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第89話 螺旋
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深い闇の中に鰐淵翁の甲高いわめき声が響く。
要領を得ず、脈絡も掴めず、大まかな話の流れすら理解出来ない支離滅裂な言動。
それは黙ってそばに控えていたシュトを傷付け、彼女が無意識のうちに昔を思い出すきっかけを作り出す。
かつて人類の未来の為に弁舌と財力を振るい、戦い続けた聡明な主との思い出を。
だが付近のエリアに招待客の反応が現れたことを察知すると、シュトは静々と会談の準備を始めた。
子供のように駄々を言う主人を大人しく座らせ、万が一戦闘を仕掛けられても逃がせるよう仕掛けを仕込み、パーティクルエルダーに変形できる準備を途中まで進めておきながら、ただ待つ。
その数分後、小さな明かりが突然灯ったか思うと、カルマとグレイスを両脇に抱えた雪兎が物陰から音もなく姿を現した。
言葉は発さずとも、哀華から譲り受けた蒼い瞳を激情で真っ赤に染め上げるその姿から凄まじい敵意を察し、シュトは反射的に半歩主人の前に出る。
何かが崩れた瞬間、そのまま戦闘に雪崩れ込みそうなほど緊迫した雰囲気が辺りを包む。
しかし、その発端だったはずの雪兎は鰐淵翁の覇気の無い腑抜けた顔を見つめると、醸し出していた敵意を静かに収めて口を開いた。
「随分と老い耄れたな……クソジジイ……」
「ああ何だと!?誰だお前は!?儂はお前みたいな若造など知らんが総理と話したいならまず儂を通かんか馬鹿者が!」
相手が雪兎であることすら認識出来ず、ふがふがと滅茶苦茶な物言いをしながら物を投げつけて好き勝手に喚き散らす。
その姿は認知症が進行し、赤ん坊へと思考が還っていった老人そのもの。
数ヶ月前、問題なく理知的な受け答えが出来ていた人物が取る行動とは思えず、雪兎は先ほどまで抱いていた激情が何処かへ消えていくのを感じてしまった。
「僕はアンタにとびきり惨い罰を与えてやりたかった……でも……」
こうなっては罰の与えようがない。
鰐淵翁というろくでなしの悪党を形成する人格も知性も誇りも完全に失われ、今ここにあるのは自然の摂理に飲み込まれようとするただの人間が一人いるだけ。
恨み言をぶつけようにも支離滅裂な言葉しか返ってこず、雪兎は憐れみに近い感情を抱き沈黙する。
既に自分以外の偉大なる意思。 時間という抗いようのないものが勝手に罪を裁いていた。
恐らくこのまま生かして醜態を晒させ続けた方が死ぬよりずっと辛いだろうと、雪兎は握り込んでいた拳を解く。
すると天井に配された古い電灯が点灯し、その中から現れたジョンの身体の一部である黒い稲妻が雪兎の頭上より快活な声を投げ掛けた。
彼が口を開く都度に天井から火花が飛び、明滅を繰り返す。
『どうしたんだ坊や。 こんな機会は今後二度と無いぞ』
「残念だけど、ここには僕が知っているクソッタレジジイはもういない」
『そうか……、まぁそういう選択もありといえばありだろうな』
諦観のあまりに肩を落とす雪兎に横目を向けつつ、ジョンは実体化しながらさりげなく鰐淵翁の脇に近寄ると小さく丸まった背を軽く叩きながら呟いた。
嘲笑なのかそれとも憐憫なのか、意図の読めない微笑みを浮かべ続ける漆黒の稲妻はただ残念そうに首を振る。
『善人だろうと悪人だろうと、人間の末路はなんて皆等しくこんなものだ。 しこたま貯め込んだ金も汗を流して作った肉体も磨き上げた知性も、全ては灰か土に還るだけ。 なぁ次郎、今のお前はリンのことを覚えているか?』
『あぁ……リン……?』
雪兎が今まで知らなかった鰐淵翁の名を、ジョンはただ親しげに哀れみと共に投げ掛けてやる。
大した応答など全くもって期待せぬまま。
だがその瞬間、ぶれっぱなしだった鰐淵翁の瞳の奧に意思の光が帰還し、朽ち果てるのを待つだけだったはずの老人は完全に復活を果たした。
「ああ……そうだったわ……、儂はまだボケる訳にはいかん! 貴様よくも儂の前にオメオメとツラを出せたな!」
