よあけ

紙仲てとら

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本編

第85話

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「本当にナウラオルカとの契約を切ったんだね」
 アコは会議室の長テーブルを挟んでムナカタと向かい合っている。
「篠ノ丸のキリヨシさんとの話も進んだからな。こういうことは早い方がいい」
 本音を言えば、彼はまだアコと会うつもりはなかった。当初の予定からだいぶ狂ってしまったからだ。だが彼女の方が突然事務所に押しかけてきた――どうしても話がしたいと。
「ミツキは会社にも来なくなりました。あの子ほんとうに、ウル・ラドだけが目当てだったみたい。タキトウがストルムミュージックに陳謝しに行ったけど……ミュトスとの仕事は、なかったことにされたって」
「そうか」少し間を置いてから訊ねる。「君のチームはこれからどうなるんだ」
「ランもいないし、ミツキの代わりの人材も入れてもらえなくて……チームは解散した。私個人としても、もう誰の担当にもならないよ」
「まさか……スタイリストを辞めるのか?」
 ムナカタの表情に緊張がはしる。
「違う違う」アコはからっと笑って、「実は、ナウラオルカに退職届を提出したんです。ウル・ラドにはもう携われないし……上のやり方に愛想が尽きたから。退職日までの残りの期間は単発の仕事しか受けないってだけ」
 聞きたかった“退職”の言葉を耳にするも、ムナカタは喜べない。まだ計画半ば、諸々の手続きに奔走しているところだ。とにかく会社を立ち上げなければなにも始まらない。
 彼はきりきりと痛むこめかみに指を当てる。
「――実は、うちも事情が変わってな」
「変わったって?」
「キリヨシさんといろいろ話してね。とりあえず、スタイリストとヘアメイク担当者を準備してもらえることになったが……」
 そこまで言って、唇を閉じる。これ以上自分の手の内を話すのは得策ではない。
「……そっか。手を貸してもらえたならよかった」
 やけにしんみりした口調だ。その憂いの根源は、訊ねるまでもない。ムナカタは黙って彼女の次の言葉を待った。
 ――ナウラオルカを退職するとなれば、ランと共にであろう。仲間をなにより大切にしてきた彼女のことだ、馴染みのスタッフを連れて出る可能性も大いに期待できる。
 アコがウル・ラドに未練を残していることは想像に容易い。たとえ仲間と共に新しい場所に身を置いたとしても、新会社が設立されたと聞けば門戸を叩いてくるに違いなかった。こちらはそれを温かく迎え入れてやればいい……
 そんな思惑を知ってか知らずか、アコは間延びした声で言う。
「私……フリーランスのスタイリストになろうと思ってるんですよね」
 意表を突かれたムナカタは一瞬動きをとめ、ゆっくりと視線を上げた。驚愕に見開かれた瞳をまっすぐに見つめ返し、アコは話を続ける。
「常務にさんざん振り回されたし、誰かの下につくのはもうこりごり。ひとりで自由にやる方が気が楽なんで、営業活動とか事務処理のやり方とか、フリーランスで生計立ててる友人たちに話を聞いてるところです」
「――ランや他の仲間と一緒じゃないのか?」
 訊ねるとアコはかぶりを振った。
「ナウラオルカに残るって。他のみんなも。だから、出るのは私だけ」アコは気丈に笑って、「人手不足なとき、たまには現場に呼んでよね」
 ムナカタはどうとも答えない。いや、答えられなかった。
「君はいつも私の想像の上を行くんだな。あんなにチームにこだわっていたのに、あっさりそれを捨ててフリーランスでやっていくと言うなんて」
「私の手のなかにはもう何も残ってない。……誰の力も借りずに自分の力で立ち上がって、もう一度やりなおしたかったんだ」
 ふたりのあいだに沈黙が流れた。
 再び口を開いたのはムナカタの方だった。彼は心底落胆していたが、平静を装って言う。
「一心同体だった君たちが袂を分かつ日が来るとは。チームが解散してもいずれまた、共に仕事をするものだとばかり……」
「私の元には戻らないって言われた。隣にいるとどうしても甘えが出るからって。自分の成長が止まるって――」
「そうか」つぶやいた彼はテーブルの上で肘をつき、組んだ指を額に当てる。「それでもランをあの会社に残して去るなんてことだけは、絶対にしないと思っていたよ」
「他人の行動を勝手に予想して決めつけるなんてね。もっと現実的な考え方をする人じゃなかった?」
 彼は組んだ手の陰で密かに笑った。
 アコのこれまでの言動を長く見てきて、義理や人情に重きを置く自分と同じだろうと勝手に思い込んでいた。彼女がここまで合理的な人間だと見抜けなかったこちらの負けだ。
