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28 白馬の『…』登場 ②

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マダム・オランジェの裁断鋏がわたしの足元に落ちる。

白い能面の様なレティシアの瞳が大きく見開かれ、同時に小さな唇を驚く程ぱっくり開けた。

「…あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!お、おのれえええええええええええええええええええええっ!!」

レティシアのつんざく様な金切り声と同時に、天井の上にまでうねって浸食していた黒いヘドロが、一気に『どぷんっ!』と音を立てながら床に落ちて来た。
もうこれは足首が浸かるどころの量じゃない。

「ひゃっ…!ダニエル様…!動けません!」
わたしは悲鳴を上げた。

膝までがっつりと底なしの沼にはまってしまったかのように、完全に足は動かせなくなっている。

「大丈夫だ。落ち着いて、キャロル。今――僕の使い魔が来る」

わたしはその言葉にハッと顔を上げて、ダニエル様を見つめた。
ダニエル様の瞳は変らず黒かったけれど、その中心の瞳孔は猫の様に縦長になっていた。

するとダニエル様はわたしの頭の後ろに手を添えるなり、そのまま自分の胸元へとわたしを抱き寄せた。

「ふぁっ…!?」

ダニエル様のいい香りのするドレスシャツとがっつり顔面で対面してしまう。
華奢かと思いきや、意外にしっかりとした胸板の感触に驚いてしまった。

固まったままのわたしへと、ダニエル様は頭上から優しい声で云った。

「キャロル。耳をしっかり両手で抑えて――そう、上手だね。そのまま顔も伏せておいで。彼等は大層賑やかだ」

(彼等?)
そう疑問に思った瞬間――無数の真っ黒い羽の生えた小さな影が、開かれたままの店の扉にぶつかりながら、一気に部屋の中へとなだれ込んできたのだった。

 +++++

キィ―キィ―と甲高い声を鳴らしながら、黒い影の塊がダニエル様とわたしの周りでクルクルと円を描きながら激しく旋回している。

その隙間を縫う様にバシンと何度か激しく叩く様な打撃音がする。

「この…っ!この…蝙蝠ども…!うっとおしい!こっちへ来るな…!」

レティシアの金切り声が聞こえた。
「…なっ、何故…こいつら、倒せないの…!?」

「残念ですね…この子達は僕の魔力で造ったものです。叩き落としても直ぐに復活しますよ――おまけに久しぶりの魔物を目の前にして興奮している。油断するとすぐに、ほら…喰いつくされますよ」

混乱し焦るレティシアの声に向かってダニエル様は含み笑いをしながら答えた。

するとそれに続いて一瞬だけ
「止めっ…、やめろっ!わたしの顔を…顔だけは…!!かおっ…だ…ぎゃあああああああああああああああっ!」

わたしの耳をつんざく様なレティシアの一際甲高い悲鳴が響いた。

 +++++

(え?一体…何がどうしたの?)
怖い物見たさもあり薄っすらと目を開けて――周りを凄まじいスピードで旋回する蝙蝠の影の隙間から見えた光景に、わたしはビクリと身体を震わせた。

なんとそこには――レティシアの顔を目掛けて、ダニエル様の遣い魔が黒い羽を広げ、一斉に群がる様に飛びかかっていた。
「…ふぁ…っ!?」

その時わたしの頭上からダニエル様の優しく嗜めるような声が降ってきた。
「これ以上貴女は見てはいけません、キャロル」
そう言ってダニエル様はわたしを更に抱き寄せた。

「…ダ、ダニエル様…」
「ふ…僕はこう見えて、あの魔物に大変怒っているのですよ」

甘い香りのするダニエル様の腕の中へと抱き寄せられたわたしは、耳元で優し気だけど危険な予感のする声で囁かれた。

「貴女の義母と義妹を騙り…貴女を陥れ、危害を及ぼそうとした醜い魔女…」

すると、黒い風の様な渦の回転は更に激しさを増し、ザザザァ…っとダニエル様の遣い魔の蝙蝠の羽ばたき音だけが大きく部屋中に響き渡る。

「や、止めろおおおおおおおおおおお…おおおおおおおおお…おおおおおお…おおおおお…おおおお…おおお…おお…お…っ!」

レティシアの声は徐々に小さく切れ切れのくぐもった様な野太い声に変わっていった。

「ダ、ダニエル様…?」
「キャロル――貴女の様な女性が、これ以上見る価値もありません」

 +++++

状況を把握できず呆然としていたわたしの耳に何処から現れたのかミハエル神父の大きな声が背後から聞こえた。

「ダニエル――そこまでだ。遣い魔を解放しろ」
「ふぁっ!?」
別の入口があったのかとわたしは飛び上がる程驚いた。

「マダムと侍女二人の安全はもう確保した。お前の怒りはごもっともだが、これ以上魔女を喰うと、またお前の魔力がコントロールできなくなるぞ」

ミハエル神父の声はわたしにもしっかり聞こえている筈だが、ダニエル様は返事を返さず無言のままわたしをぎゅっと抱きしめた。

「ダニエル潮時だ…そろそろ退け…じゃないと…」
『今度は俺が出ざるを得ないぞ』と言外に滲ませた厳しい声音だ。

「ダニエル様…」

わたしはダニエル様を見上げ――思わず息を呑んだ。

ダニエル様の黒い瞳が――縦長の瞳孔の周りの虹彩がはっきり赤黒く変わり出している。
見ればなんと小さな犬歯も唇の隙間から覗いているではないか。

慌てて腕を伸ばしわたしは、ダニエル様をぎゅっと抱きしめた。

「ダニエル様…わたくしはもう大丈夫でございます。お願いします。どうかこれ以上…これ以上は…」

わたしの髪に顔を埋めたダニエル様は、しばらくしてから小さくため息をついて頷いた。

「……分かったよ。キャロルがそう言うなら」
そう言うと、ダニエル様がパチンと指を鳴らした。

それを合図に、騒がしく鳴いて部屋いっぱいに群れて居た蝙蝠が一瞬にして、わたしの目の前でスッと姿を消してしまったのだった。
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