頬を叩きつつ起き上がるが早いが、鰐淵翁は懐に忍ばせていた対獣拳銃をぶっ放し、問答無用で雪兎の眉間に命中させた。
しかしブチ当たった弾丸は雪兎の額を貫けずそのまま潰れると、雪兎の足下に軽い金属音を立てて落ちる。
何かに衝突して命絶えた虫の如く、力無く転がった弾丸の残骸。 それを雪兎は思い切り踏み潰すと再び拳を握り込んで遠慮無く牙を剥き出しにした。
「それはこっちの台詞だクソジジイ! テメェのくだらん計画とやらで死ななくてもいい人間が大勢死んでいったんだぞ!!!」
「知るか! 儂はな、リンとの子が得られればそれで良かったのよ。 その過程で世界がどうなろうと馬鹿共が何人死のうと知ったことではないわ!!!」
「……首領の子だと?」
返答次第ではこのまま斬り殺そうかと思っていた矢先、狂乱する鰐淵翁が放った思いもがけない言葉に雪兎は大いに戸惑いながら問いかける。
対する鰐淵翁は雪兎の反応から一瞬バツの悪そうな顔をするも、今さら隠し通したところで得など何も無いと考えたのか、深いため息をついた後に静々と口を動かし始めた。
「うすうす分かっていたと思うが、アイツは生まれながらにしてただの人間ではない。 人の代わりにあらゆる労働を担い、時に雑多な銃と刃を握らされ、死ぬまで弾除けにされ続ける老いることのない合成人間。 それがアイツの……リンの呪われた生まれだった……」
がっくりと椅子に腰を下ろし、どこか遠くを見つめながら鰐淵翁は語る。
そこには普段見せる油断のならない狡猾な老人の姿はなく、くびれ果てた老人がただ一人昔を懐かしみながら笑うばかり。
「だがアイツは……地獄のような環境に身を置きながらも、決して諦めずに幾度も降りかかる理不尽な試練に立ち向かい続けた。 そんなアイツの気高く美しい横顔に、当時の若かった儂は惚れたのよ。 だから儂は高い金を払ってリンを身請けした後、あらゆる手段を使って普通の人間として生きていけるよう万事を尽くした。 人権も財産も知識も、あらゆるものが人間と等しく得られるように。 だがな……どうしても……子供を作らせることだけは出来なかったのだ……」
頭を抱えて哀しげに、自分の無力さを憎むかのように言葉を振り絞る鰐淵翁。
だが、子という言葉を一度発したのを境にその言葉は次第に熱を帯び始める。
鰐淵翁が首領以外に誰にも見せることのなかった激情の気配を。
「製造元曰く、並みの人類を軽く越える存在に安易に繁殖されては困ると。 たったそれだけの理由であいつは生まれながらに子を成せない運命にあった。 こんな理不尽なことがあるか? 散々地獄を這いずり回らせておいて子孫を遺す権利もないと、こんな惨い仕打ちは他にあるまい!」
骨と皮だけが目立つ脆い手で必死に拳を握りつつ、鰐淵翁は年甲斐もなく顔を真っ赤にして怒りを露わにする。
大の大人が奇声を発しながら感情を露わにする様はみっともない事この上ないが、雪兎はただ黙って眼前で怒り狂う老人の言葉を聞いてやっていた。
気合いを入れる余りにヒューヒューと息を切らし、脂汗を流す姿は痛々しいと思う以上に最早哀れで、それを見せ付けられた雪兎の心中に最早殺意が芽生える余裕は無かった。
『旦那様……』
興奮しすぎた主人の姿を見かねたのか、今まで沈黙を守っていたシュトが横から思わず肩を貸してやっと鰐淵翁の興奮が収まる。
だが、それで鰐淵翁の零す言葉が止まることはなく、くたびれた老人の口からは淡々と過去が語られ続ける。
「だがな、ある日転機が訪れたのだ。 意味も無く自身を上位者であると奢り昂ぶる金持ちの遊びにつき合わされた時にな」
「金持ちの遊びだと?」
以前目撃した惨たらしい地獄の様子を思い出したのか、雪兎の表情が再び険しくなるも鰐淵翁は構わず雪兎に語りかける。
「小僧、お前は神や悪魔の存在を信じるか?」
「神とやらは哀華さんを無惨に死なせた。 だから僕はそんなふざけた傍観者の存在なんて信じない」
「ああそうだろうな、儂もその日が訪れるまではそう信じていた。 馬鹿共が悪魔崇拝ごっこで自分達でも数え切れない程の赤ん坊を磨り潰して儀式の真似事を始めるまでは」