「退職するにあたって他のメンバーだけでも引き抜こうとは考えなかったのか?」
「みんな怒ってたし、誘えばついてきてくれたかも。でも、ナウラオルカに所属するメリットはたくさんあるから……。名が知れてるし、大手の仕事もまあまあ来るし。会社の将来性と私、どっちに価値があるかな?って天秤にかけたとき、重さは会社側に傾くだろうなって。あの子たちの人生を背負えるほどの技量、私にはまだないよ」
 ムナカタは奥歯を噛み締め、喉の奥で小さく呻いた。
「参ったな」
「え?」
 その言葉の意味を図りかねて、アコは訝し気に眉根を寄せる。
「――なに、うまくいかないことばかりだと思ってね」
「だよね」
 困ったような笑みで口元を崩して、彼女は頷く。
 お手上げだ……ムナカタは胸の奥でつぶやく。こうも目論見が外れたとなれば、手の内を隠す理由はない。
「アコ。ひとつ頼みがある」
「なんです?」
「私が設立する会社の社長になってくれないか」
「はあ?社長?」
 アコはあっけに取られた様子でそれ以上の言葉が出ない。
「当初は社内に部署を立ち上げる予定でいたが……事情があって子会社を設立することになってな。――まあ、最後まで聞いてくれ。君にもメリットはある。業績が悪化しても、うちが支援するから個人事業よりも安定した経営が可能だ。福利厚生も親会社と同じく充実させる。それにうちだって、業界ではそこそこ名の知れた企業だ。仕事だって取りやすいぞ。悪くはないだろう?」
「――そりゃ悪くはないけど……要するに雇われ社長ってことですよね?子会社なんてどうせ親会社の言いなりじゃないですか。……ていうか、さっきの話聞いてました?もう誰の下にもつきたくないんですってば」
「子会社の株式は、オフィスウイルドがすべて保有する――こうなると実質、親会社に経営権を握られていることになるが……役員人事についても業務運営についても、君の意向に反対はしない。任せると約束しよう」
 アコは鼻で笑った。
「うまいこと言ってさ……。完全子会社に自由なんてあるわけないよ。どうせ本社で使えない人材の天下り先にでもするつもりでしょ?そいつらがでかい顔して、私はただのお飾りに成り下がるのがオチ。またいいように使われるのはごめんですよ。お断りします」
「うちに使えない人材などいないから天下り先などいらん」彼は苦り切った顔で言い放つ。「そもそも私は子会社を設立してどうこうするつもりなどなかった。これはキリヨシさんからの指示だ」
「指示?どういうことですかそれ」
「優れたスタッフを手配してやるから、彼らにふさわしい場所を用意しろと言われた。狭苦しい会社の一角、間に合わせのように作った部署などとんでもない……そんな場所に将来性のある優秀な人材を配属するなど言語道断というわけさ」
 それを聞いたアコが破顔し、手を叩いて大笑いする。
「だから大金を投じて新しく会社を作れって?あのおじいちゃん、やっぱりぶっ飛んでるね。好きだな」
「私は笑えないね」
 すべて種明かしをしてしまえば、残るのは虚しさと焦りだけだ。ムナカタは深く溜息をついた。
「キリヨシさんは私のために、知り合いに頭を下げてくださるそうだ。彼もあの人の顔を潰すような半端なことをするつもりはない……資金を惜しまずつぎ込んで、設備面でも万全の準備をしておく。君が合意してくれればもちろん、ウル・ラドを担当するスタッフの選抜は任せるよ。チームを作るつもりなら、キリヨシさんが寄越してくれるスタッフだけで固めなくてもいい。自分が信用できる人材で最高のチームを作れ。なにもかも君の自由だ。それでもだめか?」
 当然ながらアコは即答しない。しばらくのあいだ黙って腕を組んだまま椅子の背もたれに体を預けていたが、やがて腕組みを解いて言った。
「すこし考えさせてくれない?」
「もちろんだ」
 立ち上がったアコが、大きく伸びをする。
「帰るよ」
「私ばかりしゃべってしまったが……君の方から何か話があるからここに来たんじゃないのか?」
「キリヨシさんとの話がどうなったのか聞きたかっただけ」
「それだけ?」
「そう。ウル・ラドをサポートする人材がちゃんと確保されるかどうか確認してから、安心して次の仕事に打ち込みたいと思って」
 ムナカタは薄く唇を開いたまま絶句する。
「その顔……。私が、ウル・ラドと仕事をさせてほしいって頭下げて頼み込んでくるとでも思ったの?」
 彼は答えなかった。ただ表情を苦々しく歪めただけだ。
 それを黙って見つめていたアコは、静かに呼びかけた。
「ムナカタさん」
「なんだ?」
「ごめん。さっきの話さ……考えさせてくれなんて言ったけど、たぶん今の気持ちはずっと変わらないと思うから辞退させてもらうよ。あいつらが輝いてる姿をいちばん近くで見てたい気持ちはあるけど、やっぱり……自分らしく生きることを優先したい」
