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怖狩様

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近日、珍しい噂が立っているのを耳にした。数多の怪談が記された本やサイトにも無い怪異の存在。オカルト好きの友人によれば怨霊や怪異の復讐心や気紛れに襲われた罪無き人間が事切れる間際に抱いた怨念が集約して生まれた怨霊であり、名を怖狩様と言うらしい。

怖狩様は怪異や怨霊に襲われている人間を見つけるや否や怪異や怨霊に襲いかかり、持っている刃物で苦痛を与え、その悲鳴を喰らう事を生業としており、場合によっては陵辱する事もあるのだと。

如何にも色情と正義に染まった無才人が考えそうな話に私がどう返答すれば良いのか悩んでいると、染まりやすい友人は自分の思想と重ねて怖狩様の話を一方的に続ける。

怪談に登場する悪霊が仮に可哀想な人間だったとしても被害者の立場を利用し無関係の人間を殺すなど言語道断、怪しからぬ事だ。

ううむ、最適解が見出せない。
共感する所はある。悲劇的な過去があるからと復讐したとしても霊の存在を証明しながら、法に則った裁きを下せる者など現世には存在しない。だから死後の復讐に対して生者がとやかく言えるものでも無いのだが、だから無関係の人間がその鬱憤晴らしの贄にされる事があってはならない。

とは言え、可視化出来ない実質的な虚構に対してそれ程までに憤りを覚える所は真似出来ない。非合理的ではあるが物は試し、友人に虚構なのだから力を抜いて楽しめば良いと歯に衣を着せるが火に油。

拘りがあるのか友人は、仮に虚構だとしても霊や怪異にならば不条理が通ると言うのがどうも納得出来ない。製作者が意思疎通が敵わない恐怖を演出したいのは理解出来るが、初めから分かり合えない存在だと壁を築かれるのが特に苦手らしく、中には良い奴も存在するとか、大団円は希望を持たせて欲しいのだと熱弁する。

意思疎通が叶わない恐怖を感じた私は、絶対に分かり合えない壁を静かに頭の中で築いた。

長時間尻を圧迫し続ける苦痛から逃れられる学校唯一の救済である休み時間は友人の同調の強制によって使い潰され、私が長い緊迫状態から解放されるのは現在から七時間後の放課後だった。

静かな帰り道。
穴の空いた風船の様に少しずつ張り詰めた気を抜き、過剰適応に使ったエネルギーを回復させていく。黄昏の空に一人恍惚としていると自分を呼ぶ声、平常心を取り戻す。

何でもSNSで話題になっている心霊スポットに肝試しと称して全員で居なくなるドッキリを仕掛けたいから、仕掛け人の一人として協力しろと、悪友。流行の何と恐ろしい物か。

碌な事にならない、と言うか、そもそも関わりを避けたい。防衛本能がそう言っている。暫くの問答の末、悪友の我田引水さに根負けした私は潔く拉致される事にした。まさか悪友の誘拐により孤独の自由すら奪われる羽目になるとは。神よ、仏よ、先祖よ、私が一体どんな罪を重ねたと言うのだ。

悪友の連れが運転するシルバーのキャラバンコーチの後部座席で煙草と稽古後の胴着の汗臭の混じった空気を堪能する。

離れ行く住宅街を惜しむ。
何度もせせこましくなりながら歓楽街を抜けて行く。

音響装置の鳥すら眠る深夜。家族旅行の子供の調子で音楽や酒を浴びて疲れ果てた助手席と後部座席の面々。運転手は険しい顔をしながらまだ何処かを走っている。

歓楽街を走っていた頃は耳にしなかった興梠や蛙の鳴き声が、先程の悪友とその仲間達の様に激しくなる。

前照灯と郊外の道路照明灯が一瞬を照らし出す。田、貯水槽、古びた瓦と木造の家、一般的な自動販売機と隣に回収されていない酒類の自販機。ベルトコンベアの様に窓から情報が次々と流れる一瞬の映画に幸福感を得る。

ふと緩やかな勾配と気まずい車内に我を返され、興梠や蛙の鳴き声より貧弱な声色で運転手に話しかける。

疲れてないか。

随分遠いんだな。

火照る身体、滲み出る汗。
恐る恐るルームミラーを覗くと彼は私の目を鏡を介して見る。雄々しい目力に威圧され、左手の窓ガラスに逃げる。自分に話しかけられていると思わなかったのか、返答はない。目を泳がせながら女々しく膝を擦っていると、耳慣れた興梠や蛙の音は縮こまり、今度は目覚めの良さそうな砂利の音が空を支配する。