「何だと? まさかテメェまで……」
「勘違いするな、儂はただ馬鹿共の遊びにいきなり巻き込まれただけだ。 事前に仔細を知っていればリンを先んじて送って連中を皆殺しにしていただろうよ」
思わせぶりな言葉に戸惑うも束の間、先の経験から鰐淵翁のビジネスパートナーが何をやっていたのかを察して雪兎は激烈な憎悪を示す。
しかし対する老人は鬱陶しいとばかり手をひらひらと振ると、心底不満そうにため息を吐いた。
「金と権力、そして情報と武力を握った人間が最後に考えることといえば不死の他あるまい。 事実、儂がビジネス上関わりを持った寄生虫共はそういう奴等ばかりだった。 連中はメディアを使って衆愚を操り、世間から金や薬や若い血肉をせびり続け、最終的にはオカルトに縋る醜態まで見せてくれたよ。 ……だがな、そのみっともない悪あがきが思わぬ奇跡を生んだのだ」
「奇跡だと? まさかそのくだらんオカルトごっこで本当に神を呼んだとでも……」
あまりに突飛で滑稽な話に、雪兎は思わず鰐淵翁を半分鼻で笑いながら茶々を入れる。
しかしアルフレドから授かった力の断片から冗談を言っていないことを理解すると、雪兎は思わず真顔になって問うた。
「馬鹿らしいな、本当にそんなことがありえたとでもほざくつもりか?」
「さぁどうだか……。 あの日儂の前に現れたよく分からない何かが本当に神であったのかなど今となっては誰にも分からん。 辛うじて覚えていることと言えば、儂だけが祝福という不死の呪いを受けて生き延びたこと。 そして有機物でも無機物でもない謎の物体を授けられた事実だけ。 気が付いた時、儂は大枚を叩いてその物体の調査を行っていた。 そして確信したのだ、これさえあれば何だろうと叶えられる! いつかは“神すらをも創れる”のだとな!」
身体を支えてくれていたシュトの腕を乱暴に振り払いつつ、鰐淵翁は身体中を掻き毟りながら過去を語り続ける。
そして最後に吐かれた言葉が雪兎の鼓膜を揺らした瞬間、雪兎の脳裏に首領がリンボで語ってくれた言葉がよぎった。
「神だと? まさか……まさかアンタが……」
「そう、人在らざる知性の皆を、グロウチウムを、蠱毒に参加した連中に寄生させた害獣モドキを、そして世界樹を創らせたのはこの儂だ。 だがなぁ、そんなモンは今さらどうだっていい。 そんなもんは儂が本当に造りたかったものを体よく造らせる為の戯れ言に過ぎんのだよ!」
動揺する雪兎を尻目に鰐淵翁が合図を出し、ジョンに格納庫から引っ張り出させたのはジョンとはまた別の漆黒の稲妻を動力に脈動する謎の巨大な肉塊。
それを背にして鰐淵翁は狂気の笑みを浮かべ、小躍りしながら叫び散らす。
「見ろ! これがアイツの腹に収まるはずだった子宮! 儂とアイツの子を成せる奇跡の器! アイツと儂の細胞が今も眠るゆりかごだ! これさえあればアイツと儂の子が作れる! 既に100と少しの歳を経たが、あと云十年云百年待てば生まれるはずなのだ!」
「……爺さん」
みっともなく破顔しけたたましく笑い続ける老人を前に、雪兎はもう怒ることさえも出来ずただただ哀しげな視線を返すことしか出来ない。
たった一人の女の為に全てを敵にして狂気に身を任せる。
ずっと昔に自分と同じ選択をした男のことを雪兎は憎み続けることが出来ず、深いため息を吐いて最後まで向けていた警戒の意思すら解いた。
暫しの間、老人の笑い声だけが暗闇の中に響き続ける。
その十数秒後、鰐淵翁は疲れ果てたようにその場にへたり込むと、愛飲していた葉巻を懐から抜き出し火を付けた。
甘いバニラのような薫りが暗がりに立ち籠め、老人の疲れた顔を温かみのある小さな明かりがぼんやりと照らす。
「だが、もうリンはこの世の者ではない。 これから先、本当に生まれるかも分からない子供だけを頼りにたった一人で生きていくことなど耐えられん。 だからな雪兎、儂はこれから全ての騒乱の責任を取ってこの星から消えて無くなる。 文字通り跡形残らずな」
「……何だと?」