「――アコ……私からの頼みを受け入れても自分らしく生きることはできる。まだすこしでもウル・ラドのことを気にかけてくれているのなら、共に働こう。絶対に後悔はさせない」
「ウル・ラドと一緒に仕事をしたい気持ちと同じくらい、自分の生き方も大事に思ってる……。私はもうなにも奪われたくないし、誰からの支配も受けたくないんです」
「支配なんてしない。信じてくれ」
「他人を信用したから居場所を壊されたし、ランを失った」
「――彼女をもう一度説得するつもりはないのか?」
「ないよ」
 鞄を肩に引っ掛けて、アコは背を向けた。しかし彼はなおも食い下がる。
「君たちを歓迎する。だからもう一度ランと話を、」
「もう無理だよ」ぴしゃりと遮って、「私……さっき嘘ついた」
 状況が呑み込めない。戸惑うムナカタに、彼女は続ける。
「本当は、ランも会社を辞める。ミュトスを担当してみて、なにか思うところがあったみたい……独立して、ストルムミュージックに自分を売り込みに行くつもりらしい」
「なんだって?」
 眉をきつくひそめると、アコが振り向いた。その表情は彼が考えていたよりも穏やかだ。
「嘘ついてごめん。ランのことは私の口から言うべきじゃないと思って……――でも、ムナカタさんがまだ私たちの関係性に期待してるなら、はっきり言っておくね。もしストルムミュージックに雇ってもらえなくても、あの子にはもう、ウル・ラドをサポートする気はないと思う。いちど離れた場所に戻ってくるような子じゃないから」
「――そうか……」
 そう答えるのが精一杯だった。
「ランがウル・ラドのライバルグループに行こうとするなんて思わなかったでしょ」
「ああ……まさかこんなことになるとは」
 薄く笑って言ったが、声にいつもの覇気がない。
「ランがウル・ラドから外されてミュトスの担当になると決まったとき、私が直接、彼女と話をしていたら……なにか変わっていただろうか」
「変わらなかったと思うよ。あの子は人情に流されないタイプだし、人にも物にも執着しない。自分の能力を磨くチャンスが転がってきたらそれを手にするためにどこへだって行くし、なんだってやる。そういう女なの」
 ムナカタは背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
 ランがウル・ラド以外のグループを担当したのは初めてだ。業界最大手の事務所所属のアイドル――その現場に携わったことで、彼女のなかで新たな野望が目覚めたのかもしれない。
 ミツキの我儘さえなければ、ナウラオルカにミュトスの仕事が回ってくることはなかったであろう。思わぬところで繋がった縁だ。チャンスは掴むもので、ランは素直にそれを手を伸ばそうとしているだけ。そうとわかっていても、彼は歯噛みする。なにか酷い裏切りにでも合ったかのような気分だった。
「頼む。君だけでも来てくれ。ウル・ラドには君が必要だ」
 熱を帯びた彼の懇願に、アコは薔薇色の唇をぎゅっと引き結ぶ。冷たい手で心臓を掴まれてでもいるかのように身を凍らせて、彼女はつぶやいた。
「――私は自分のチームを守れなかった」
 自嘲しながら、ブロンドの髪を乱暴に掻き上げる。宙に投げていた視線をムナカタに据え、言った。
「精神的支えだったランを失ってから、自分がいかに未熟か思い知ったんです。チームワークが良好だったのはいつも穏やかなランのおかげだったし……私の仕事は、ランのメイクが完成させてくれてた。――あの子がいなきゃ私なんて何の役にも立たないかもよ。それでも必要としてくれる?ムナカタさん」
「当然だ。君がいてくれなければ困る」強い口調で、彼ははっきりと口にする。「ふたり揃えばウル・ラドを安心して任せられることは確かだが……それ以前に私は、君の仕事に惚れ込んでいるんだ」
 それを聞いたアコは泣き笑いのような顔をした。なにか言おうとするように唇を開いたが、結局言葉にできない。
「ナウラオルカでの君は、力を持たなかった。だがこれから先は違う。自由にできる力を手にして、存分に暴れてくれ」
「暴れるって……」
 アコはわずかに表情を和らげる。
「豪放磊落な怖いもの知らず。これが本来の君じゃないか」
 さみしく微笑んだまま首を横に振って、彼女は踵を返した。
「答えを急がずにどうか考え直してほしい。――頼む」
 ムナカタの言葉がその背を打つも、今度は振り向かずにドアの向こうに消える。
 静まり返るなか、彼は椅子に腰を下ろし溜息と共に目元を押さえると、しばらくそのままでいた。
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