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生まれて初めてちゃんと母親に感謝したかもしれない日
しおりを挟むピンポーン! と彼の家のインターフォンが鳴った。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
鳴り過ぎた。何? 何の取り立て? どこのヤクザ?
テレワーク中でパソコンをカタカタ弄って遊んでいた彼は手を止めてインターフォンに出ようかちょっと悩んだが、実家暮らしだし母親が出るかな、と放置しようとしたところ、
「出れる~?」
お母様からインターフォンに出れるか? という質問が飛んできた。どうやら母親も何かの作業中らしい。出れるか? と問われれば全然出れるのだが、小さな抵抗として、
「今仕事中~」
と暢気に返してみたところ、お母様の逆鱗に触れたらしく、
「遊んでいるだけでしょうっ!!」
「仕事中って言ったでしょうっ!!」
この母親。どうもテレワークとネットサーフィンの区別が付いていない節がある。まぁ確かに今このタイミングに関していうと、サボってネットサーフィンをしていたが。別にそんな仕事大好き人間というわけでもないので、インターフォンに出るくらい構わないのだが。
椅子から立ってインターフォンを覗いてみると懐かしの顔が映っていたため出るのを止めようかと思ったが、再度ピンポンピンポン! 鳴らしてきたので、近所迷惑なので諦めて出ることにする。
『はい?』
どちら様? と言いたいニュアンスで彼が聞くと、お相手はなんと返事もせずにインターフォンをガンガン叩いてくる。開けろ、ということらしい。なんという傍若無人ぷり。親の顔が見てみたい。
口論するのも面倒なのでドアを開けに玄関へと向かうと、そこにはドドンッ! と姉上が立っていた。ドドンッ! という効果音がずいぶんと似合う体格になったものである。
昔からふくよかな姉ではあったがまー仕事と結婚でストレスでも溜め込んだのか、体がより一層ふくよかに……、
「違うわ」
出会い頭に右ストレートだと? しかも現役のボクサーさえ置き去りにしそうなほどのおそろしく早い右ストレート。俺でなきゃ見逃しちゃうね。
ちなみに、見逃さなかったからと言って避けられるとは言っていない。
ガードしようと上げた彼の腕よりも素早く入り込んだ姉の拳が頬に突き刺さった彼は後方に思いっ切り吹っ飛び壁に激突。ズルズルと床に倒れ込み、返事が無いただの屍に彼がなろうとしていると、そんな彼のことを『邪魔よ』とばかりに跨ぎ玄関へと向かった母親は、
「おかえり~」
「ただいまー」
と、普通に挨拶をしている。今にも屍と化そうとしている息子を無視する母親と、久しぶりにあった弟を秒で屍にしようとする姉。なるほど。この家の人間はロクな人間ではない。
もうこのままふて腐れて屍となって養分になってやろうかとも思ったが、いかん、まだ死ねない、今日は観たいテレビがある、と三途の川の手前で引き返し体と合流する。
死の淵から舞い戻った不死鳥の彼はクラクラする頭を振っている際にふと思い出した。姉の体を見ると肥満でふくよかなのは正直否定しないが、それ以外の理由でお腹が膨らんでいる。
そうか、里帰り出産だったか、と彼は思い出した。
常日頃からなんの罪も無いこんな可愛い弟に日常的に暴力を振るうような姉に結婚なんて絶対できるわけない、と思っていたのだが、意外や意外。姉は結構早くあっさりと結婚した。最近では姉に結婚の心配をされるくらいである。なんと癪であろうか。
しかしこの姉、確かに外面は異様に良かったように思う。姉の学校の先生に『優しいお姉ちゃんでいいね』なんて、どこにそんな姉が居るんだあぁんっ!? と突っかかりたくなる程度には間抜けなことを言われた記憶もある。
きっと姉の旦那さんも姉の外面に騙されて結婚させられてしまったのだろう。立派な結婚詐欺だと思うのでもし今からでも離婚したいと言うのであれば彼は喜んで手を貸そうと思う。同じ女性に虐げられている者同士、仲良く力を合わせなければ、
「ほわちゃー」
「ぶほぉうっ!?」
何か頬に飛んできた、と思ったら姉の足の甲だった。妊娠して出産間際で大きく膨らんでいるあのお腹で上段蹴りだと? この女、化け物かっ! そして人の心を当たり前に読むなっ!!