途轍もなく不穏な言葉を鰐淵翁が呟いたのを察知し、雪兎だけでなくカルマ、グレイス、ジョンも皆揃って一斉に飛び退いた。
その場に残されたのは体内に自らリンボに繋がる裂け目を開いた鰐淵翁と、主に付き従うシュトの二人だけ。
『シュト!?』
『駄目だカルマ! もう間に合わない!』
咄嗟に同胞を救わんと端子を射出しようとしたカルマをグレイスは急いで制止し、地面を踏み締めた雪兎の背中に全力で抱きついて顔を伏せる。
刹那、鰐淵翁を中心に極光が迸り、大きく膨張した大気が鰐淵翁が長らく潜伏していた地下空間を易々と吹き飛ばした。
古びた機材や腐れた臓器が浮かぶ培養槽も瞬時に吹き飛ばされ、鰐淵翁が長い人生を賭けて貯め込んだ貴重なデータや歴史的資料が文字通り塵となって土に還る。
しかしそういった破滅的な災害が場を支配したのも束の間、リンボへ繋がる裂け目が自然に閉じて超局地的嵐が止むと、そこには半壊した人造子宮とシュトだけが無傷で残されていた。
『馬鹿な、いくら粒子化出来る君でもまともに裂け目に巻き込まれては無事では済まないはず』
『裂け目が完全に開く寸前、旦那様がアドミン権限を利用して私に退避を強要したのです。 何故かと問われれば私が一番問い質したいですよ。 ……私の大切な旦那様、どうして私だけを置いていってしまったのです?』
グレイスの問いかけに対して、まるであたるかのようにシュトは彼女にしては強い語調で返す。
主と一緒にこの地上から消えることを内心望んでいたのか、今まで鉄面皮を貫いていたメイドの顔はこの場の誰も見たこともないほど悲しみに歪んでいた。
鰐淵翁の思惑など誰にも分かるはずもなく誰もがただ沈黙を守る中、半壊した人造子宮の隙間から突然大きな泣き声が響いた。
おぎゃあほぎゃあと庇護を求める訴えが薄暗い空間に響き渡る。
「まさか……」
何が起こったのかを察した雪兎が誰よりも早く崩れ落ちた肉塊に駆け寄って慎重にそれを切り開くと、その中には胎盤状の肉の塊とへその緒状の管で繋がった小さな赤ん坊が、小さな手足を必死にばたつかせて泣き叫んでいた。
ばちゃばちゃと手足が生理食塩水と血に混じった液体を叩く度に、雪兎の服に朱い染みを浮かせる。
『どうして……どうして今さらになってこんな……』
「そんなことは誰にも分からないさ。 分かっているのは爺さんと首領の夢が叶ったってことだけだよ」
何故もっと早く生まれてくれなかったのかとシュトが嘆くのを横目に、雪兎は以前分娩の補助として哀華に無理矢理駆り出された時に習ったことを実践し、赤ん坊を人造子宮から取り出すことに成功する。
「シュト、この子は貴女が命を賭けて護るんだ。 最後まであの爺さんのそばにいた貴女がそうするべきなんだ」
取り出した赤ん坊にカルマと共に急いで適切な処置を施した後、雪兎はグロウチウムの柔らかい布で包まれた赤ん坊をゆっくりと抱き上げ、慎重にシュトへ手渡す。
赤ん坊を抱き上げること自体が初めてなのか、必要以上に力んだ姿勢を見せるシュト。
その傍らに、今まで人造子宮の電源として機能していた漆黒の稲妻を吸収し終えたジョンが近づくと、いつものように快活に笑う。
『お前さんがここに残されたのは恐らくこのためなんだろう。 確証なんて無いが、そう思った方が楽な気持ちで生きていけるさ』
軽く背を叩いて励ましてくるジョンに対してシュトは軽く目配せをして応えると、適切な薬液を投与されて眠りに落ちていった赤ん坊へ慈愛に満ちた視線を向けながら顔を寄せる。
『そうですね……きっと……』
小さく寝息を立て始めた赤ん坊の柔らかな頬を指先で撫でながら、シュトは情操システムの中で新たに芽生えた生きる意味を噛み締めるように感慨深く呟き、微笑む。
そんな彼女に対し雪兎は軽く笑って頷いて見せた後、自身は赤ん坊から背を背けて夕焼け色の光に満ちた空間に向かって歩き始める。
『ちょっと! どこに行かれるのです?』
「……分からない、この先どうするべきなのかも僕にも分からないんだ」
慌てて主の背中を追いかけて来たカルマとグレイスにすら目もくれず雪兎はただ重苦しい雰囲気を醸しつつ、心中複雑な思いのまま荒れ果てた街に足を踏み入れていった。
