よあけ

紙仲てとら

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本編

第50話

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 ファストフード店で軽く昼食を済ませたチカルは、タビトの家へ向かった。
 マフラーも手袋もジャケットも、その下に着ているスウェットシャツも――先日シュンヤに買ってもらった新品だ。着古してくたくたになった服も体に馴染んで着心地がいいが、新品特有のぱりっとした感じも悪くない。
 あの日、新しい洋服を手に入れたことはもちろんだがそれ以上に、シュンヤが最後まで笑顔でいてくれたことが嬉しかった。
 彼のことを完全に許せたわけではないが、ふたりで穏やかに過ごしたことでだいぶ心が和らいだ気がする。あとは、時が解決してくれるだろう。なかったことにはできなくとも、辛い記憶を幸福で薄めることはできるはずだ。
 外した手袋をまじまじと見てほのかな笑みを口角に刻むと、彼女は心弾む気持ちで足取り軽くマンションのエントランスを抜ける。
「こんにちは。お世話になります」
 玄関に入ると、タビトが明るい声で迎えてくれた。これまでの彼はいつもどことなく緊張している様子だったが、今日はリラックスしているのか、柔らかな面持ちだ。
 チカルは、慇懃な挨拶に続いて深く頭を下げる。
「先日は誠に申し訳ございませんでした」
 そう言って、借りたパーカーが入っている紙袋を差し出した。
「洗濯してあります。本当にありがとうございました」
 タビトは爽やかな笑顔でそれを受け取り、上がるよう促す。
 一礼したチカルは、服を返せたことに心から安堵していた。
 思えば、あんなに必死になってシュンヤに立ち向かったのは初めてかもしれない。自分の手首を握り込み服を奪おうとする彼の凄まじい力を思い出し、今さらながら全身に震えがはしる。一時はどうなることかと思ったが、この青年の顔を曇らせる結果にならず本当によかった。
 そんなことを考えながら靴を揃えている彼女の背を見つめていたタビトは、すこしだけ距離を詰めて静かに声をかける。
「チカルさん」
 ぱっと振り向いた彼女の、夜空色の瞳を覗き込んだ。
「下の名前で呼んでも?」
「――ええ」
 ほとんど反射的に頷くと、タビトはほのかな笑顔を浮かべる。
「俺のことも、これからはタビトって呼んでください。ファンのみんなにも呼び捨てにされてるし、そっちの方が馴染みがあるんで」
「それは……」突然の話にチカルは目を泳がせ、「できません。呼び捨てなんて」
「じゃあ、タビト“くん”で。だめ?」
 美しく輝く双眸を細め、タビトは甘えるような声を出す。
「でも……」
「苗字で呼び合うのって堅苦しくて苦手なんです。長い付き合いになるんだし……ね?お願い」
 長い付き合いという言葉に、チカルの表情がわずかに明るくなる。堅苦しく生真面目な性格が災いし、利用者との関係をなかなか維持できなかった彼女にとってありがたすぎる言葉だ。
 ここで頑なに断ってしまえばきっと、いつもの結果になってしまう。そう思うと喉が詰まったように苦しくなった。
 今が変わるチャンスかもしれない――深く考えることをやめてほとんど勢いのまま、彼女は頷く。
「かしこまりました」
 緊張の滲む声で言葉を返すと、すぐさま後悔が押し寄せてきた。いたたまれない気持ちになりながら唇を噛み締め、タビトから視線を外す。握り込んだ手の中にはしっとりと汗が滲んでいる。
「やった!うれしい」
 こちらにとってこんなにも覚悟がいることでも、若く美しいこの男にとっては些細なことなのだろう――満面の笑みを浮かべて無邪気にはしゃいでいる。今日の彼はやけに明るい。チカルはなんとなく調子を崩されてしまう。
