彼女は蜘蛛

うたた寝

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彼女は蜘蛛

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 彼女は蜘蛛だと思う。
 掴んだ獲物を糸に絡めて離さない。
 違う点があるとすれば、捕食はしないところ。
 糸に絡まった獲物を見て、巣の中心で笑っている。そんな感じ。
 巣の中心には花がある。とても綺麗な花だ。
 その花目掛けてたくさんの蝶が飛んで行く。
 しかし、蝶たちは気付かない。その花の周りには無数の蜘蛛の糸があることを。
 花に向かって飛んで行けば、当然糸に引っ掛かる。
 糸に引っ掛かっても蜘蛛は捕食をしない。
 引っ掛かった蝶を楽しそうに眺めているだけ。
 蜘蛛の糸の粘着力はそれほど強くない。
 すぐには無理でも、蝶は一本一本、蜘蛛の糸を解いていく。
 やがて全ての糸を解け終え、飛び立って行く。
 その花は諦め、別の花へと向かっていく。
 別の花に触れる寸前。身動きが取れなくなる。
 そこでやっと気付く。糸がまだ解けていなかったことに。
 付いていた糸に手繰り寄せられるように、蝶は再び元の花の所へと戻される。
 しかし、それだけ。蜘蛛は蝶を食べようとはしない。
 相変わらず、絡まった蝶を、ただ楽しそうに眺めているだけ。
 気付くと、辺りには他の蝶も居る。
 同じように糸に絡まっている者も居れば、糸の周りを飛んでいる蝶も居る。
 自由が無いわけではない。自由はある。
 しかしそれは、別の花に触れない範囲内において。
 その花に触れることは許されない。その花の蜜は吸えない。
 一方で、他の花に触れることも許されない。他の花の蜜も吸えない。
 踏み込んだが最後、もう何の花の蜜も吸えなくなる。
 一度その糸に絡まってしまった蝶にできることは二択。
 花の蜜を吸おうとして、何度も糸に絡めとられるか。
 花の蜜は諦めて、飛び続けるか。
 気付かない間に僕は、その糸に掛かってしまっていた。


 僕は彼女のことが好きだった。
 席が隣同士だったのがきっかけではあるが、僕は女子とそれほど積極的に話せるタイプでも無かった。
 そんな中、彼女の方から僕に積極的に話し掛けてきてくれた。距離感をそれほど気にしないのか、話す時の顔の距離も近く、体を触れてくる回数も多かった。
 思えばあの時、彼女が浮かべていた意味深な笑みの正体に気付くべきだったんだと思う。
 だけど、この時の僕は、生まれて初めてこれほど近い距離感で女子と話す、ということにドギマギしてしまって、それどころではなかった。
 息が触れるほどに近い顔に、体温を感じるほど触れてくる手。嫌でも意識させられる女子らしさに女子慣れしていない僕はそう長くは持たなかった。
 顔を近付けられると心臓の鼓動が早くなる。触れられると彼女の手よりも体が熱くなる。僕は彼女のことが好きだ。そう自覚するのにそんなに時間は掛からなかった。
 寝ても覚めても、彼女のことが頭から離れなかった。
 部屋に一人で居る時も、瞼を閉じればすぐそこに彼女の顔があるかのような気さえした。彼女に触れられた箇所に彼女の体温が残っているような気さえした。幻想とも妄想とも言い難いそれらのものに縋るようにして自分を慰めたりもした。
 彼女が僕の心の中奥深くに入り込んでいた。
 覗き込む彼女の目が僕の心の中を見ているような気がした。触れてくる手が僕の心を掴んでいるような気がした。彼女の吐く息が僕に当たり、僕がその息を吸う度に僕の中が彼女で満たされていくような気がした。
 異常とも思えるほど僕は彼女に夢中だった。
 他人を決して入れてはいけない、心の中にある絶対的にプライベートな空間さえ、彼女に明け渡してしまったような気がした。
 この時僕は既に彼女のモノになってしまっていたのだろう。
 あの子は止めておいた方がいい。そうとある女子に忠告されたことがある。
 今考えれば、僕は素直にこの忠告を聞いておくべきだったんだと思う。
 だけど、この時の僕は、彼女に深く毒されていた。
 モテない女子の僻み。そんな風にしかこの忠告を聞けなかった。
 彼女ともっと一緒に居たい。学校に居る間の時間だけじゃ足りない。彼女を求める気持ちが日に日に強くなり、彼女と一線を越えた関係になりたくて、僕は遂に行動に出た。
 僕は彼女に告白をした。
 人を好きになったことはこれが初めてではない。だけど、どの恋も告白までは踏み切れず、過ぎていくのを眺めていくだけの恋だった。
 だから、それは人生初めての告白だった。
 どこかで、OKを貰えると高を括っていたんだと思う。あれだけ仲良く話していたのだから、きっとOKを貰えるのだろうと。
 けど、結果はNOだった。非情にも、あっさりと、彼女は僕のことをフった。
 フラれた後、僕は気丈に振舞ったような気もするし、その場で泣いたような気もする。フラれたことを一瞬理解できずに現実逃避したような気もする。
 告白以来、彼女が僕に話し掛けてくることは無くなった。
 告白をフって気まずくなったからだと、僕はそんな風に都合良く考えていた。
 だけど、本当は違う。今なら分かる。告白してきた段階で、僕は用済みになったのだ。
 自分のことを好きな男子を、コレクションを一つ増やしたかっただけ。僕に彼女のことを好きにならせ、僕に告白をさせたくて、僕にちょっかいを出してきていただけ。
 彼女にとってはただの遊び。如何に男子に自分のことを好きにならせるか、如何に自分に告白して来るよう仕向けるか。告白してくればその男子との遊びは終わり、また別の男子との遊びを始める。
 席が隣と遊びやすい位置に居て、なおかつ明らかに女子慣れしていない、いわば、落としやすそうだった僕は格好のカモだったのだろう。
 今なら分かるこんな単純なことも、あの時の僕は気付けなかった。彼女にフラれたショックでしばらく学校にも行けなかった。
 僕が学校に行けなかった間も、彼女は何事も無かったかのように学校に来ていた。そのことがどこか腹立たしかった。彼女と楽しそうに話している男子を見ると嫉妬に狂った。
 僕は、フラれてもなお、彼女のことが好きでたまらなかった。