新たにこの世へ生を受けた命の無垢な輝きから、見苦しく逃げ出すように。
要領を得ず、脈絡も掴めず、大まかな話の流れすら理解出来ない支離滅裂な言動。
それは黙ってそばに控えていたシュトを傷付け、彼女が無意識のうちに昔を思い出すきっかけを作り出す。
かつて人類の未来の為に弁舌と財力を振るい、戦い続けた聡明な主との思い出を。
だが付近のエリアに招待客の反応が現れたことを察知すると、シュトは静々と会談の準備を始めた。
子供のように駄々を言う主人を大人しく座らせ、万が一戦闘を仕掛けられても逃がせるよう仕掛けを仕込み、パーティクルエルダーに変形できる準備を途中まで進めておきながら、ただ待つ。
その数分後、小さな明かりが突然灯ったか思うと、カルマとグレイスを両脇に抱えた雪兎が物陰から音もなく姿を現した。
言葉は発さずとも、哀華から譲り受けた蒼い瞳を激情で真っ赤に染め上げるその姿から凄まじい敵意を察し、シュトは反射的に半歩主人の前に出る。
何かが崩れた瞬間、そのまま戦闘に雪崩れ込みそうなほど緊迫した雰囲気が辺りを包む。
しかし、その発端だったはずの雪兎は鰐淵翁の覇気の無い腑抜けた顔を見つめると、醸し出していた敵意を静かに収めて口を開いた。
「随分と老い耄れたな……クソジジイ……」
「ああ何だと!?誰だお前は!?儂はお前みたいな若造など知らんが総理と話したいならまず儂を通かんか馬鹿者が!」
相手が雪兎であることすら認識出来ず、ふがふがと滅茶苦茶な物言いをしながら物を投げつけて好き勝手に喚き散らす。
その姿は認知症が進行し、赤ん坊へと思考が還っていった老人そのもの。
数ヶ月前、問題なく理知的な受け答えが出来ていた人物が取る行動とは思えず、雪兎は先ほどまで抱いていた激情が何処かへ消えていくのを感じてしまった。
「僕はアンタにとびきり惨い罰を与えてやりたかった……でも……」
こうなっては罰の与えようがない。
鰐淵翁というろくでなしの悪党を形成する人格も知性も誇りも完全に失われ、今ここにあるのは自然の摂理に飲み込まれようとするただの人間が一人いるだけ。
恨み言をぶつけようにも支離滅裂な言葉しか返ってこず、雪兎は憐れみに近い感情を抱き沈黙する。
既に自分以外の偉大なる意思。 時間という抗いようのないものが勝手に罪を裁いていた。
恐らくこのまま生かして醜態を晒させ続けた方が死ぬよりずっと辛いだろうと、雪兎は握り込んでいた拳を解く。
すると天井に配された古い電灯が点灯し、その中から現れたジョンの身体の一部である黒い稲妻が雪兎の頭上より快活な声を投げ掛けた。
彼が口を開く都度に天井から火花が飛び、明滅を繰り返す。
『どうしたんだ坊や。 こんな機会は今後二度と無いぞ』
「残念だけど、ここには僕が知っているクソッタレジジイはもういない」
『そうか……、まぁそういう選択もありといえばありだろうな』
諦観のあまりに肩を落とす雪兎に横目を向けつつ、ジョンは実体化しながらさりげなく鰐淵翁の脇に近寄ると小さく丸まった背を軽く叩きながら呟いた。
嘲笑なのかそれとも憐憫なのか、意図の読めない微笑みを浮かべ続ける漆黒の稲妻はただ残念そうに首を振る。
『善人だろうと悪人だろうと、人間の末路はなんて皆等しくこんなものだ。 しこたま貯め込んだ金も汗を流して作った肉体も磨き上げた知性も、全ては灰か土に還るだけ。 なぁ次郎、今のお前はリンのことを覚えているか?』
『あぁ……リン……?』
雪兎が今まで知らなかった鰐淵翁の名を、ジョンはただ親しげに哀れみと共に投げ掛けてやる。
大した応答など全くもって期待せぬまま。
だがその瞬間、ぶれっぱなしだった鰐淵翁の瞳の奧に意思の光が帰還し、朽ち果てるのを待つだけだったはずの老人は完全に復活を果たした。
「ああ……そうだったわ……、儂はまだボケる訳にはいかん! 貴様よくも儂の前にオメオメとツラを出せたな!」
頬を叩きつつ起き上がるが早いが、鰐淵翁は懐に忍ばせていた対獣拳銃をぶっ放し、問答無用で雪兎の眉間に命中させた。
しかしブチ当たった弾丸は雪兎の額を貫けずそのまま潰れると、雪兎の足下に軽い金属音を立てて落ちる。
