鮭川くんとむすびくん beta

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10章

鮭川くんとむすびくん 10章

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 縛られた手足の紐を解こうとどうにか藻掻いていると、外から爆発音のような大きな音が聞こえた。そしてたくさんのバイクとエンジン音が近づいてきて、倉庫へとトラックの頭が突っ込んできた。茫然としていた俺と小夜くんは運転席の人の頭から血が流れているのを見て、固まってしまう。その助手席から颯爽と降りて来た顔見知りに、驚愕する。
「紅さん!」
「結。大丈夫?」
「あ、え? 刺されて重傷って、そっちの方が大丈夫ですか?」
「うん。だから、こっそり抜けてきた。完全に血、止まってないからあんまりたくさん相手できない。静かに来た」
「静かに……?」
「運転席の人は、大丈夫なんですか? 殺したら、問題になる」
「病室の前でうろうろするから脅して案内させた。俺にとどめを刺す気だったんだろう。大丈夫、死んでない」
「意識不明とかって」
「……頑張った」
「頑張ったって」
 普通の人のように話しかけてくる紅さんに、刺されたというのは俺の聞き間違えだったのかとすら思ってしまう。小夜くんを一度見てから、紅さんは少し考えた後に、いつもよりワントーン低い声を出した。
「結は俺が迎えに行くって、鮭川と約束したから」
「紅さん、鮭川は?」
「うん。大丈夫だよ。もう一人の厄介者に会いに行った。こういうのは、一気に片付ける必要があるから。あっちはあいつじゃないと駄目」
「伊織が組織の人間になるの?」
 俺の脚の紐を解こうとして、絡まって困惑している紅さんに小夜くんが聞く。俺が息を飲む間もなく、紅さんは首を横に振った。
「ヤクザにはならない。大体、向いてないから」
「伊織は向いてるよ。絶対素質がある」
「あいつ、元々暴力そんなに好きなわけじゃないから。平和主義でしょ。あいつの暴力は感情を何処に向けていいかわからない時の手段なだけ。知らないの? お、できた」
「紅さん、紐解くの。手からやってくれたら、脚は自分で解けましたよ」
「んー。結、かわいいお顔して?」
「えっ」
 俺の拘束されたままの手を掴まれて、顔に寄せられる。いかにも拘束されていますのポーズを、なぜか写真に撮られた。
「結、もしかして結構泣いた?」
「ちょっとだけ」
「……効果がありすぎるかもしれない。まずったな。もう送っちゃった」
「?」
「鮭川に結の可哀想な写真送ったから、多分爆速で片付けて来る。死人が出るかもしれないけど、向こうも殺す気で来てるんだから仕方ないよね」
「全然、仕方なくないです。こっち、来なくていいから、逃げてって言って下さい」
「お前が巻き込まれた時点で、もう遅いの。馬鹿だね、結」
 紅さんは眉間に皺を寄せながらも、小夜くんの脚の紐を解いている。そういえば、さっきのバイク音はどうなったんだろう。トラックが突っ込むと共に消えてしまった。カタンと音がして、顔を上げると紅さんが俺達を庇うように前に立った。さっきの二人組が帰ってきたのだ。
「あーっ! ちょっと、何逃げようとしてんのー!」
「派手なことしてると思ったら、紅じゃねぇか。久しぶりだな」
「……結、誰?」
「星崎さんって呼ばれていたような」
「ホシザキ、久しぶり」
「絶対覚えてないだろ。耳千切りそうになった人間の顔くらい覚えておけ」
「あー。街で会ったことあるね。出世した?」
「まぁな。お前、こんなことして只で済むと思ってんのか。これは流石に規定に違反してんじゃねぇの。こんなに大胆に攻められちゃ、うちのとおたくの会社、戦争になるぞ」
「これは俺が勝手にやったことだから、自腹で直す。ゴメンね」
「謝って済む話じゃねぇんだよ」
「耳の事は許したんだから、これも許して」
 紅さんは重傷のはずだし、俺と小夜くんはいまだに手首の紐が解けてないからピンチだと思ったんだけど、大丈夫な気がしてきたのは気のせいだろうか。八割方、紅さんのせいだろうけど、空気感はゆるい。
