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第一章
前日譚(1)-4
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露珠の怪我から数日。
風は冷たいが日差しが温かい日で、露珠は障子を開けて部屋から日の当たる庭を見ていた。
罠があった庭の端は、部屋からは見えない。罠は屋敷のある周りの山に設置されていたものを回収し、処分するはずが適当においておいたものに、運悪く露珠がかかってしまったものらしい。あんな庭の端まで、まさか凍牙の妻が行くとは思うはずもない。事態を知らされ顔面蒼白だったという使用人の助命を請うたのは露珠だった。
凍牙の妻としてふさわしいとはいえない庭遊びに、逃走を疑われかねない状況。自分の落ち度が大きすぎたこともあり、少し怠惰だっただけの使用人が命まで奪われるのは露珠の望むところではなかった。
しかし、使用人の処遇に口を出すのも越権行為の自覚があった露珠は、怪我をしてからの日々は、今までより一層、凍牙や屋敷の者の意向に逆らわぬよう、おとなしく過ごしていた。
ここ数日、露珠の食事や行動を凍牙が事細かく使用人に指図しているのを知っている。怪我のせいで動きにくいのもあるが、それ以上に、露珠はできるだけ部屋から出ずに過ごすようにしていた。
開けていた障子に影が映る。廊下から部屋をのぞいた凍牙は、部屋で寄掛りにもたれながら庭を眺める露珠が、片足を少し横にずらしているのを見て、声をかける。
「変化を解いてはどうだ。治りも多少早くなるだろう」
凍牙の勧めに、露珠は戸惑う。鬼はそもそも人型で、本性が大蛇の影見も夫や息子に合わせて常に人型を取っている。屋敷内は使用人も含めて全て人型で生活しているのに、ここで変化を解くのは憚られる。
露珠が迷っていると、父と母に会うときだけその姿に戻ればよいから、となおも勧められる。確かに、人型を維持するのに微力ではあるが妖力を使う。変化を解けば、その分の妖力を傷の回復にあてることはできるだろう。そこまで考えて、怪我をしてから夜に凍牙が部屋を訪れることがなかったと思い至る。怪我など気にせず好きにしてもらって構わないのに、と思いつつも、怪我に気を遣ってくれているのなら、できるだけ早く治せるようにするのは、露珠の務めだと思いなおした。
初めは逡巡した様子の露珠が、凍牙の再三の勧めに折れて、狐の姿に戻る。包帯を巻かれた怪我が、後ろ足の広範囲にわたることが良く見えて、凍牙が少し眉をひそめる。片足を持ち上げたままひょこひょこと歩く様子は痛々しいが、人型でいるときよりも余程動きやすそうだ。
呼ぶと近くまで来たのを、前足の付け根に手をいれてぶら下げるように持ち上げると、わたわたと後ろ足をばたつかせる。常の露珠にはない表現が面白くなり、更に顔近くまで持ち上げる。すると、凍牙が下ろすつもりがないのを感じたのか、ばたばたと抵抗するのをやめ、少しの緊張を感じさせる姿勢のままぴたりと固まる。
凍牙を伺うような上目遣いと少し後ろに伏せられた耳を見て、いつになく感情がそのまま見えているのがかわいらしく思えて、怪我に触らぬように抱きかかえ、縁側に腰を下ろした。
胡坐をかく凍牙に抱きかかえられた露珠は、どうしたものかとちらちらと凍牙を伺う。会話ができないため、問いかけることもできない露珠が、腕のなかでそわそわしているのが感じられて、凍牙がため息のように笑いを漏らす。
胡坐の中に露珠を下ろして、その背を撫でてやる。
「少しここで寝ていろ」
丸めたときの身体にぴったり合う感覚は心地よいが、場所が場所だけに気まずい。丸まりながらも少し顔を上げて凍牙の様子を伺うと、手のひらが降りてきて耳の後ろや首筋を撫でられる。場所も手つきも気持ちがよくて、首を伸ばしてその場に落ち着いてしまった。
胡坐の中にすっぽりと納まっている露珠が、くあっと小さくあくびをしたのをみて、凍牙は満ち足りた気持ちを感じる。本人は無意識であろうそのしぐさは、人型をとっている時には決して凍牙に見せないものだ。
呼吸の度に身体が膨らむ律動に合わせて撫でてやる。
露珠がここへ来て暫く経つが、未だ凍牙や屋敷のものへの怯えを見せるのを少々不満に思っていた。しかし、手元の白銀の手触りに、かつて狩り、身にまとった銀露の毛皮を思い出した凍牙は、それも仕方のないことか、と思い直す。あの毛皮の持ち主は、露珠の知己だっただろうか。
