思い出

夢永

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美女と野獣

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少女は毎日侮辱されていた。
血は繋がっていない、動きもしない家族を愛していたからであった。

周囲の思想に反抗心が募る一方で、後ろめたさもあった。孤立している自覚はあった。

血の繋がりが無くても、働いてなくても家族が大好きだった。毎日、自分より背丈が小さい家族と共に生涯を終える夢を抱いていた。

夢は崩れた。
現実を見せられた。

負け戦続きの毎日。
少女は吐口を探し、家族へ当たってしまった。自分を信じられず、家族を信じられなかった。

やがて少女は現実を生きる為、ゴミ捨て場に家族を捨てた。帰宅して数分は罪の意識はあった。思い直してゴミ捨て場に戻ると家族は丁度、青い車に乗せられて、彼女から離れて行く所だった。

最後まで無愛想だった。それでも後悔を胸に、少女は青い車を追おうとする。

少女は止まった。
自分を止めた物に気付いた。晴天の下、ゴミ捨て場から三メートル離れた場所で立ち尽くし、俯くと、道路の凸凹を目で辿った。

出入口付近の前庭に当然の如く存在している長方形のオブジェの意図も理解出来ない頭で恐縮だが、知見を広める事と暇潰しを兼ねて美術館に来た。そこでは見知らぬ人と人ならざる物が混在して生きていた。

赤色のタイルを踏み続けて結局記憶に残ったのは、二階の隅にある小さなレストラン。一階にあるレストランとは真逆で人気は無いし色気も無い。しかし趣は確かにある。美術館の白い壁に調和しているノスタルジックでシンプルなレストランに引き込まれた。

大体六畳~八畳程で、内半分程がカウンター兼調理場である。残り半分が、小さな丸テーブル一卓を挟む様に置かれた黒革椅子二脚が、それらを纏めて一席とすると、合計二席がカウンターの形に沿う様、縦に置かれている。

出入り口から見て目前の白い壁から垂直になる様に設置されているカウンターの下が少し空いていて、黒革椅子より二回り、三回り程脚の長いパイプ丸椅子がカウンターの端から端まで置かれている。

パイプ椅子と黒革椅子との距離は三十~四十センチ程しか空いていない。故に客一人一人が気遣いを要する作りになっており、人間の本質を試されている。

パイプ椅子と黒革椅子の背丈も違う為、黒革椅子に座った者は、パイプ椅子に座った者に文字通りの意味で見下される事となる。何方も黒い為、客が自分一人の貸し切り状態であったとしても、威圧感がある。

店員も背丈が高い。白髪を堂々と見せるその男性は熟練の労働者に見えた。恐る恐る注文したトマトパスタとブラックコーヒーを頂戴すると、これが大変美味で、初見、空腹の癖に皿に盛られた麺の量に眉を顰めたが、口に運ぶと輪切りにされた一枚のトマトの酸味とソースの甘味が心地良い、麺の口当たりも良い。朝食を抜いていた為、余計に感情が動いた。フォークの動きを早め、一心不乱に貪る。

次にブラックコーヒーを口に運ぶ。香りは良いが、当然苦い。やや急ぎでおまけの小さなクッキーを齧る。味や食感は普通のクッキーである。

対話が苦手で砂糖も何も頼まなかった為、初見はソーサーに乗せられたクッキーの意味が分からなかった。ブラックコーヒーを飲み、クッキーを齧った事でこのおまけの重要性に気が付いた。これはいつもの間食感覚ではいけないぞと。

考え事をしたり、顔の直ぐ横、右側にある窓ガラスから見える緑を眺めて意識を逸らしながら、この本物の苦味と戦う。

コーヒーは難敵だったが、それでも全体的に満足度の高い時間だった。物静かだが、心配りの上手な店員に拙い礼を言い、最高の空間から去る頃には美術品諸々の事より再びこのレストランへ訪れる夢想ばかりしていた。

付近のトイレで用を足し、ベルトを締めながら出入口から出れば、大きな音が聞こえた。
工事の音とは違う、誰かが何かを壊す音だ。
只事では無い事を理解し、早歩きで音のした方へ向かうと、一階のエントランスホールで一頭の熊が二足歩行で暴れていた。口調は荒っぽく、金髪にリボンを付けている。