荒々しい車体の揺れとタイヤの感触の変化に運転手の方へ顔を向けるとフロントガラスには木のトンネルの入口と立ち入り禁止の看板が映っていた。

看板は長年雨風に晒されてかすっかり老朽化しており、追い討ちをかける様に強い力を加えられて飴の様に曲がっている。

運転手が意にも介さず目の前にある看板をタイヤで轢き潰す。先へ進むと、現代日本では珍しい西洋館が建っていた。まるで我々を待っていたかの様に。

全員を二人で叩き起こし、車から下ろす。肝心の主催者である悪友は寝起きで機嫌が悪いのか帰りたがっている。

他の仲間達は先程まで寝ていた事を思わせない興奮ぶりを見せ、甲高い声で騒ぎ立てて集団での自撮りを促したり、館の壁に立ち小便をする者がいたりと相変わらずの自由さを見せてくれる。

それより気になるのは館だ。
この違和感の無さ、恐らく擬洋風建築では無く本物の洋風建築物だ。

柵は歪み、至る所に穴が開いている。庭と森を獣道が繋いでおり、館まで伸びている蔓植物達も所々潰されている。館そのものも外壁や洋瓦が所々剥がれ落ちている。

しかし、そこまで老いて尚この館は優美さを失ってはいない。館は今も生き続けている。長い間、日本の高温多湿な気候に晒されても、館から人気が失われても、この土地に訪れる者に対し、常にこうやって高貴に振る舞い続けて来たのだろう。

私は感服して、西洋漆喰で塗られた外壁に触れ頭を垂れる。

やはり純粋、清美、整然を形にした西洋館は良い。こんな美しい建築物がまだこの時代に残っていると言う事実が胸を熱くさせる。対応しなければならない気候、求められる素材の違い、幾多の問題を抱えたとしても原理主義を、本物の洋風建築を貫いてくれた職人にも頭が上がらない。

柵の外で何やら話が纏まった様だ。庭を飛び出し皆の元まで戻るとドッキリから全員で肝試しをする事に予定が変更したと悪友。皆も館に魅入られたのだろう。

スマートフォンを片手に取っ手を握り、次々侵入していく。魔が刺した私は一人でこっそり帰ってしまおうかとも思ったが、後が怖い。

大人しく扉の元へ向かい取っ手を握るが扉の向こうで何かが動いた気がした。嫌な予感しかしない状況に、本能も引き返せと危険信号を送る。しかし本能よ、人間関係とは抜け駆けを許さない物だ。誰か一人だけ幸せになってしまうのは世界を敵に回す事と同義である。

私は頭の中で本能に言い聞かせる様に反芻した後、勢いよく扉を開けて暗闇に飛び込んだ。

取っ手から手を離すと、直接見ずとも背後の光が次第に閉ざされていくのが分かる。退路が完全に塞がれるまでの僅かな時に後悔しながら、スマートフォンのライトを片手に探索する。

そういえば今気付いたが、この肝試しの達成条件は何なのか。何かしらの物品を漁る事?唯の空き巣か、それは。しかし肝試しの為に無許可で人の家に立ち入っているのだから人の道を外れている事には変わりない。

まぁ、結局の所肝試しなのだから一通り探索して怯えた後、外に出れば良かろう。暗闇の中を虚栄心と小さな光を頼りに進む。

玄関ホールにて壁を伝いながら四隅の一角にシマトネリコが植えられている鉢が乗せてある丸型のテーブルを見つけた。大きく成長して壁にもたれかかりながら天へと聳えている。花言葉にある通り高貴な印象は見受けられるが、今にも力尽き倒れてしまいそうで何処か無理をしている様にも思える。

興味を唆られ土質や体の至る所まで観察する。暫くして私が何故こんなにもこの植物に気を引かれたのかその理由が二つ判明した。
まずこの小さな鉢では今のシマトネリコの重さを支えきれない事、もう一つは根詰まりと館内の湿度の高さから根腐れが起きていた事。

館内に侵入した時から湿っぽさが気になっていた。長い間人の出入りも無く管理が行き届いていない状態が続き、山奥と言う事もあり日光が遮断されやすい土地。そんな場所では大半の植物は弱りやすくなる。まだ死んでいる訳では無いので改善してはやりたいが、大きな植木鉢と綺麗な土が必要だ。

だが外まで持っていくにしても片手にスマートフォンで何とか可視化出来る暗闇の中、天井の半分辺りまで成長した大きな木を片手で、しかも玄関の扉前まで持って行くのは難しい。

明かりさえあれば何とかなるかもしれない。肝試しの達成条件も出来た所で再び探索に入る。

それにしても静かだ。
館内に侵入する前まで騒がしかった悪友達の声が一切聞こえない。怯えるにしても普段からヤバいだのマジだの若者言葉を常用してちゃらける彼らが黙々と肝試しに集中するとは思えない。何も無いと良いが暗闇は恐怖を助長する。緊張感は更に高まり、気を抜くと言う概念を忘れさせる。