グルンッ!! と床の上でトリプルアクセルを決めた後、彼は床に倒れ込む。蹴られた瞬間、首だけが回転して死ぬことがないよう、咄嗟に体も一緒に回転させるということを無意識にできるのは日々姉から体罰を受けてきた経験の賜物である。いわゆる、喧嘩慣れしている、ってやつに近いのではないだろうか。
空手家も拍手を送りそうな上段蹴りを決めておいて、事務職で最近運動不足とかほざいているのだからやってられない。一対一なら熊ともやり合えると思うので、熊が出没する地域に行ってボディーガードでもやればいいのだ。きっと姉を怖がって熊も出没しなくなることだろう。
「………………(スッ)」
「………………(サササッ)」
まーた心でも読んだのか、姉が拳を掲げてファイティングポーズで近寄ってきたため、床を素早く這って距離を取る彼。妊婦さんなんだろ、安静にしてろ、安静に。
頭を庇いながらするほふく前進で猛獣から距離を取っていると、
「オムライス作るんだけど、半熟にしない方がいいのよね?」
おい母親。たった今あんたの息子があんたの娘から酷い暴力を受けたというのに何を涼しい顔してオムライスを作ろうとしてるのじゃ。好きだからいいけども。ってか、あれ?
「半熟派じゃなかったっけ?」
「看護師さんから卵は火をしっかり通せ、って怒られてさ」
へー。この姉を怒るとは、ずいぶん命知らずな看護師も居たもんだ。きっと今頃はどこかの海に浮かんで、
「ほわちゃー』
甘いな、二度目は利かん。とばかりに蹴りを腕でガードしたのだがガードした腕がへし折れるんじゃないかってくらい重たい蹴りで結果そのままガードが崩され、姉の蹴りが肩と首の間くらいにめり込み吹っ飛ばされる。
おい、だれかこの妊婦に教えてやれ。命一個生むからって命一個奪っていいということにはならんと。っていうか、意外としっかり母親やっているんだな、なんて遠ざかる意識の中思ったりした。
ラブストーリーは突然に、なんて言葉があるが、大体のことは突然やってくるものである。
それは彼がひたすら話を聞いているだけ、という絶対出なくていいよな、って思っているWEB会議に出ている時であった。イヤホン越しでも分かる大音量で母親から名前を呼ばれた。
何じゃらほい、と思ってイヤホンを外していると彼の部屋のドアがドカーン! と突如開けられ、彼の顔面にヒットする。
「痛いっ!?」
「邪魔よっ! 何でそんな所に居るのよっ!!」
なんて理不尽な母親だ。この女の股から生まれるからああいう姉が生まれるんだ。部屋の配置なんて把握しているだろうし、何よりドアをぶつけたのだから怒るより謝るのが先だと彼なんか思う。
ああ、イケメンの顔に傷が……、とドアを当てられたところを押さえてうずくまっていると、何故かヒートアップする母親。
「何しているのよっ!?」
「どこかの誰かがドアをぶつけてきたので痛くてうずくまっています」
「邪魔くさくうずくまっている暇があるなら準備しなさいっ!」
なんて酷い母親だ。俺じゃなきゃ泣いちゃうね。と彼は誰も労わってくれないから覚えたセルフ痛いの痛いの飛んでけ~、をして痛みを和らげた後、
「して準備とは?」
偉いもんで、日々虐げられてきた彼はこんなことではへこたれない。平常心で本題に入る。
「準備は準備よ早くしなさいっ!!」
おお会話にならない。まぁ基本的にこっちに拒否権など無い(諦めの境地)のは周知の事実なのだろうが、
「私仕事中なのですが? 見ての通り」
「ヒマでしょっ!?」
「今WEB会議しているのが見えませんかっ!?」
「いいから来なさいっ!」
「いぃぃぃやぁぁぁ~~~っっっ!!」
こんなことならカメラONにしとけばよかったな、そうすればこの母親の傍若無人ぶりを世間に知らしめることができたのに。
「ってかいい加減用件くらい聞きたいのですが?」
玄関まで引きずられていく道中彼が聞くと、
「お姉ちゃんが緊急で出産することになったのよっ!!」
「………………ほう?」
予定日よりまだ早い気するが、出産は突然に、というやつだろうか?