「大体、ここはあんたらの若いのが溜まり場に使ってるだけで、あんた達所有のもんじゃない。親父さんって昔の人だからこういうの厳しいでしょ」
「いいんだよ。柿沼さんとこの坊ちゃんは特別だ」
「そちらさんは、俺達素人に血を流させるのはご法度じゃなかったっけ。ほら、結、見て。俺の怪我酷いの。痛いの」
「え、あっ」
 紅さんがお腹をたくし上げて、傷口を覆った包帯を見せてくる。思ったより血が沁み込んでいて、嫌でも怪我の具合が相当まずいと想像できてしまう。本当に病院抜け出したら駄目な人だ。
「結が立ち眩みした。どうしてくれんの」
「星崎さん。俺、噂の紅って人とは初めましてなんすけど、思いのほかボーっとしたやつですね」
「耳切り落とされたくなかったら、気抜くなよ」
「ねぇ、その柿沼くんは?」
「鮭川が来ないと来ねぇよ」
「ちょっと俺はそいつにお話があるのね。結を迎えに行かなきゃいけなかったし、病室に来てもらおうかなとも思ったけどさ、鮭川がここに行ってっていうし、ちょっと呼んで来てくれない?」
「はっ、誰がお前なんかのいう事聞くか」
「俺、昨日お前のとこの親父さんと話したんだけどさ、案外細々と少数精鋭でやってんだね。今、分裂したらまずいよね」
「それがなんだ。うちの人間は義理堅い人ばかりだから、分裂なんてそう簡単にはしねぇよ」
「そう。義理堅い人なら柿沼のことは放し飼いにしないんじゃない? 俺、面白いこと知ってるんだ」
「はぁ? 最近漸くおしゃぶり外してまともに声発せるようになったお前が、面白いこと言えるのか?」
「親父さんが実の子より大事に育ててた錦鯉、ふざけて殺したの柿沼くんなんだって」
 爪を弄りながら、淡々と話す紅さんに恐怖を感じてなぜか俺が床にへたり込んでしまう。鮭川が紅さんは怒ると怖いと言っていたのは本当なようで、こういうのに慣れているだろう小夜くんすら顔を青くしてる。脅されている相手も慣れているんだろう。恐怖こそ感じていないようだけど、内容を聞いて、口をパクパクさせて言葉を失っている。
「俺がうっかり話して親父さんの耳に入ったら、柿沼くんはきっと親子共々殺されちゃうね」
「……おい、八木。柿沼さんとこの坊ちゃん連れてこいっ」
「え。でも」
「急げ!」
 状況を理解できないまま、言われた通り走って出て行った八木さんを見送った星崎さんは、紅さんの前に立って見下ろす。
「紅、お前もう結構限界だろ」
「見逃してくれるの? こっちもギリギリのことをしてるから、事を荒立てたいわけじゃない」
「お前が言ってることが事実なら、餓鬼の口喧嘩にしては、こっちは賭けるもんが大きすぎる。そんなネタ出されたら元々、あのクソ餓鬼をよく思っていない奴らが便乗するだろう」
「お前はお守ってところ? ちゃんと見ておけよ」
「俺も餓鬼のお守なんざしたくねぇんだよ。クソ餓鬼が自分に恥かかせたからって、やけに鮭川に執着してる。規定のこともあるし、あいつの本当の怖さ知らねぇんだろうから、やめとけって言ってたんだが聞かなくてね。しくじったから助けろって呼び出されて来てみたら、この有様だ。俺も乗り気じゃないんでねぇ」
「もっと正しい遊び方を教えてやらないといけないんじゃない? 俺ね、結構お前のとこの親父さんに気に入られたみたい。多分その餓鬼より、ずっと気に入られてると思うよ。俺も、椎名も」
「……椎名も行ったのか」
 紅さんが椎名さんって人の名前を出した途端、星崎さんが座り込んで頭を抱える。
「うん。決まり事を作ったのは椎名だからね。揉め事を防ぐには行かなきゃでしょう。ラッキーだったよ。あんたのところの親父さんが理解ある人で、それから柿沼くんが馬鹿で」
「……」
「それで、俺と椎名のかわいい後輩に、お前のとこの馬鹿は何するって?」
 話はよくわからないけど、恐らく紅さんが優勢なんだろう。紅さんが鮭川のことかわいい後輩って言ってくれたの。鮭川にも聞かせてあげたい。こんな時にって思うけど、嬉しい。