単なる床の軋みでさえ大地震を産んでしまいそうな冷気が威圧感や無情さを喉に与える。今お前は守られていない赤子も同然なんだぞ、人間なんか視界を遮られるだけで弱いもんだぞ、館が小さな私を見下す。

光に甘やかされ生きてきた人間が、育まれてもいない自立心を誇示して闇に立ち向かう。人が勇気と呼ぶ物を自然は無謀と呼んでいる。

黄土色のバギーパンツの右太腿におてての感触を感じる。私が視線を向けると、ゴム紐と同等の幅をした百足が私の腰辺りまで侵入していた。

私は間髪入れず悲鳴を上げ、歌舞伎の六方の体勢で手刀を振り下ろすと強姦魔の襲撃の如き速さで捻り寄る悪魔は闇に消え失せた。

六方の動きの反動で今度は露出している首元に何かが飛び乗ったのを認識し無我夢中で首を叩く。落ちて来たのはパーカーの紐、錯乱して跳ね回った反動で首に乗っただけだった。

自分の弱さと愚かさを目の当たりにしてへたり込もうとするが、すぐに百足の事を思い出し姿勢を正す。溜息を吐きながら、靴を鳴らしながら。

化け物の正体見たり枯れ尾花とは言うが、分かっていても身構えてしまうのが生者の性。止めようにも落ち着こうにも、危険信号が鳴り止まない場所で普段の機嫌を保つのは難儀な物だ。

暫くは暗い所で眠れないだろう、きっと豆電球ですら不安を誘う。電気代は嵩むが生命には変えられない。幼児の頃に平気だった物が一度触れ合いから離れるとこうも弱くなる。
継続は力なりの説得力を身を持って思い知らされた。

ハプニングが立て続けに生じた影響で自棄になり、身体の重みを推進力に変えて歩いてみる。音も無く謎の物体が顔面に突撃し、目論みは失敗に終わる。

自分が今どの位置に立っているかを意識せず身体の感触を頼りに探索する事で体力や気力を節約する作戦だったのだが、至る所の壁に幾度も衝突しながら不規則に動き回っていた所為で蝙蝠に鉢合わせてしまった。

こうなると最早気を立てようが緩めようが結果は同じ、どちらかと言えば気を立てていた方が有効に力を使える。蝙蝠の襲撃の際に振り回したスマホのライトで運良く発見した扉を開ける。

奥には厨房が待っていた、随分広い。
学校の家庭科室を思い起こさせる外見とは裏腹に長年使われていないからか埃臭く、皮肉にも健康に悪そうな印象を受ける。鼻毛を抜く癖がある人間、或いは元々鼻が弱い人間には宛ら拷問施設だ。

か細い声で悪友の名を呼ぶも返事は無い。私の中に眠る探究心が「もしやドッキリの標的は自分だったのではないか」と言う今更感のある疑念を遠ざけ背中を押す。扉のドアノブから手を離すと視界の外から鈍い音が鳴った。

身震いしながらも咄嗟に音の方から距離を取り顔とスマホを向けるとドアノブが床に転がり、扉の留め具が外れかけていた。

安堵と不安が混じった心境から暫く転がるドアノブから目を離せない。距離を取った際に出来たテーブルの角に脇腹を打撲した痛みさえ気にならない。

目の痛みに顔を顰め、少し俯きながら瞬く。今度は力を入れない様、半目を意識しながら視線を戻す。当然と言えば当然だが扉の近くに落ちたドアノブは未だ転がったまま。安心感を抱く一方で、館に好奇心を揶揄われた気もした。潔く右方にある扉の前に向かう。

突然扉が開き、誰か絶叫しながら胸に飛び込んで来る。転倒した拍子にスマホを何処かへ放り投げてしまった。瞬間、光がぶれてでも男の顔を映した気がしたが一瞬過ぎて正体が分からない。

だがそんな事はどうでも良い。

扉の先の部屋が防音材を使用しているのか定かでは無いが、暗澹の中で前触れも無く大声と共に高速で飛び込まれた私は恐慌して害虫を駆除する時の如く奇声を上げて暴れる。

心音が止まる胸中。
例えこれが悪友の言うドッキリであったとしても、硬く滑りやすい床で打った後頭部の痛みより最悪の喫驚のさせた事に恨みを込めて、私は殺人の免罪符を得たつもりで闇の中の何かを手足をばたつかせながら乱打する。

齷齪している私を歯牙にも掛けず、何かは直ぐに立ち上がると私の胸と顔を踏み越えて壁やテーブルに次々とぶつかりながら玄関ホールに繋がる扉の方へ足音をパチカチと鳴らして走り去っていった。