たとえ全く知らない相手であっても、露珠は悲しんだのだろう。凍牙は、己に一族の安寧を願った少女の姿を思い出していた。
風は冷たいが日差しが温かい日で、露珠は障子を開けて部屋から日の当たる庭を見ていた。
罠があった庭の端は、部屋からは見えない。罠は屋敷のある周りの山に設置されていたものを回収し、処分するはずが適当においておいたものに、運悪く露珠がかかってしまったものらしい。あんな庭の端まで、まさか凍牙の妻が行くとは思うはずもない。事態を知らされ顔面蒼白だったという使用人の助命を請うたのは露珠だった。
凍牙の妻としてふさわしいとはいえない庭遊びに、逃走を疑われかねない状況。自分の落ち度が大きすぎたこともあり、少し怠惰だっただけの使用人が命まで奪われるのは露珠の望むところではなかった。
しかし、使用人の処遇に口を出すのも越権行為の自覚があった露珠は、怪我をしてからの日々は、今までより一層、凍牙や屋敷の者の意向に逆らわぬよう、おとなしく過ごしていた。
ここ数日、露珠の食事や行動を凍牙が事細かく使用人に指図しているのを知っている。怪我のせいで動きにくいのもあるが、それ以上に、露珠はできるだけ部屋から出ずに過ごすようにしていた。
開けていた障子に影が映る。廊下から部屋をのぞいた凍牙は、部屋で寄掛りにもたれながら庭を眺める露珠が、片足を少し横にずらしているのを見て、声をかける。
「変化を解いてはどうだ。治りも多少早くなるだろう」
凍牙の勧めに、露珠は戸惑う。鬼はそもそも人型で、本性が大蛇の影見も夫や息子に合わせて常に人型を取っている。屋敷内は使用人も含めて全て人型で生活しているのに、ここで変化を解くのは憚られる。
露珠が迷っていると、父と母に会うときだけその姿に戻ればよいから、となおも勧められる。確かに、人型を維持するのに微力ではあるが妖力を使う。変化を解けば、その分の妖力を傷の回復にあてることはできるだろう。そこまで考えて、怪我をしてから夜に凍牙が部屋を訪れることがなかったと思い至る。怪我など気にせず好きにしてもらって構わないのに、と思いつつも、怪我に気を遣ってくれているのなら、できるだけ早く治せるようにするのは、露珠の務めだと思いなおした。
初めは逡巡した様子の露珠が、凍牙の再三の勧めに折れて、狐の姿に戻る。包帯を巻かれた怪我が、後ろ足の広範囲にわたることが良く見えて、凍牙が少し眉をひそめる。片足を持ち上げたままひょこひょこと歩く様子は痛々しいが、人型でいるときよりも余程動きやすそうだ。
呼ぶと近くまで来たのを、前足の付け根に手をいれてぶら下げるように持ち上げると、わたわたと後ろ足をばたつかせる。常の露珠にはない表現が面白くなり、更に顔近くまで持ち上げる。すると、凍牙が下ろすつもりがないのを感じたのか、ばたばたと抵抗するのをやめ、少しの緊張を感じさせる姿勢のままぴたりと固まる。
凍牙を伺うような上目遣いと少し後ろに伏せられた耳を見て、いつになく感情がそのまま見えているのがかわいらしく思えて、怪我に触らぬように抱きかかえ、縁側に腰を下ろした。
胡坐をかく凍牙に抱きかかえられた露珠は、どうしたものかとちらちらと凍牙を伺う。会話ができないため、問いかけることもできない露珠が、腕のなかでそわそわしているのが感じられて、凍牙がため息のように笑いを漏らす。
胡坐の中に露珠を下ろして、その背を撫でてやる。
「少しここで寝ていろ」
丸めたときの身体にぴったり合う感覚は心地よいが、場所が場所だけに気まずい。丸まりながらも少し顔を上げて凍牙の様子を伺うと、手のひらが降りてきて耳の後ろや首筋を撫でられる。場所も手つきも気持ちがよくて、首を伸ばしてその場に落ち着いてしまった。
胡坐の中にすっぽりと納まっている露珠が、くあっと小さくあくびをしたのをみて、凍牙は満ち足りた気持ちを感じる。本人は無意識であろうそのしぐさは、人型をとっている時には決して凍牙に見せないものだ。
呼吸の度に身体が膨らむ律動に合わせて撫でてやる。
露珠がここへ来て暫く経つが、未だ凍牙や屋敷のものへの怯えを見せるのを少々不満に思っていた。しかし、手元の白銀の手触りに、かつて狩り、身にまとった銀露の毛皮を思い出した凍牙は、それも仕方のないことか、と思い直す。あの毛皮の持ち主は、露珠の知己だっただろうか。
たとえ全く知らない相手であっても、露珠は悲しんだのだろう。凍牙は、己に一族の安寧を願った少女の姿を思い出していた。
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