 クラス替えを行い、彼女とは別のクラスになった。距離を置けたおかげか、時間が経過したおかげか、僕の彼女のことを好きな気持ちは少し落ち着いてきてはいた。それでも、僕は彼女のことが未だに好きだった。
 未練がましい。確かにその通り。否定はできない。だけどそれくらい僕は彼女のことが好きだった。
 初めて告白した女子。そして初めてフラれた女子。
 忘れることが中々できず、気付けばいつも彼女の姿を探していた。
 見かける度に、彼女は別の男子と楽しそうに話していた。
 前ほど嫉妬に狂わなくはなったが、それでも気分のいい光景では無かった。
 その光景が少しずつ、ただの景色として眺められるようになってきたのは、僕に気になる人が新しくできたからかもしれない。
 たまたま委員が一緒になり、話す機会が増えた女子。向こうからすれば委員会が始まるまでの時間潰し程度の感覚で僕に話し掛けてくれていることは分かったが、相変わらず女子慣れしていない、僕のたどたどしい話を頷きながら聞いてくれ、笑ってくれるその子に、僕は惹かれ始めていた。
 女子と話すだけで好きになるちょろい男、と言われても否定はできない。女子と話す機会が希少だから、話し掛けてきてくれる女子に好感を抱くのは確かだった。その僕のちょろさを差し引いても、その女子と会話する時間は楽しみだった。恋愛感情を一度抜きにしたとしても、その女子との会話は純粋に楽しかった。
 友人としての関係のままでも楽しいとは思った。一歩進んだ関係になってみたいとも思った。言ってしまえば、好きになりかけている状態、だったのかもしれない。僕の気持ちの持ちようで、あるいは何か一個でもきっかけがあれば、恋愛へと転びそうな、友情と恋愛の境界線の上に立っているかのような感覚だった。
 異性との友情は成立しない。これには様々な議論がなされているだろうが、当事者になった僕には少し気持ちが分かった。友情の好きと捉えるか、異性としての好きと捉えるか、多分各々の気持ちの持ちようなのだろう。だから、成立できない人も中には居るのだろう。
 僕も、どこかでこの気持ちをどっちに割り切るのか、決めなければいけないのだろう。
 新しい次への恋へと進もうとしているからか、そのきっかけを貰ったからか、段々彼女との恋は過去のものに思えてきた。それによって段々、彼女と男子の会話を客観的に見れるようになってきた。
 当事者だった時は気付きもしなかったが、彼女は相手の顔を覗き込む時も、相手の体に触れる時も、逐一相手の反応を窺っている。相手が一番喜ぶ仕草を見つけ、それを繰り返す。相手を徐々に自分の物へと染めていき、染め切ったところで興味を無くし、次の相手へと乗り換える。
 一連の流れを見ていて、段々彼女の遊びに気付き始めた。
 彼女が同性から異様に嫌われている噂は聞いていた。グループ分けの時、女子のチームに入れてもらえず、男子のグループに入っていたことも覚えている。
 モテる彼女をひがんでのものかと思っていたが、恐らく違う。あれは、同性ゆえに彼女の遊びに気付いていたのだろう。中には、自分の好きな人を遊びで奪われた女子も居たのかもしれない。
 思えば、彼女は確かにモテる。だが、彼氏が居るなどの話は聞いたことがない。人の彼氏を盗った、なんて話も聞いたことがあり、少し学校内で大事になったこともあったが、盗った、にしては、彼女がその盗ったと主張する彼氏とは交際をしていなかったため、それ以上の追及はできなかったのだろう。
 既に恋人が居る男子さえ、彼女は自分のことを好きにさせる。好きにさせておいて、交際はしない。しないどころか、好きにさせてしまえば、後は用無しという感じで見向きもしない。
 あの子は止めておいた方がいい。あの時の忠告の意味がこの時になってようやく分かって来た。
 彼女が一番の笑みを浮かべる時は、自分を好きになった男をフる時だった。
 それを見て寒気を覚えると同時に、そんな彼女の笑みさえも愛おしく思ってしまう自分が居ることが恐怖だった。一度好きにさせられた彼女の毒が、まだ僕の心の中に微量なれど残っているかのようだった。