 入り口から小走りする音が聞こえて、八木さんが駆け込んできた。一緒にゆっくりと登場したのは、柿沼。近くにあった一斗缶を蹴って、怒号が倉庫内に響き渡る。
「なんだ、このザマは。俺は俺が戻る前に、お前が鮭川を大人しくさせて連れてこいって行ったんだぞ。星崎ぃ」
「十五発」
「馬鹿、死ぬ。一発だ。殺すなよ」
「主様を無視して、何コソコソとしてんだよ」
 星崎さんと紅さんが小声で数を言い合っている途中で、柿沼が乱入してくる。紅さんに殴りかかろうとした時、ゴッと鈍い音がした。紅さんの頭突きを食らった柿沼は漫画みたいに目を回して床に倒れ込んだ。
「普通グーだろ。マジで死んだら洒落にならん」
「今右手上げたら、血いっぱい出るもん」
「もんっじゃねぇ!」
 意識はあるだろう柿沼が身体を伸ばして俺の足首を掴む。小さな悲鳴を上げて足をバタつかせていると、柿沼の手を星崎さんが踏み潰した。
「いってぇ! 星崎、てめぇ!」
「汚い手で触れて悪かったね、結くん。それから手荒な真似をした。今度、改めてお詫びさせてくれ」
「結に絡むな。阿呆」
「星崎っ! お前どういうつもりだ」
「坊ちゃんの外での、非常識極まりない行動の数々を親父に知られた。が、紅のところの上の配慮で穏便に話をつけてくれるだけじゃなく、今後の夜道の歩き方についてアドバイスをくれたらしい。最近はヤクザも好感度っていうのは大事でね。友好的なお友達には危害は加えないことになってるんだ」
「そんなの今まで通りお前がもみ消せばっ!」
「普段の問題の数々の他に、何かしてるんだなとは思ってたが、殺しは聞いてねぇ。もみ消してもねぇ。汚ねぇ歪んだ性癖を、確かに見て見ぬふりはしてた。これまでだってお前がうまいことやったわけじゃない。報復を恐れた周りが口にしなかっただけだ。父親に似たな」
「あ? 誰に口利いてんだ」
 腕を振り上げた手を取って柿沼のネクタイを掴み、締め上げる星崎さんに、柿沼の踵が浮く。ネクタイを力強く引っ張り上げられる程、柿沼の顔が引き攣っていく。
「親父の大事な錦鯉を悪戯に殺したお前を庇う程、俺はお人好しじゃないし、そこまであんたら親子には尽くせない」
「錦鯉? そんなの殺した覚えはない。俺は綺麗な女を歪ませることしか興味ない」
「ただでさえ、お前みたいな不細工はお金払わないと綺麗な女の子達には見向きもされないのに、心まで醜くなったら終わりだな。いや、心の醜さが顔に出たのか?」
「紅。黙ってろ」
「この前、交渉人のドキュメンタリー見たから、俺、交渉できる」
「絶対できない。良い子だから、下がってろ」
「お前ら、あることないことでっちあげて、親父に言いつけてやるからな! 謝るなら今のうちだぞ」
「白地に赤の模様が映えるワンピースを着たお嬢様を知ってるな?」
「ああ、それはよく屋敷に来てた女だろ。誰の女かわからないけど寝取ってやった。ちょっといい顔したら、その気になりやがって束縛が面倒だから沈めてやった」
「そいつが、親父が若より大事にしていた隠し子の錦鯉だ。お前の何処が良かったんだろうな」
「か、隠し子?」
「紅は錦鯉のことを黙っててやるって言ってるんだ。気が変わらねぇうちに、鮭川から手を引け。どう足掻いたってあんたに勝ち目はねぇよ。それ以前に、うちは快楽の為の殺しを容認しているわけでもない。親父も、お前の父親もどう処分を下すだろうな」
「いいかい? 柿沼くん。鮭川の周りに、ちょっかいかけてもバラすと思え。親父にはそれ以外は話したからあんたは裏稼業で干されると思うが、妙な考えは起こすな。組織がせずとも、俺はいつだってお前の耳も唇も噛み切れる」
 膝から崩れ落ちた柿沼の横に、紅さんがしゃがみ込む。耳を引っ張られて小さな悲鳴を上げた柿沼は、紅さんの言葉にガクガクと震え出して、泡を噴いて倒れた。
「小夜、お前もだ。他言無用だ。話したら、どうなっているかわかってるな」
「星崎さん。それだけ? 俺はお咎めなし?」
「小夜の雇い主はこの有様。元々この馬鹿の単独行動だ。組は関係ない。俺にこれ以上、どうしろっていうんだ。俺も監督不行き届きで何かしらペナルティがあるだろうから、他所に構ってる暇はねぇよ」