 彼からは「お願い」すれば必ず聞き入れられると信じて疑わない傲慢さが透けて見える。この傲慢さが不快なものに感じられないのは、無邪気な態度と屈託のない笑みのせいだ。天真爛漫に振る舞う彼を前に、チカルはわずかにたじろいだ。
「チカルさん、これからもよろしくね」
「こちらこそ……よろしくお願いします」
 細くつぶやいて、上目遣いで彼を見ると……なにやら期待している顔で瞳を輝かせている。彼女は先ほどよりも更に消え入りそうな声で言った。
「――タビト君……」
 名前を呼ばれるなり、へへと笑ったその顔は本当に嬉しそうだ。見ているとこちらまでこそばゆくなる。
「あ、そうだ。チカルさんの服洗っといたよ」
「お気遣いありがとうございます。お手数をおかけして申し訳な――」
「だめ。堅い言い方は禁止。そんなにかしこまらないでよ」
 全部は言わせず、爽やかに笑う。生まれたての朝陽のような清いきらめきを宿したその顔は――なんというか、圧が強い。チカルはずり落ちた眼鏡を押し上げ、まぶしそうに目を細めた。
 洗面脱衣室から戻ってきたタビトは、「はい、これ。忘れないように渡しておくね」高級ブランドのロゴが袋の中央に印字されている上等な紙袋を差し出す。まさかこの袋の中身が、袖口がほつれた7年物のセーターとは誰も思うまい……
 ぎこちなく受け取るチカルをにこにこ顔で眺めるタビト。「完全無欠のアイドル」という自己暗示から解き放たれ、等身大の自分で接することを決めた彼は、以前とはまるで別人だ。
 タビトの心境の変化などつゆ知らず、チカルは調子を狂わされたまま仕事に取り掛かる。
 彼はリビングのソファに座って雑誌を読んでいたが、部屋と部屋を行き来するチカルのことが気になって仕方がない。彼女がリビングを横切るたびに彼の視線は紙面から離れ、その背中をこっそりと追いかける。
 チカルは今日、初めて見る色のスウェットシャツを着ていた。深い青でなく、透き通るように薄い青。彼女の白い肌によく似合うペールブルーは、レースのカーテン越しの陽光にやさしく光っている。
 ドライルームから出てきたチカルはタビトの傍に来ると、
「掃除機をかけたら換気のために窓を開けますので、お風邪など召さないようこれを……」
 畳んだ洗濯物の中からブランケットを取り出し、彼に差し出す。
「埃っぽくなるのでマスクもした方が」続けてそう言って、ウエストポーチから個包装されたマスクを出して手渡す。「喉を痛めてはいけませんので」
 フィルムを破ってマスクを取り出すのを見届けた彼女は、リビングクローゼットからフローリングワイパーと掃除機を取り出した。それらの掃除用具を手にリビングと寝室を仕切っている引き戸を開けると、寝室の奥へ消えていく。
 やがて掃除機をかける音がリビングまで聞こえてくる。タビトは言われた通り素直にマスクをし、ソファの上で長い脚を抱えて再び雑誌を開いた。数ページめくったが溜息と共に閉じ、雑誌の代わりにカーペットクリーナーを手にすると寝室を覗く。掃除機をかけ終わり、窓を開けていたチカルが振り返った。
「お手伝いします。暇だし……」
「私の仕事ですのでお気遣いなく。ごゆっくりなさってください」彼の手からカーペットクリーナーを取り上げて、「寝室の掃除は済みました。次はリビングを掃除しますので、どうぞこちらに」
 タビトはブランケットと雑誌を手に、寝具のはがされたマットレスに座った。高層階は常に風が強めだ。彼は半分ほど開けられた窓からの冷気に震えてブランケットにくるまる。
 忙しいときはすべて任せるにしても、今日のように時間に余裕があるときは邪魔にならない程度にアシストしたいと思うのだが……生真面目なチカルが相手となると一筋縄ではいかなそうだ。
 難しい顔で唸ったそのとき、リビングで何かが倒れる音が聞こえた。
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