皮膚が拗られた後、爪先でかき混ぜられた様な痛みと何かが玄関ホールの方へと去っていく際に物が割れた音がした事から長く生命を共にして来たスマホの死を察し、恐怖一色に染まった心境とあれど立ち上がる気力は既に潰えた。

宿していた探究心をかなぐり捨てて冷たい現実から暖かな夢の中へ落ちる。暗澹は消え、規則的な喘息の声と放射状に点灯する光が目前に映る。光は次第に整形され細長い物と、洋式トイレの蓋の様な丸い物に変化する。

ぼやける視界の一割に目を擦りながらゆっくり立ち上がり周囲を見渡すと、突如室内灯が消え予備灯が輝く。経験の無い光景だったが不思議と違和感は抱かなかった。予備灯が点いたのはほんの一瞬、しかしその神秘性に私は違和感所か感銘を受けた。機械的で合理性の塊と化した人間の愛する昼光色を主とする時代に生まれた私にとって予備灯の柔らかな光は甚だ新鮮で未来的にも思えた。

電球色の渋さに魅了され無人の車両を舞踏しながら彷徨う。

まもなく皮足袋へ到着します、肩鋤行きはお乗り換えです。

脳内から自分と似た声をした車内放送が流れる。首を傾げていると視界の外からスーツを着た高身長の誰かが等速直線運動で私に近づく。顔は靄に隠れてよく見えない。

私が手術台の上で無影灯を凝視していると光を上書きする様に乱数が左から右へ並べられる。手指足指は動くがそれ以外の部位が硬直している事が分かった。

涼風が気紛れに吹き荒ぶ放課後の教室に連れて来られた。私は脹脛に力を入れてベランダから飛行し、転回して隣の組の窓に侵入する。

賑やかなショッピングモールの広場を二階から滑空しながら眺めた後、やがて一階に降下すると窓が灰雲の濃淡を描く、照明が外光頼りで無人の理科室へと到着。

一番乗りで浮かれていた青春と違い、無情に黒い天板を指で擦って一台ずつ旋回する。

入口付近の黒板の方で制服の自分と白衣の誰かが言い合っている。声が聞こえなくとも反骨の念が会話の様子から伝わる。

他人事の様に眺めていると左方の天板でPC-9801が元気にGoogle chatを開いていた。

たすけてください

じかんがない

謎の数式と共に送られて来た英文に背筋を凍らせながら、キーボードに手を付けると私はPC-9801となり窓の外を眺めていた。

自身の立場を理解した私は心に秘めた女性から送られてきた数式と文字化けした英文を画面に表示させて役目を果たし、敗北と恐怖で感情を爆発させるが虚しい闇へ消えた。

身代わりにした身体を取り戻し、起き上がった途端、目前に巨大な白面だけの短髪女が笑みを浮かべながら私を眺めていた。

耳は私の叫声しか入らない。股関節は気体の様に軽くなり、太腿が触診せずとも笹身になっている。尻穴とて滴る。

私の身を守る為の機能が、私を自決させる為に働いている。私が身体を見捨て逃げた様に、今度は身体が私を突き放そうとしているのだ。

目前の顔は少しずつ私の瞳の中へと押し入る。視線から逃げ最後の抵抗をしようにも顔は先回りして現実を押し付けてくる。

振戦する私の手足、万事休すか。
声は枯れ涙も尽き、全てを受け入れんとした矢先に室内の何処かが軋む。

音を耳にした瞬間、先程まで騒々しかった私達は二人揃って息を殺す。

床鳴りの音が次第に此方へ近付いて来る。
しかし現在地は厨房、床の材質は石。暗闇と錯乱状態の弊害で幻聴までドミノ式に発症したか。

見捨てられた以上信用はないが違う。此処は先程の厨房では無い、床がヘリンボーン柄だ。

建築学の門戸を見た事すら無い私でも流石に正方形とそうで無い形位分かる。暗闇に遮られていたとしても、手触りで木材と石材の違いは区別が付く。

いけない、うっかり床の材質に気を取られて不気味な白面と接近する床鳴りの事が頭から抜けていた。床から視線を戻すと不気味な顔は消え、館は静寂に返る。

全身で鬩ぎ合っていた暑気と寒気は和解し、次々と症状が治まりつつあったが胸の鼓動は未だ警戒を怠らない。快楽に従順な脳さえ惑わされそうな程心地の良い冷気を珍しく拒絶する。

利き手で顔を撫でながら足元に転がっていた懐中電灯を拾い上げ辺りを照らすと案の定厨房では無かった。他の部屋同様、栄枯盛衰の跡が所々見受けられる。館内のアンティークな雰囲気を壊さない遠方の茶色い暖炉、あれも専門家や物好きならば生唾物なのだろう、猫に小判の私でさえ抽象的な感想ではあるが暖かみがあって良い暖炉だと思った。しかしあくまで眺めるだけに止まるならばであり、灰色に侵食され、見るだけで鼻汁を通り越して鼻血がでそうな実情に近づき難い。