「そうだけど」
「小夜くん、良かったね」
 浮かない顔をした小夜くんに、紅さんが寄りかかる。顔が真っ青だ。
「紅さん!」
 急いで救急車を呼ぼうとスマホの電源を入れると、紅さんがスマホに手を被せてきた。
「結、大丈夫だから大きい声出さないで。星崎、悪いけど病院連れて行ってくれない? 流石にやばいかも。結、俺は病院行くね」
「は、はい」
「図々しいな、お前」
「親父さんに今回の件、お前のこと良いように説明してやる」
「バイク回してくるから、後ろ乗れ。八木っ! って、あれ、八木何処行った?」
「紅さん、死なないで。死んだら、嫌だっ」
「……死なないよ。勝手に殺さないで。かすり傷、かすり傷」
「こいつ、前にも同じようなことあったけど、すぐに治ったから平気だよ。結くん、ちゃんと送り届けるから安心して。悪いな。他の移動手段全部紅が潰したから、乗せていけなくて。八木がいたらもう一人バイクの後ろに乗せていけたんだけど」
 紅さん、意識が朦朧としているのかもしれない。支えてないと、頭がふらふらしてる。血がいっぱいだ。助けなきゃ、どうにかしなきゃ。
「小夜くん、紅さんが……なんとかしなきゃ」
「救急車呼んだら面倒だ。洗いざらい吐かなきゃいけなくなる。結くんも通報したことあるなら、わかるはずだよ」
「……小夜、お前もうボロボロだから何かするとは思えないが、結くんに何もするなよ。お前にも口止め料払わないとな」
「あの怖ろしい脅し聞いた後に、できるかよ」
 星崎さんのバイクの後ろに紅さんを乗せて、ヘルメットを被せる。紅さんは俺の手を掴んで、力なく言った。
「結は鮭川のこと待ってて。結の写真送ったから、すぐ来るはずなのに、ちょっと手こずってるのかも。ちゃんと……絶対来るから」
 信じて待ってて言うんだ。
「来たら、怒らないでちゃんと話聞いてあげてよ」




 屋敷を訪れるとスーツを着た何人もの男に囲まれて、奥の座敷へと通される。アポなしで無傷で入れてもらえたのはかなりラッキーだったけど、野次が凄い。
「自分から手を引け? 随分と上からものを言うな」
果たして帰れるだろうか。話が拗れて伝わったり、二次被害になるのが面倒で、頭を呼び出したんだ。ここからはそうは行かないんだろう。
「そちらこそ、随分と俺みたいな素人の若造に執着しますね」
「お前は腕が良い上に、まだまだとはいえあの街でも名を知らない人間はいない。何かと役に立つだろう」
「竜崎紅は俺よりも、優秀なのに声をかけなかったのはなぜ?」
「あれは駄目だ。最近マシになってきたが、情ってものが薄い。自分で善悪を決めて、組のもんが不利になった時さえ、情に流されず簡単に切り捨てる。お前は違う。だから、小夜に言われてこうやって来てるんだろ。見た目はそうは見えないが、情がある」
「小夜は?」
「小夜? 自分の感情だけで口を動かす奴は、信用できない。アレがお偉いさんの使者でなければ、とっくに見切ってる」
「なるほどね。小夜に命令するなんて、何処の馬鹿だと思ってたけど」
「あ?」
 スマホが光って、紅くんから連絡が来たってわかった。結くんのところに着いたんだろう。結構無理をさせたけど、紅くんなら大丈夫。あの子のことだから、アプリに気づいたら、多分追いかけて来させまいと電源を切る。本当に位置特定が間に合って良かった。戻ったら、紅くんにちゃんとお礼して労わってあげなきゃ。あいつらが結くんにも手を出そうとしてるって、わざわざ教えに来てくれた小夜にも。
こんなに安心して、結くんを任せられる人なんていない。結くんは俺が誰も信じてないと思ってるみたいだけど、そんなことないって思える。ああ、でも結くん的には紅くんは危険人物だから快くは思ってくれないのか。
「俺がこの組織に入るなら、柿沼を潰してくれるって言ったみたいだけど、その必要がなくなった」