何かに衝突して命絶えた虫の如く、力無く転がった弾丸の残骸。 それを雪兎は思い切り踏み潰すと再び拳を握り込んで遠慮無く牙を剥き出しにした。
「それはこっちの台詞だクソジジイ! テメェのくだらん計画とやらで死ななくてもいい人間が大勢死んでいったんだぞ!!!」
「知るか! 儂はな、リンとの子が得られればそれで良かったのよ。 その過程で世界がどうなろうと馬鹿共が何人死のうと知ったことではないわ!!!」
「……首領の子だと?」
返答次第ではこのまま斬り殺そうかと思っていた矢先、狂乱する鰐淵翁が放った思いもがけない言葉に雪兎は大いに戸惑いながら問いかける。
対する鰐淵翁は雪兎の反応から一瞬バツの悪そうな顔をするも、今さら隠し通したところで得など何も無いと考えたのか、深いため息をついた後に静々と口を動かし始めた。
「うすうす分かっていたと思うが、アイツは生まれながらにしてただの人間ではない。 人の代わりにあらゆる労働を担い、時に雑多な銃と刃を握らされ、死ぬまで弾除けにされ続ける老いることのない合成人間。 それがアイツの……リンの呪われた生まれだった……」
がっくりと椅子に腰を下ろし、どこか遠くを見つめながら鰐淵翁は語る。
そこには普段見せる油断のならない狡猾な老人の姿はなく、くびれ果てた老人がただ一人昔を懐かしみながら笑うばかり。
「だがアイツは……地獄のような環境に身を置きながらも、決して諦めずに幾度も降りかかる理不尽な試練に立ち向かい続けた。 そんなアイツの気高く美しい横顔に、当時の若かった儂は惚れたのよ。 だから儂は高い金を払ってリンを身請けした後、あらゆる手段を使って普通の人間として生きていけるよう万事を尽くした。 人権も財産も知識も、あらゆるものが人間と等しく得られるように。 だがな……どうしても……子供を作らせることだけは出来なかったのだ……」
頭を抱えて哀しげに、自分の無力さを憎むかのように言葉を振り絞る鰐淵翁。
だが、子という言葉を一度発したのを境にその言葉は次第に熱を帯び始める。
鰐淵翁が首領以外に誰にも見せることのなかった激情の気配を。
「製造元曰く、並みの人類を軽く越える存在に安易に繁殖されては困ると。 たったそれだけの理由であいつは生まれながらに子を成せない運命にあった。 こんな理不尽なことがあるか? 散々地獄を這いずり回らせておいて子孫を遺す権利もないと、こんな惨い仕打ちは他にあるまい!」
骨と皮だけが目立つ脆い手で必死に拳を握りつつ、鰐淵翁は年甲斐もなく顔を真っ赤にして怒りを露わにする。
大の大人が奇声を発しながら感情を露わにする様はみっともない事この上ないが、雪兎はただ黙って眼前で怒り狂う老人の言葉を聞いてやっていた。
気合いを入れる余りにヒューヒューと息を切らし、脂汗を流す姿は痛々しいと思う以上に最早哀れで、それを見せ付けられた雪兎の心中に最早殺意が芽生える余裕は無かった。
『旦那様……』
興奮しすぎた主人の姿を見かねたのか、今まで沈黙を守っていたシュトが横から思わず肩を貸してやっと鰐淵翁の興奮が収まる。
だが、それで鰐淵翁の零す言葉が止まることはなく、くたびれた老人の口からは淡々と過去が語られ続ける。
「だがな、ある日転機が訪れたのだ。 意味も無く自身を上位者であると奢り昂ぶる金持ちの遊びにつき合わされた時にな」
「金持ちの遊びだと?」
以前目撃した惨たらしい地獄の様子を思い出したのか、雪兎の表情が再び険しくなるも鰐淵翁は構わず雪兎に語りかける。
「小僧、お前は神や悪魔の存在を信じるか?」
「神とやらは哀華さんを無惨に死なせた。 だから僕はそんなふざけた傍観者の存在なんて信じない」
「ああそうだろうな、儂もその日が訪れるまではそう信じていた。 馬鹿共が悪魔崇拝ごっこで自分達でも数え切れない程の赤ん坊を磨り潰して儀式の真似事を始めるまでは」
「何だと? まさかテメェまで……」
「勘違いするな、儂はただ馬鹿共の遊びにいきなり巻き込まれただけだ。 事前に仔細を知っていればリンを先んじて送って連中を皆殺しにしていただろうよ」