所々猪や猿が迷い込んだか、或いは空き巣や学生達、動画投稿者の根城になっていたのか。高級感溢れる民族柄のラグは毛玉や泥が塗れていたり、裏面には集合体恐怖症でなくとも卒倒する量の蜥蜴の卵の跡が付いていたり、天井には蛾や蜘蛛やらその他諸々不快害虫が夜中自販機に赴いた時の状況の様に跋扈している。鳥肌が立つより先に反射的に歯を食いしばり唸る。

悪友達には悪いが色々な意味で此処は来てはならない場所だ。一つ一つの家具を眺めて歴史を感じる余裕など今の私にはない。全てに怯えながら仲間の事を探す余裕も今の私には全く無い。恐怖の館に疲れ、早々と後にする。

都合が良ければスマートフォンを拾おう、そうでない場合は安全第一。無事脱出した自分の光景を反芻しながら壁を辿ると扉を発見、ドアノブを握る。遠方から轟音が響めき部屋を飛び出すと老婆が姿勢良く待ち伏せていた。

老婆はその身体に似つかわしくない腕力で私の身体を担ぎ上げ、不気味な顔に出会った部屋を出て右の方へ走り出した。世界最速の男をも凌駕する瞬足は、目前の階段を線へと変え廊下の形を歪ませる。

老婆系寝台車の肩から見える懐中電灯の光跡を目で追っていると無機質な打放しコンクリートの空間に付けられた牢へと放り投げられる。

懐中電灯が不要な程不気味に明るい部屋だが、思いに耽る前に私の肘や膝の中を厚い痛みが駆け巡る。

体感から来る見地だが、足の小指を箪笥や段差に打ち付けた時の痛みは自身が目的の場所へ向かう過程で起こる痛み故、威力の幾つかは痛みに反応するまでの間、一過的な動きによって外側に受け流されている。

足を動かす、足が当たる。そして痛みを自覚して反射が起きるまで、自分の意識は足より目的の場所に向かっている為、足は一定の方向へ動き続ける。その一瞬の衝撃を流す過程が悶える程の痛みを無意識の内に避けている節がある。

大丈夫?
ありがとう、大丈夫。で済む可愛い痛み。

しかし、経験上威力の逃げ場の無いこの痛みだけは一生好きになれない。このフローリングやコンクリートの段差や床に足を捻るなり躓くなり滑って転んで身体の節々を打ちつけた時の絶望と痛みはもうとんでもない。

登山中、或いは下山の際に滑り落ちて脛骨や腓骨に岩を喰らった時と同じ痛みが身体に染み渡る。

遠く離れたこの場所で山寺の鐘の余音が痛みとして変換されて肘膝関節に届いている。

幸福感も自分の中で一緒に滑り落ち、一に虚無感、二に腹立ち。

例えカーペットが敷いてあっても元々床材が無慈悲に硬い。頭を打てば命の危機、そうでなくても笑い話には全く出来ない。

正直何故こんな安全性の低い素材が、学校やら病院やら社会の至る所で踏ん反っているのか私には全く理解出来ない。古いアパートの縞鋼板の階段で転げ落ちた時はもっと楽しい痛みだったと言うのに。

そんな「痛った!」で済まない痛みを久しぶりに味わった今、虚無感はあっても腹立ちは無かった。誰も助けてくれる筈は無いがただひたすらに呻いていた。

呻いていたと言うのは反射的にそういう事をしている自分を自覚するまで少し掛かったと言う事だ。可哀想な自分の情けない声で痛みから逃れようとしている自分の姿を客観的な視点で見るまで少し時間が必要だった。

二に腹立ちと言うのはあくまで余裕がある時の話だ。今の私には腹を立てる余裕は無い。痛みが怒りより勝っている。

取り返しの付かないミスを犯してしまった時の喫驚の後の虚無感と同じ。考える余裕がある時に限り、そこで続けて憤ったり後悔したり錯乱したりするけれど、基本的には、ただ虚無感に浸る。

そして今の私には老婆を怒鳴る余裕は無い。同情の声を掛けられようものなら、優しさに甘えて八つ当たりしてしまいたい位に悶える。

何度も寝返りを打ちながら肘や膝の関節を撫でる。怪我をした時に行うと少し安心出来る人類共通の御呪いである。

節々に宿した鉄球の重みに耐えながら俯しの身体を捻って牢の外に顔を向ける。老婆は居らず、代わりに疑問符の上半身に一本足を雑に取り付けた何かが此方の様子を伺っていた。

私は幼い頃、疑問符と奇数に恐怖を抱いていた。忌み数を除く偶数で無ければ安心出来ない幼児であった。疑問符が自分を何処かへ連れて行きそうな気がする幼児であった、疑問符に不審者のオーラを感じていた幼児であった。