「いや、動機が逆転しているな。それはお前の勘違いだ。うちのシマの嬢も例の事件に巻き込まれてなぁ。小夜に探り入れさせようとしたら、どうやらうさぎは小夜のお友達って言うからよ。柿沼と引き換えに、別件で世話になった小夜を自由にしてやろうとしたんだ。だがな、他も迷惑しているのに、うちが潰すにしてもタダって訳にもいかないだろ。柿沼の坊ちゃんに下手に手を出せば、組同士でやり合うことになる。そうなりゃ、いくつ戦力が減るのやらで。お前さんが来てくれるなら、その分は補えるだろう。プラマイゼロってとこだな」
「つまり、俺は全部その柿沼って男の巻き添えを食ったというわけね」
「おい。お前、なんだ。その口の利き方は! お前のところの職場はそんな常識も教えてくれねぇのかっ!」
「なめてんのか、テメェ!」
「あーやだやだ。縦社会はこれだから、嫌だ」
 ああ、野太い複数の声がうるさい。十二畳ほどの部屋に男が十五人は座っている。普通の人ばかりなら多少の狭さを感じつつも座れるかもしれないけど、ここにいるのは鍛え抜かれた筋肉質の者や、単なる中年太りまでいる。むさ苦しいったら、ありゃしない。
「柿沼は、当分は大人しくなる。あんた達がわざわざ赴いて戦力欠いて、抗争を起こさなくても、奴の息の根も止まるかもしれない。それは運だ。誰にもわからない。でもこれで、あんた達が俺を巻き込む理由はなくなったはずだ」
「こっちはお前みたいな半端もんに、わざわざ声かけてやったんだ! なんだぁ、その言い草は!」
「声をかけてやった? 俺はあんた達の無事を祈って、ちょっかいかける前に教えに来てやったんだけどなぁっ!」
 大きな声を出して、口を出してきた奴の胸倉を掴む。ここで暴れるのは得策ではないんだろう。だけど、舐められっぱなしも、あとから面倒になるから少しの反撃は必要。頭が冷静なのは、こんな面倒なことを我慢できるのは、あの人たちのおかげ。あの子のおかげ。
「お前ら、ちっとは黙れ。鮭川ぁ? お前はヤクザと大して変わらないんだ。どうして、そこまで拒む。お前くらいの悪ガキなら、暴れたい盛りだ。妻子がいるわけでもない。周りに自慢して入りそうなもんだろうよ。小夜を見てみろ。毎日、羨ましそうにしている」
「こちらの組織がどんなもんかわからない。そりゃ、ヤクザにも殺しはやらないとか、薬はご法度とかいろいろルールがあるんだろうが。俺はそんなことはどうでもいい」
 スマホが再び光る。紅くんだ。張り詰めた糸が緩むのももう少しだという気持ちより、何かあったのではという気持ちが先行してスマホを開いてしまう。周りの怒号も掻き消されたように、時が止まった気がした。タイトルには無事と、たった二文字書かれていて、添付画像に写ってたのは縛られたあの子。瞳がやけに潤んで見えた。絶対泣いた。ああ、もう、本当。また泣かせた。
 ふざけて何度かしたこともあるけど、ろくでもない自分をいつか許せる時が来て、必要になったらって基礎は覚えていたのが役に立った。畳に正座をする。綺麗なものだったと思う。手を床について、頭を深々と下げた。
あの子の申し出を受け入れなかったのは賢明だったんだろう。あの子の一生分の時間も、あの子の全部も貰わない方が、何よりも楽に決まってる。失った時、苦しいに決まってる。実際苦しかった。だけど、例え君がいなくなって、酷い喪失感に見舞われるかもしれなくても。……万が一、誰かのものになってしまった君を全部貰えなくなって指咥えて見てるよりは、遥かにマシ。君の申し出を断ったことを撤回してもいいだろうか。家族が死んで、弟を死なせてしまった後の俺の酷く荒んだ昔話を聞いてくれるだろうか。また突き放されないといいけれど。俺のことなんて嫌いだって泣かないといいけれど。俺が素直になった瞬間に、君が泣かなければ問題ないけれど。
こんな俺が、君を好きになってもいいんだろうか。
「好きな子がいる。その子が泣くだろうから、この世界に俺は入れない」
 いや、これは少し図々しいな。
 静まり返っていた部屋がドッと沸く。そうだ。笑えばいい。おかしな話だ。中学生じゃないんだからと、何を開き直って言うかと思えばとクソジジイ共は笑う。いや、むかつくな。
「この通り、俺は餓鬼です。きっと何年経っても変わらない。そんな俺から、手を引いてくれますか」