思わせぶりな言葉に戸惑うも束の間、先の経験から鰐淵翁のビジネスパートナーが何をやっていたのかを察して雪兎は激烈な憎悪を示す。
しかし対する老人は鬱陶しいとばかり手をひらひらと振ると、心底不満そうにため息を吐いた。
「金と権力、そして情報と武力を握った人間が最後に考えることといえば不死の他あるまい。 事実、儂がビジネス上関わりを持った寄生虫共はそういう奴等ばかりだった。 連中はメディアを使って衆愚を操り、世間から金や薬や若い血肉をせびり続け、最終的にはオカルトに縋る醜態まで見せてくれたよ。 ……だがな、そのみっともない悪あがきが思わぬ奇跡を生んだのだ」
「奇跡だと? まさかそのくだらんオカルトごっこで本当に神を呼んだとでも……」
あまりに突飛で滑稽な話に、雪兎は思わず鰐淵翁を半分鼻で笑いながら茶々を入れる。
しかしアルフレドから授かった力の断片から冗談を言っていないことを理解すると、雪兎は思わず真顔になって問うた。
「馬鹿らしいな、本当にそんなことがありえたとでもほざくつもりか?」
「さぁどうだか……。 あの日儂の前に現れたよく分からない何かが本当に神であったのかなど今となっては誰にも分からん。 辛うじて覚えていることと言えば、儂だけが祝福という不死の呪いを受けて生き延びたこと。 そして有機物でも無機物でもない謎の物体を授けられた事実だけ。 気が付いた時、儂は大枚を叩いてその物体の調査を行っていた。 そして確信したのだ、これさえあれば何だろうと叶えられる! いつかは“神すらをも創れる”のだとな!」
身体を支えてくれていたシュトの腕を乱暴に振り払いつつ、鰐淵翁は身体中を掻き毟りながら過去を語り続ける。
そして最後に吐かれた言葉が雪兎の鼓膜を揺らした瞬間、雪兎の脳裏に首領がリンボで語ってくれた言葉がよぎった。
「神だと? まさか……まさかアンタが……」
「そう、人在らざる知性の皆を、グロウチウムを、蠱毒に参加した連中に寄生させた害獣モドキを、そして世界樹を創らせたのはこの儂だ。 だがなぁ、そんなモンは今さらどうだっていい。 そんなもんは儂が本当に造りたかったものを体よく造らせる為の戯れ言に過ぎんのだよ!」
動揺する雪兎を尻目に鰐淵翁が合図を出し、ジョンに格納庫から引っ張り出させたのはジョンとはまた別の漆黒の稲妻を動力に脈動する謎の巨大な肉塊。
それを背にして鰐淵翁は狂気の笑みを浮かべ、小躍りしながら叫び散らす。
「見ろ! これがアイツの腹に収まるはずだった子宮! 儂とアイツの子を成せる奇跡の器! アイツと儂の細胞が今も眠るゆりかごだ! これさえあればアイツと儂の子が作れる! 既に100と少しの歳を経たが、あと云十年云百年待てば生まれるはずなのだ!」
「……爺さん」
みっともなく破顔しけたたましく笑い続ける老人を前に、雪兎はもう怒ることさえも出来ずただただ哀しげな視線を返すことしか出来ない。
たった一人の女の為に全てを敵にして狂気に身を任せる。
ずっと昔に自分と同じ選択をした男のことを雪兎は憎み続けることが出来ず、深いため息を吐いて最後まで向けていた警戒の意思すら解いた。
暫しの間、老人の笑い声だけが暗闇の中に響き続ける。
その十数秒後、鰐淵翁は疲れ果てたようにその場にへたり込むと、愛飲していた葉巻を懐から抜き出し火を付けた。
甘いバニラのような薫りが暗がりに立ち籠め、老人の疲れた顔を温かみのある小さな明かりがぼんやりと照らす。
「だが、もうリンはこの世の者ではない。 これから先、本当に生まれるかも分からない子供だけを頼りにたった一人で生きていくことなど耐えられん。 だからな雪兎、儂はこれから全ての騒乱の責任を取ってこの星から消えて無くなる。 文字通り跡形残らずな」
「……何だと?」
途轍もなく不穏な言葉を鰐淵翁が呟いたのを察知し、雪兎だけでなくカルマ、グレイス、ジョンも皆揃って一斉に飛び退いた。
その場に残されたのは体内に自らリンボに繋がる裂け目を開いた鰐淵翁と、主に付き従うシュトの二人だけ。
『シュト!?』