故にこの何かは私にとってフラッシュバックを起こすに相応しいスイッチだった。

私が声を震わせて床に目を背けると、そこには血溜まりが出来ていた。床に打ち付けられた時には無かったと言うのに。

思わず立ち上がる。

鼻の粘膜が衝撃で傷ついてしまったか。
確かに私は鼻毛が伸び易いし、鼻の奥がいつも埃っぽい臭いで充満しているし、風呂でもトイレでも学校でも、とにかく換気扇のある所なら何処でも粘度の高い鼻汁が止まらない人間だったし、痒すぎて頻繁に爪で鼻を掻きまくる人間ではあったが、蛇口の水並みの速度で鼻血を出す事は不可能だ。

こんな、祭りの行事の金魚掬いを楽しんだ終わりにおまけで貰うポリ袋に金魚と一緒に入っている袋一杯の水並の量を、私が短時間で出す事は絶対にあり得ない。

それに鼻血が出る時はいつも鼻が熱を帯びたり、重量を感じたりする。喉の奥に鉄の風味が流れるし、鼻が詰まる。

という事はこれは幻覚か、ドッキリの仕掛けか、他者の物と言う事。

辺りを見回しても誰もいない、私一人だ。牢の外に立っていた何かは、私が血溜まりに気を取られている内に先程出会った顔や老婆同様姿を消した。

とにかく此処を出なければ。
所々腐食して塗装が剥がれているが、この牢、大変良く出来ている、恐らくも何もこじ開けるのは無理だ。

老婆は確かに私を牢の扉からではなく牢の真ん中で雑に放り投げた訳だが、栄養失調や拒食症の子供の身体すら入らなそうな隙間で一体どんなトリックを使ったのか。全く検討も付かない。

それとも私はまだ夢を見ているのだろうか。私の事だと言うのに私が信じられなくなる、何処までが夢で、いや、そも自分は学校に行っていたのかさえ疑いたくなってきた。

駄目だ、止めよう。

牢の右端に移動し取り付けられた扉に手をかける。

滴る。

左方の血溜まりが音を立てている。辿る様に天井へ視線を向けると、老婆が醜い姿で張り付いていた。

壁や床にカラーボールや水風船を叩きつけた時の様に肉塊が放射線状に広がり、無機質な灰色に朱殷色の血が映える。

全身にあらゆる刃物が突き刺さっており、天井に固定する事を殺害目的とした事が見てとれる。

鍼治療にしては刺激が強すぎる。
後退りする私。次の瞬間、息が止まる。
疑問符が前触れも無く私の目に飛び込んで来たのだ。

私の気は疑問符に移った。
詰まっていた頭が冷え、心は桐で貫かれ、鎖骨は締め付けられ、舌と喉に酸が溢れる。腿が快感で浮遊しそうで足裏の土踏まずには汗が滲む。

息苦しさは無かった。
息苦しさを意識する為のエネルギーが目の前の疑問符に向いていた。

疑問符は私に接近したままで何もしない。何もしないけれど、パーソナルスペースを侵されるのは困る。特に嫌悪感を抱いた理由の一つが歯垢を指で練って嗅いでみた時の様な臭気が鼻腔内に侵入してくる事。

私は疑問符の背後に回り込む様にして離れるが、当の疑問符は追跡してくる。

ぽっかり空いた心の穴が負の感情で埋め尽くされる。それ所か他の場所まで侵食し始めて染め上げようとしている。私の心が壁を築こうとしている。

だがその時、私の背後から靄靄とする漆黒のそれは人型と化し、疑問符の顔面に飛びかかる。それに上半身を両腿で固定された疑問符は転倒する。

それが右手に握った包丁を振り下ろすと、疑問符は暫く足をばたつかせ、やがて動かなくなった。

それでも繰り返される刺突。今にも館を壊してしまいそうな衝撃が床を伝い私の身体にも届く。初耳の太鼓と同じ威圧感と神秘性の振動。

それの憎悪の篭った雄叫びが周囲に響く。辺りは美しくとも何処か寂しい館に戻った。

振り向き様にそれは左手で私の頭を鷲掴み、古壁に突進する様にして強く叩き付ける。背後に出来た僅かな木片を利用し私の四肢に打ち込んで壁に固定する。意思疎通が出来そうにない。手首を捻って懐中電灯で照らし出しても、顔も身体も無い。人型の黒い煙の様な何かにしか見えない。故に趣旨は理解不能。