「確かに子どもみたいな理由だが……謙遜するな、鮭川。その潔さも買うし、一般家庭を好むやつは筋通してから、足を洗うやつの方が多い。その決断がお前の場合、若いだけだ。家庭に入るのは、もっと老いてからでも問題ないだろ」
「それじゃあ、遅い。今じゃなくちゃ駄目だ。またあの子の考えが変わる前に貰わなきゃ。俺は今まで通り、あなた達とは線引きして生きていきたい。まぁ、人は嫌いじゃないからお外であって世間話するお友達になってくれるぐらいなら、嬉しいけど」
「はは。高校生じゃないんだから」
「いいじゃないですか。それで、俺は無事に返してもらえるの? あ、小夜はどうなります? くれるんですか、自由ってやつを」
「どうするかな。小夜はもう用済みだ。うちの情報も持ってない調べはついてる。元から自由にするつもりだったから好きにしろ。どうせ碌な死に方はしない。お前の好きな子とやらに手を出して、こっちに引き入れようなんて面倒なこともしねぇよ。こっちだってタダのチンピラじゃないから暇じゃない。怨恨あっての引き入れはこっちにとってもリスクが大きい。お前なんて所詮、柿沼のおまけだ。もういらねぇ」
「なら、なんです。もったいぶって」
「ただ、うちの敷居跨がせておいて、若造に丸め込まれて帰したなんて噂立たれたらしょうがねぇからな」
「俺、料理なら得意です。もうお迎えの時間なので行ってもいいですか? あとでまた来てから作ると夕飯にはギリギリ間に合うかなって思うんですが。和洋中なんでも作れます」
「お前と話すと力抜ける。そうじゃねぇよ。ここにいる十五人と屋敷内で鬼ごっこだ」
「残念。俺の料理美味いのに」
「それは機会があればな」
「急いでるんで手や足が出るかもしれないけど、多めに見てもらえるなら。その前に、さっき言ったこと約束して下さいね。俺が逃げ切ったら、俺が良いように念書作るんで、サインしてもらいますから」
「あぁ、約束しよう」
「これは普通にそちらの規約違反だけど、俺に手をあげたこと不問にしてあげます」


 高校の時、君があまりにしつこいから冗談で付き合った。そのはずなのに、俺は結くんに惹かれていた。ある日、あの子が顔を真っ赤にして改めて告白するって宣言して来たからそれに縋ろうとしていた。なのに、君の告白はいつでも聞けるからって甘えてた。甘えて、約束の日に喧嘩をしに行った。
改まった告白が、別れたいだとは夢にも思わなかった。
俺が約束を破った次の日、風邪を引いたと聞いたから謝罪と見舞いに行った。そこで幼馴染と会話するあの子の本音をドア越しに聞いた。
俺が怖いって、ずっと俺の傍にいれないって、俺が嫌だって。俺と……別れたいって。そりゃ、そうだろうって思う。君の好意を無碍にしてきたのは俺だ。なのに、君にとって理不尽であろう、なんで? って言葉が胸の中をじわりじわりと支配した。結くんは俺の傍にずっといてくれるって言ってたから、実際ずっと一緒にいてくれたから大丈夫だと思ってた。違った。つまり、また失ったのだ。君は他人だから、平気で嘘が吐ける。
学校に復帰しても、あの言葉らがなかったように俺に寄りつく結くんが、怖くて信じられなくなった。俺と別れたいのに本音が言えない君が可哀想で、嫌なことは言ったと思う。まぁ、その後、見事に伊織くんのことなんて、大っ嫌い! って、面と向かってビンタされてフラれたわけだけど。君が別れたいくせに、泣かれてしまった。ずっと疑問だ。なんで泣いたのか分からない。君が勝手に好いて、勝手に嫌いになったのに。悲しそうで嫌いだ。
高校二年の時の君が好きだ。だって、あの頃の君は俺を凄く好きだったから。出来ることなら、巻き戻したい。俺も、君のことは忘れられないな。君とは、意味が違うんだろうけど。
「いってぇ。手加減しろよ。クソ」
 正直、誰かの元で笑っててくれたら、まだ諦めがついたと思う。俺も王子くんくらい不器用なりに馬鹿素直だったら、良かったのかも。それでも、あの時あの子を傷つけた泣き顔は覆せない。忘れられない。
君が俺をもう好きじゃないなんて、言われなくてもわかってる。でも、これが終わったら、君が君をくれるなら……ずっと一緒にいてくれんの? もう、約束は破らない?