 早く忘れよう。そう思った。彼女の本性に気付き始めていたから。
 新しい恋が始まろうとしている今であれば、そのまま彼女のことを忘れられる。
 そういう意味ではいいきっかけになったのかもしれない。友人として付き合っていきたいのか、異性として特別な交流を持ちたいのか。それを決めるきっかけになった。
 今日も委員会がある。女子と会えるのが楽しみで委員会の集まり場である教室で待っていると、ドアが開いた。相手も確認せず、女子が入って来たと思った僕は笑顔で入り口の方を見て、そして固まった。

「久しぶり~」

 彼女が笑顔で手を振りながら教室に入って来た。
 その笑顔を見て、心の中の何かが揺らいだのが分かった。
 直感的にヤバいと思い、僕はすぐに目を逸らした。

「え~? 何で目を逸らすのさ~?」

 笑いながら彼女は近付いてくる。彼女の甘い声が耳に入り、脳を揺らしてくる。乗り物酔いのような気持ち悪ささえ不意に襲ってくる。
 何かは分からない。何かは分からないが、このままだと僕は何かを失うような気がした。
 僕はすぐに席を立って教室を後にしようとしたが、それを阻止するように彼女の手が僕の背に触れた。
 背中に触れる彼女の懐かしい体温が心の奥深くまで染み込んでくるようだった。
 一度明け渡してしまった、心の絶対的にプライベートな部分。そこの鍵を一度渡してしまった僕は、彼女がその鍵を使って無遠慮に入り込んでくるのを拒否できない。
 プライベートにしてデリケートな部分。そこを力任せに鷲掴みにされたような、息さえ忘れるほどの痛みが胸に走る。
 何かが上書きされていく。僕の中で芽生えようとしていた、何か大切だったと思える何が塗り潰されていく。
 背後に居る彼女の顔は僕には見えない。
 けど、きっと、彼女は一番の笑みを浮かべている。
 人が自分を好きになる瞬間。その瞬間こそ彼女の大好物なのだから。
 彼女は僕の背から手を離すと、去り際に僕の耳に息を吹き掛けていく。
 その時、終わろうとしていた叶わない恋がまた始まり、始まろうとしていた新しい恋は、始まることなく終わってしまった。


 彼女は蜘蛛だ。
 一度彼女の巣に掛かってしまうと逃げることはもうできない。
 糸は解けたようには見えても、見えない糸が無数に絡まっている。
 どこか別の花の蜜を吸おうとしようものであれば、吸う直前に巣へと戻される。
 何故、吸う直前まであえて待つのか。吸おうとしていた花の蜜を吸えずにジタバタとして巣の中心へと戻される蝶の様子が彼女にとっては滑稽で笑えるのだろう。
 巣へと連れ戻した後、蝶には興味を無くす。
 蝶たちは巣の目の前にある、吸えもしない綺麗な花を糸に絡まった状態で眺めている。
 花が枯れるか、蝶が枯れるか、どちらかが訪れるまで蝶たちに自由は無い。
 蜘蛛の糸はもう取れない。
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