壁の隙間の至る所から身体をくねらせながら何かが湧き出る。
それは私に背を向けると何かに向かって飛び出した。

懐中電灯で姿を追おうとするが、はっきりと捉えられない。

魑魅後魍魎。

天井から降り注ぐ害虫害獣共の猛襲を低姿勢の高速移動で避け、窓へと飛び移る。

足を乗せている現在の窓から対面する窓へ飛び移った際に、ガラスが跳躍力により破砕し、部屋の上空へ舞い上がる。

着地までの時間で脛を押さえて球体になり縦回転、着地。跳躍、駒の様に横回転を行う着地、再び跳躍。

それの身体はスーパーボールの如く自由に跳ね回り、硝子の竜巻の中で一匹残らず掻っ捌く。

フローリングを突き破り這い上がって現れた八尺の女は右手の包丁で股下から喉顎下までを斬り上げ、最後の一瞬に拳を捻って部屋の半分辺りまで更に突き上げる。

それは床に着地すると再び飛翔し、今度は女より上空まで上昇。体制を変えて隼の如く急降下し、その後脚を畳んで一回転からの脚を勢い良く伸ばし女の胸に突き刺す。

暗闇の中で、それは猛速で無数の壁を蹴破る。決して速度を落とさず、そのまま厨房まで開けると女の上半身を銀のシンクに押し込む様な形で埋める。

突如付近のレンジが爆発し、それの上半身は吹き飛ぶ。

狐を模した揺らめく怪火がレンジから飛び出し、それに襲いかかる。それは身体を元に戻すと右手で鷲掴み、冷蔵庫まで移動する。

右手を切り離して真空チルドの中にぶち込み、扉を閉める。二階の悲鳴に呼応する様に、天井を見上げ飛翔。

無数の腕に壁裏に引き摺り込まれかけている生者に向かって走り出し、アサルトライフルで諸共雨霰にする。

それは壁から生者を引き摺り出し、床に捨てた後、足蹴にして天井を破らせ後を追う。月明かりの下、宙を舞う生者をステンレス製の物干し竿で叩き落とす。

二階の大広間を抜けて一階の食堂まで落下した私は、鉄管を叩いた時の様な振動に身体を痺らせ身動きが取れなかった。

私の身体が虐められっ子の肉体の様に服従する事を選んでしまったのだ。全身麻酔でも打たれたかの様に、ただされるがまま。それに不満を持てと抵抗する力など入らず、目を背け、事が終わるのを待つのみ。

目が暗闇に慣れても、懐中電灯で照らしても、他と違い、それは不可視であり続けた。

闇の中の闘争劇は、それが館内の怪物を皆殺しにするまで続いた。

時は経って。
親に手を引かれる幼児の如く、或いは子供を然りげ無く攫う誘拐犯か。それは私に歩み寄り腕を無言で掴む。そして私を玄関まで導くと突然掴んでいる腕をハンマー投げの様に振り回し、見覚えのあるワンボックスカーが駐車している砂利道まで投げ飛ばす。

私は館から追い出された。

それの行動に感謝の念は抱かなかった、寧ろ憤りを感じた。私の腕を掴む際の力の込め方が、教師が生徒の腕を掴んだ時の性悪さと類似していたからだ。しかし私の憤りさえ支配してしまう程、それは負のエネルギーに満ちていた。自分の意思で込めた力じゃない、それに感化された怒りだった。

蟠りを残したまま、私達は複雑な面立ちで館を去る。

訪れる前までは気炎を吐いていた悪友は、人が変わった様に静かだった。

リヤガラスには館が離れていく様が映る。
目を凝らすと、それが玄関前で此方の去り行く様を眺めている。

スマホやシマトネリコの植え替えの事はすっかり忘れて、私も館が再び森に隠される時まで、彼方を眺めた。

翌日、午前十時。
ミュージックサイレンから朝が奏でられる。

あれは何だったのか。
経てど消えぬ疑問と好奇心を片隅に恐怖小説を耽読していると、サイドボードの上部の固定電話が鳴る。

四つん這いで近付いて確認すると固定電話に設定した電話番号と一致していた。最近は犯罪者が知らない電話番号だけでなく、知っている電話番号を詐欺や脅迫の為悪用する事例もあるとニュースで言っていた。受話器は取らずその場で様子を伺う。

私メリーさん、今貴方の家の前にいるの。

館での恐怖がたった一声で甦る。
私が弱音を吐きながら固定電話の電源を切ると今度は部屋の外から私に語りかけて来た。

私メリーさん、今貴方の部屋の前にいるの。

何なんだ。私が彼女達に何をしたと言うのか、何が彼女達の琴線に触れたのか。侵入したと言うだけで此処までの仕打ちを受けなければならないのか。

青褪めた顔を憤怒の形相へと変え、勇気を振り絞って扉の隙間から此方を覗く黒煙を怒鳴りつける。すると彼女は最初に一階に降りた様に見せかけた後、私の背後に移動した。

私メリーさん、今貴方の後ろにいるの。

号泣した。視界に映る潤いも家具も私を見ていた。最後の希望を胸にそのまま一歩前へ踏み込むと彼女は私の頭を掴んで力強く捻る。

私はギネス保持者でも無ければ梟でも無い。百八十度を越える回旋能力など持ち合わせていない。

私の主張を黙殺し、もう片方の手で私の頭を鷲掴む彼女。そして自分の元へ引き寄せるべく私の首を飴の様に曲げる。私の皮膚でハリケーンポテトやよりよりでも作ろうと言うのか、冗談じゃない。