「泣いてたんだった。早く行かなきゃ」
答えはいらないから、好きって言ってもいい? もしかしたら、それだけで満足するかも。


 小夜くんは何かにずっと迷っているみたいだった。
「小夜くんはどうして、鮭川のお店に一緒にいたの?」
「伝えたいことがあったから。遅かったけど」
「鮭川のこと、助けようとしてくれた?」
「……別に」
「そっか」
 俺を捕まえて、鮭川をおびき寄せるなんてそんなこと、小夜くんならすぐにできたはずだ。俺を呼び出した時も、鮭川の部屋に来た時も、何度も攫えるような機会はあった。俺が思っていることが、もしも、そうなら。
「小夜くんは、昔みたいに元通りになりたい?」
「結くんって、結構むかつくよね。俺は伊織がもし、まだ独りなら、道連れにしようとしただけ。認めないでどっちつかず。持て余している、どうせ苦しんでるなら、一緒にいてほしかっただけ。結くんのことさえ、選べないなら、この先ずっと地獄だっただろうから」
「小夜くん? よくわからないけど、それって小夜くんも寂しいってことだよ」
「ん。もういいや。そういうことにしておこう。結くんさ、伊織と本当にずっと一緒にいてあげてね」
「小夜くんも、一緒だよ。小夜くんも、一緒にご飯食べたり、映画観たりしようね」
「どうかな。……ねぇ、結くん。ずっと疑問なんだ。伊織が詳しく話してくれなくて、俺もよく状況がわからないんだけど」
「うん?」
「結くんはどうして、伊織に別れたいなんて言ったの?」
「え?」
 俺が鮭川に別れたいなんて、いつ言った?
「伊織が女遊びとか散々なことをしていたから、ずっと好きでいろって方が難しかったんだろうけど。それでも俺は、結くんなら……なんて、勝手だね。ごめん。忘れて」
バイク音が聞こえて、小夜くんが来たねって笑う。こっちに向かってくる鮭川が見えた。すぐ近くに来るとバイクを乗り捨てて、鮭川が俺と小夜くんに飛びついてきた。
「結くん、小夜っ!」
 鮭川は大きい体なので勢いをつけられるととても痛い。でも鮭川は怪我をしていて、もっと痛そうだった。俺は涙で顔面がぐちゃぐちゃの顔を鮭川の胸に押しつける。あとでまた文句を言われるだろうけど、知らない。
「結くん。あちこち痛いから、優しくしてね」
「結くん、凄い心配してたんだよ。安心して喋れなくなっちゃったね」
「うん。ごめんね」
「伊織は、断ったんだってね。よく無事だったね」
「うん。囲まれちゃって、流石にやばいなって思ったけど。同時に解決する必要があったんだよね。店では、まさかあんなお粗末な襲来をされるとは思ってなかったけど、幸い怪我人は刺されても死なない人間だけだし。紅くんが庇った女の子も無事だったからね。紅くんは?」
「……病院行った」
「大丈夫だよ。結くん。怖い思いさせてごめんね」
「どうやって納得させたんだ。ただ入りたくありませんじゃ、通用しないでしょ」
 鮭川は小夜くんにピースをして、笑いかける。鮭川が両手で俺の耳を擽って来たから、二人の会話が聞こえなくなってしまった。
「好きな子が泣いちゃうから、ヤクザにはなれませんって言った」
「呆れた。伊織、馬鹿になったね」
「馬鹿だって向こうも諦めたんだろ。まぁ、円満解決ってところかな。ちゃんと念書も取って来た。今回の件で逆恨みなんて格好悪いこと向こうもしないでしょ」
「そんなにうまくいくわけないだろ。何したんだよ」
 良かったね、結くんって俺の頬っぺたを摘んで、伸ばしたり縮めたりしてご満悦な鮭川。よくわからないけど、鮭川が嬉しいのが嬉しくて、笑ったらおでこと頬っぺたにキスされた。突然のことに固まってるのも気にせずに、にこにこしている。喜びのあまりってことで、いつものように気にしたら駄目なやつだ。
「結くん」
「ん?」
「良い子に、紅くんに守られてくれてありがとう」
「?」
 浮かれている鮭川に首を傾げる。穏やかにも見えたその笑顔に言葉を飲み込んだ。