『駄目だカルマ! もう間に合わない!』
咄嗟に同胞を救わんと端子を射出しようとしたカルマをグレイスは急いで制止し、地面を踏み締めた雪兎の背中に全力で抱きついて顔を伏せる。
刹那、鰐淵翁を中心に極光が迸り、大きく膨張した大気が鰐淵翁が長らく潜伏していた地下空間を易々と吹き飛ばした。
古びた機材や腐れた臓器が浮かぶ培養槽も瞬時に吹き飛ばされ、鰐淵翁が長い人生を賭けて貯め込んだ貴重なデータや歴史的資料が文字通り塵となって土に還る。
しかしそういった破滅的な災害が場を支配したのも束の間、リンボへ繋がる裂け目が自然に閉じて超局地的嵐が止むと、そこには半壊した人造子宮とシュトだけが無傷で残されていた。
『馬鹿な、いくら粒子化出来る君でもまともに裂け目に巻き込まれては無事では済まないはず』
『裂け目が完全に開く寸前、旦那様がアドミン権限を利用して私に退避を強要したのです。 何故かと問われれば私が一番問い質したいですよ。 ……私の大切な旦那様、どうして私だけを置いていってしまったのです?』
グレイスの問いかけに対して、まるであたるかのようにシュトは彼女にしては強い語調で返す。
主と一緒にこの地上から消えることを内心望んでいたのか、今まで鉄面皮を貫いていたメイドの顔はこの場の誰も見たこともないほど悲しみに歪んでいた。
鰐淵翁の思惑など誰にも分かるはずもなく誰もがただ沈黙を守る中、半壊した人造子宮の隙間から突然大きな泣き声が響いた。
おぎゃあほぎゃあと庇護を求める訴えが薄暗い空間に響き渡る。
「まさか……」
何が起こったのかを察した雪兎が誰よりも早く崩れ落ちた肉塊に駆け寄って慎重にそれを切り開くと、その中には胎盤状の肉の塊とへその緒状の管で繋がった小さな赤ん坊が、小さな手足を必死にばたつかせて泣き叫んでいた。
ばちゃばちゃと手足が生理食塩水と血に混じった液体を叩く度に、雪兎の服に朱い染みを浮かせる。
『どうして……どうして今さらになってこんな……』
「そんなことは誰にも分からないさ。 分かっているのは爺さんと首領の夢が叶ったってことだけだよ」
何故もっと早く生まれてくれなかったのかとシュトが嘆くのを横目に、雪兎は以前分娩の補助として哀華に無理矢理駆り出された時に習ったことを実践し、赤ん坊を人造子宮から取り出すことに成功する。
「シュト、この子は貴女が命を賭けて護るんだ。 最後まであの爺さんのそばにいた貴女がそうするべきなんだ」
取り出した赤ん坊にカルマと共に急いで適切な処置を施した後、雪兎はグロウチウムの柔らかい布で包まれた赤ん坊をゆっくりと抱き上げ、慎重にシュトへ手渡す。
赤ん坊を抱き上げること自体が初めてなのか、必要以上に力んだ姿勢を見せるシュト。
その傍らに、今まで人造子宮の電源として機能していた漆黒の稲妻を吸収し終えたジョンが近づくと、いつものように快活に笑う。
『お前さんがここに残されたのは恐らくこのためなんだろう。 確証なんて無いが、そう思った方が楽な気持ちで生きていけるさ』
軽く背を叩いて励ましてくるジョンに対してシュトは軽く目配せをして応えると、適切な薬液を投与されて眠りに落ちていった赤ん坊へ慈愛に満ちた視線を向けながら顔を寄せる。
『そうですね……きっと……』
小さく寝息を立て始めた赤ん坊の柔らかな頬を指先で撫でながら、シュトは情操システムの中で新たに芽生えた生きる意味を噛み締めるように感慨深く呟き、微笑む。
そんな彼女に対し雪兎は軽く笑って頷いて見せた後、自身は赤ん坊から背を背けて夕焼け色の光に満ちた空間に向かって歩き始める。
『ちょっと! どこに行かれるのです?』
「……分からない、この先どうするべきなのかも僕にも分からないんだ」
慌てて主の背中を追いかけて来たカルマとグレイスにすら目もくれず雪兎はただ重苦しい雰囲気を醸しつつ、心中複雑な思いのまま荒れ果てた街に足を踏み入れていった。
新たにこの世へ生を受けた命の無垢な輝きから、見苦しく逃げ出すように。
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