様子を黙って見守っていた哀華はおもむろに自らの分身たる黒檀の乙女を燃え殻の龍へ寄り添わせ、炭化しつつある龍を砕かないよう優しく抱き締めさせた。

「……大丈夫、これからはずっと一緒よ。 “私達”の命が終わるまでずっと」

 並々ならぬ決意を胸に神妙な表情をして一人呟く哀華。 

 その言葉が紡がれた瞬間、黒檀の乙女を中心に巨大な力場が発生し、凄まじい勢いで収縮していった。 

 光の龍が放ち続けた滅却の波動と相反する再生の澱み。 

 それは命ある金属と偉大なる樹木の欠片をも巻き込んで凝縮されていく。

 やがてその果てに、金属と樹木によって表面を覆われた巨大な卵が遺された。

 錆び付いた荒野と青々とした草原が同居する奇妙な環境に、たった一つ打ち捨てられたように。
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