「いちゃつくな。でも……これなら安心だ。さて、迎えが来たから俺は行くね。楽しかったー」
「楽しかったとはなんだ。結構大変だったんだから。巻き込んでごめんね、くらい言ったらどうなんだ」
「俺がいなくても巻き込まれてたよ。逆に俺がいたから、対処しづらいこともあっただろうね。また二人に会えて良かった」
 俺が小夜くんと二人になる分には、あまり警戒をする必要はないと思っていた。そんなこと言ったら、怒られちゃうけど。
「じゃあな。今度はヘマするなよ」
「あいあい。じゃあね、伊織。結くんも元気でね」
「小夜くん? なんか、顔近……」
 ふにゅって唇に何かが触れて、手で感触を確かめる。今、ちゅーされた。
「あー!」
「伊織、うるさい」
「今、結くんの口にちゅーする必要が何処にあったんだ」
「親愛なる友人にありがとうの証だよ。伊織にもしてあげようか」
「絶対、いらない」
「俺だって嫌だ」
 小夜くんは時折、寂しさを見せる。小夜くんは時折……
 去り際に俺の頭を撫でていく小夜くんとさよならをした。ちゃんと、またねって学校でしていた時のように、さよならをしたんだ。
「バイバイ」
 俺が気づいて、君が気づかないわけがないね。
 小夜くんが歩いて行った曲がり角から、黒いワンボックスカーが走って行く。運転手はさっきまで一緒だった八木さんで、助手席には知らない男の人。それを見た鮭川が舌打ちをして嫌な予感がした。
 バイクに跨った鮭川の服を引っ張る。たくさん、声にならない声を出して首を振った。
「ごめんね。結くん、先に病院に行って紅くんに付き添ってあげてね? タクシーとか自分で呼べるかな」
「んっ、う……」
「あー。こらこら、泣かないんだよ。紅くんが一人で寂しいでしょ。駄々こねないんだよ。俺行かなきゃ」
「いお……りくんっ、行かないで……っ」
 伊織くん、行かなくていいよ、行かないでいいよ。俺は高校の時もそう思ってた。それが凄く後ろめたくて、君の前では絶対言えなかった。もう一度行ったら、君もどうなるかわからない。
「小夜は相手も選ばずに、俺より危ないことをしていたんだ。きっと結くんが想像できないくらいに痛い目にあうよ」
「行かなきゃ、いいよ。行かなくていいよ。だって、小夜くんが……さよくんっ……けーさつ……に、たすけて……もらおっ」
「警察には、小夜をそっちの世界に引っ張った人間がいる。自分に火の粉がかかるかもしれないから、そいつの手で小夜は消されかねない。でも、俺ならもしかしたら助けられるかもしれないから」
「おれが、行くからっ」
「あはは、結くんが行ってもどうしようもないでしょう」
「やだ、やだっ。おれの傍に……ずっといて」
「結くん……ごめんね。やっぱりもう、会えないのかも」
「だめ。すきっ。好きだよ」
 これは俺の我儘だ。好きだって言ったって、君が傍にいてくれないことはわかってる。何度目の正直なんてない。こんな簡単な言葉じゃ君を引きとめられない。
 いつかみたいに頭を撫でて、頬を擽られる。傍にいたくて、少しでも近づきたくて、背伸びをしてしがみついた。
「俺ね、高校のいつの日からかずっと、結くんのこと、かわいくてどうしようもないって思ってるよ」
「それって、どういう意味? どうして、今そんな話?」
「ごめんね。意地悪言う。俺のこと覚えてて、他の誰のものにもならないで」
 すり抜けていく大きな手が、もう掴めそうにない。
「ろくでもない男でごめん。忘れないでね。……俺が戻らなくても」
息ができなくなるくらい追いかけて走った。躓いても揶揄って、しょうがないって笑って支えてくれない。小夜くんはやっぱり嘘つきだ。俺なんていても駄目だし、俺がいなくならなくても、鮭川の方からいつもいなくなる。
「すきだよ。鮭川」
 君のことなんて、今すぐにでも忘れてしまいたい。





FIn.
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