私の空疎な反抗は何れも無駄、無理、無意味、それに終息する。寧ろ逃げる程死は身近になる。奇妙にも目を逸らそうとか目を瞑ると言う冷静な判断は思いつかなかった。それよりも好奇心が勝った。姿を見てしまうとどうなるのか、本当に死ぬのか。恐怖混じりの期待が私を狂わせ、凍てついた私の身体が温もる。

彼女を見ると言う恐怖が麻酔となり首の痛覚を緩和。更に聴覚を鈍化する事で、首が捻れていく様を否が応でも自認させる死のクラッキング音から意識を遠ざける。恐怖の存在が別の恐怖を打ち払う、何とも珍妙な話だ。俯瞰的に状況を見る立場ならば、人体とは大変良く出来ているな、などと、半ばせせら笑う場面もあっただろうが、残念。

死に対する恐怖が与える生の充足に飽きた末に、ふと、根負けした。理由は考えなかった。人間が幸せになる為に生きているのだとしたら、恐らく私は、自分の意思で幸せになる為に首を捻った。

だが視線の先にあったのは、暗闇でも無ければカーペットでも無い。その上、彼女の勝利の笑みでも無い。

私は苦しみに身を悶えさせ、一度踏まれた蟻の様にばたついている彼女を見た。彼女の背後では館で出会ったあれが、ベッドの上で屈みながら彼女の首を絞めていた。

彼女は助けを乞い、あれは一瞬たりとも私に視線を移す事なく彼女に殺気をぶつけ続ける。私はその光景に心を落とされる。

ベッドの付近にある窓から彼女を引き摺り飛び降りたあれを見送った後、私はすぐに瞼の帷を垂らし、星空の下で眠りこけた。


最初の見舞い人はトラバーチン模様の正方形。次に皮脂と尿と柔軟剤とゴム臭を混ぜた物に炭酸の爽快感を加えた様な芳しい臭気だった。

白い、病院。
寝心地の悪いベッドと面白味の無いシーツの感触が位置情報を読み取る。

静かに起き上がると家族と友人が声に安堵を滲ませて私を呼ぶ。

大丈夫か。

心配したんだよ。

目を逸らし、戸惑いつつも微笑んだ。
きっとそれは、皆が自分を肉塊ではなく人間として、宝として愛してくれていた事に動かされる物があったからかもしれない。自分の事ではあるが、まだ断定したくない。

スライドドアに目を配り、そのままシーツを静かに蹴飛ばして無事である事を見せつける。

毛頭そんな気は無いだろうけれど、怖狩様が助けてくれたんだ。なんてね。

私は目を逸らし悟った様にそう語った。

場が白んだ、言わなければ良かった。
私の頭を訝しむ皆の善意が痛い。

皆腹落ちしない様子だが、内心私もその中の一人に入っているのだと伝えたかったのだが、格好付け過ぎた。

まぁ、良い刺激になったよ。
世の中には、一種の娯楽としてああいう偶然が必要なのかもしれないな。

自棄になった私が冗談を粧しながらベッドを降りると同時に廊下の喧騒が消える。

アクティングエリアをハイヒールで鳴らしている様な、或いは分厚い本を勢いよく閉じた時に出る高音とその余韻が私の好むテンポ40で繰り返される。

心と言う概念が鉄球と言う物質に変化したかの様に、私の胸に重みを感じる。

緊張が高まる。

それがスライドドアを開ける。

空気は冷える。

トンネルや洞窟内で声を上げた時の様に家族と友人の悲鳴が反響する。

蜂球の様に固まり合い、怯える皆を他所に、ベッドから降りたばかりの私の前にそれは立ち塞がる。

それは黒煙の中から千手観音菩薩の様に束ねられた腕と無数の顔を静かに浮き出させていた。叱る様な顔、心配している様な顔、哀れむ様な顔。腕には館で見たナイフやライフル銃の他、ガラパゴス携帯、大幣、縫い包み、ビール缶やエレベーターの非常用ボタンなども握られていた。

館で出会った時は黒煙が隠蔽色になっていた所為もあって全体像が把握しにくかったが、こうなっていたのか。

それは無言で私の臍の前にまで伸ばす。
その掌には私のスマホが乗せられていた。
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