背丈が日本人の平均身長程の熊は床の赤色のタイルを剥がし、女性客や職員に投げつけている。明確な殺意がある様だ。

急いで長い階段を降りて、熊に飛びかかると矛先を変えた奴に首根を掴まれた。辺りが擦れる。外の長方形のオブジェに叩き付けられた。

身体の節々に硝子の破片が刺さっても、長方形のオブジェに全身を強打しても、アドレナリンのお陰で痛みはあまり感じなかった。寧ろ一番効いたのは心だった。胸の奥に強い不快感を抱いた。

頭に湿り気を感じたが、意識は接近する熊に向いていた。立ち上がりたいが、喧嘩慣れしていないと、立ち上がり方すら分からなくなる。

熊が胸ぐらを掴んだ瞬間、左腕に刺さった硝子の破片を抜き出し、熊の顔目掛けて何度も振り下ろした。

堅い。同じ生物なのに硝子が皮膚に入らない。それでも振り上げ、振り下ろし、繰り返すと偶然、熊の目に刺さった。

熊は顔を覆い、悲鳴を上げて踠いている。
掴まれた胸ぐらは解放された。逃げる気は無かった。ガラスを握ったまま、空いた胸元を全身で殴打し続けた。

それでも熊は絶対に倒れなかった。

熊の断末魔は静かだった。
結末は何となく分かっていたと、所詮、人間様に勝てる訳が無かったんだと吐き捨て、熊は倒れそうになりながらも中腰の姿勢で立ち尽くし、俯いた。

背中しか見えない為、彼がどんな顔をしているのか分からない。とは言え、自棄になった人間の思わせる諦めだった。

絶望の空気は短かった。
熊は何かを思い出したかの様に顔を上げ、振り返りながら背筋を伸ばし、先程の諦めとは真逆の口調で趣旨を語った。

捨てられた事は憎いが、その後あいつがどうなったかの方が重要だ。

元気でやってるなら何でもいい。家族になってくれてありがとう。もし再会したら、彼女にそう伝えてくれ。

そんな遺言とレコード盤を空に残して熊は消えた。黙って頷き、それらを拾い上げる。エントラスホールへ戻って革製の長椅子に座る。

左手にずっと握っていた手提げバッグから蓄音機を取り出して、戦利品のレコード盤に針を刺す。再生されるゆったりとした曲調で奏でられるピアノに身を任せて、瞼を閉じる。

目の前にはゴミ捨て場があった。
ゴミ袋の中には、まだ使えそうな熊のぬいぐるみが使用済みのティッシュや果物の皮などと混じって詰められていた。

ぬいぐるみは悲壮感を漂わせている。
右手にある十字路の更に右手からゴミ収集車が此方へ曲がって来る。

ゴミ捨て場を通過してほんの少しの所に停止すると運転席と助手席から業者が降りて来て、次々とゴミ袋を収集車の背へ投げる。
一瞬だ。熊のぬいぐるみが俯せになりながら、小刻みに揺れてゴミと共に奥へ消える。

二人の業者はそそくさと運転席と助手席に戻り、青い車と共に左手へ去って行く。
反対の方から少女が走って来た。

泣きそうな顔をして青い車を追っている、と思いきや、ゴミ捨て場を正面から見て、左手に三メートルの所で止まった。

晴天の下、彼女は暫く立ち尽くし、ぽろぽろと雫を落としながら俯いていた。汗なのか涙なのか後ろからでは分からなかった。

彼女は、振り向いてゴミ捨て場を見る。鼻を啜りながら正面まで移動し、再び立ち尽くし、俯いた。

近づいて左手から顔色を伺うと、目を瞑り拝んでいた。赤く腫れた目元と、照る鼻下に気を取られそうになる。

目を逸らして姿勢を正す。
そして隣の彼女と同じ様に目を閉じて拝んだ。

少女は毎日侮辱されていた。
血は繋がっていない、動きもしない家族を愛していたからであった。

周囲の思想に反抗心が募る一方で、後ろめたさもあった。孤立している自覚はあった。

血の繋がりが無くても、働いてなくても家族が大好きだった。毎日、自分より背丈が小さい家族と共に生涯を終える夢を抱いていた。

瞼を開けて、盤から針を離す。
蓄音機と盤をバッグに仕舞い、立ち上がるとコツコツと出入り口へ向かう。

自動ドアを潜ると晴天、時折微風。
緑生い茂る街路樹が揺れている。車は変わらず無機的に走る。

美術館の敷地を後に、付近の歩行者専用道路で青信号を待っていると、横断歩道の向こう側で母娘らしき二人の女性が楽しげに会話している。娘の胸には彼女の身長の半分程はある熊のぬいぐるみが抱かれていた。

眉を顰めながら、天を仰いだ。
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