で? なぜ私は引きずり出されるのですか? なんて分かりきっている質問彼はしない。
「緊急入院になったから、あんたお姉ちゃんの荷物を病院に運ぶのよっ!!」
でしょうねー。拒否権が無いのにごねても仕方ないので彼は文句も言わずせっせと手伝うことにした。
姪っ子誕生。母親からすると孫誕生。
女が強いこの家系に新しく女が加わったことに若干不安を覚えないでもない彼。嫌だなー、大きくなったらパシられるのかなー。ジャンプしてみろよ、ってジャンプさせられてお小遣い力づくで取られるのかなー。
なんていうことを姉の腕に抱かれて眠っている赤ん坊相手に思ったりする。この時は悪口も言わないし暴力も振るわないしと、人間の一番可愛い時期なんじゃないかって思わないでもない。
「あに達観したようなこと言ってるのよ」
呆れたように言う姉。ちなみに例に漏れず口に出してはいないハズなのだがな。すーぐ人の心読むじゃん。
「抱っこしてみる?」
止めろ。そんな今すぐにでも壊れそうな儚いものをこっちに渡すんじゃない。あんたが持っているだけでも壊れないかって心配してるのに。って渋っている彼の腕に強引に渡してくる姉。おい待て止めろ。これどう持てばいいんだ。持ち方これであってるのか? こえーって。赤ん坊持つのこえーって。
ビビりながら抱っこしている彼の心境などつゆ知らず、姪っ子は大人しく眠っている。流石姉の子供。これくらいでは動じないらしい。
実に最近の若者らしく、出世にも結婚にも興味の無い彼だったのだが、
「………………」
こうやって赤ん坊を見ていると、欲しいな、は別にしても、可愛いな、とは思ったりする。
姪っ子が生まれて数日経った深夜。
そろそろ、だな……。
いい加減タイミングが分かるようになってきた彼が深夜の布団の中で構えていると案の定、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえた。夜泣き、というやつなのだろう。姉が起きてミルクをあげて寝かしつけている様子が浮かぶ。
姪っ子が生まれてからというもののこの繰り返し。直接子育てに絡んでいるわけではないが、部屋が近いので夜泣きの声で彼も起きる。文句を言う気は毛ほどもないが、結構寝不足である。
これを毎日、か……。
自分が赤ん坊だった時の記憶なんて彼には無い。だが、実際に赤ん坊と母親のやり取りを見ていて、自分もこうだったのであろうことは想像に難くない。定期的に深夜に泣いて起き、ミルクを上げて、寝かしつけて、また泣いて、の繰り返し。この部分だけを見ても子育てって大変なんだな、なんてことを実感した。
夜泣きをしている時期が一番大変な時期なのか、これはまだまだ序の口な時期なのか、彼には分からないが、里帰り出産をしている姉を見て、疑似的に親気分を味わうことで、子供、というか、人一人を育てるのって凄い大変なのだな、と思い知った。
当たり前のことだが、赤ん坊は何で泣いているのか教えてくれない。理由が分からない中、あやさなければいけない。姉も母親初心者。右も左も分からない中、オロオロしつつもしっかりお母さんをやって、子供をあやしている。
これ自分にできるのかな、とこっそり自信を無くしこっそり再び結婚願望を失いもしたが、こんなことを二人分やってくれていたんだな、と思い、母親にこっそり感謝もした。
明日労いも兼ねてアイスでも二人分買ってやろうかな、なんて珍しいことを彼は思っていた。
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