よあけ

紙仲てとら

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本編

第89話

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「あー!マミヤいた!」
 まだ幼い声が室内に響き渡る。にわかに廊下が騒がしくなり、幼年クラスの生徒たちがわらわらと集まってきた。たくさんのちいさな体が扉をふさぎ、次々に叫ぶ。
「チカルせんせいもいる!」
「なにしてんのぉ?」
「デートだ!」
 一気に辺りが賑やかになる。椅子から立ち上がり室内に戻ってきたマミヤを目にしたとたん、ひとりが彼に向かい駆け出した。それを見た他の子どもたちも一斉に部屋になだれ込み、わいわい騒ぎながら先頭の少年のあとに続く。そうしてあっというまにマミヤを取り囲み、腕やら服やらをあちこち引っ張った。
「かくれんぼしてたんでしょー?」
「マミヤ、かくれるのへた!ボクねえ、すぐみっけちゃったもん!」
「おれがさいしょにみつけたんだよっ」
「つぎマミヤがオニね!」
 もみくちゃになった彼は、よろよろしながら叫ぶ。
「かくれんぼはおしまいでーす!みんな道場に戻った戻った!」
 ヤダー!という拒否の大合唱をなだめすかしながら、彼はチカルに振り向いた。
 ちょうどバルコニーから室内に入ってきた彼女は視線に気付いて顔を上げ、そっと手を振る。彼は困ったような――これまでに見たことのないくらい優しい笑顔で軽く手を上げて返すと、子どもたちに囲まれてミーティングルームを出ていった。
 チカルも彼らの後に続き階段を降りる。すると、階下でナルカミが待っていた。
「すまない。下駄箱にマミヤの靴があるのを見てみんなが大騒ぎしてな……2階には上がらないようにと言い含めておいたんだが」
 申し訳なさそうな顔で弁明する彼にチカルはかぶりを振って、
「ちょうど話が終わったところでした」
「マミヤがまた変なことを言わなかったか?」
「まさか」彼女は目を細めて、「いつも通りの優しい彼でした」
 その言葉にナルカミも笑って、
「あいつ、あれから禁酒してるらしいよ。いつまで続くかはわからんがね」
 ふたりは自然と横並びになり、廊下を歩き出す。
「――ところで……昨日、定例会議があってな。長野の戸隠まで行ってきた」
「本部道場の後継ぎの件で?」
 ナルカミは神妙な顔で頷く。
「ヤスケ先生が親戚中を回ったらしいが、みんな本部道場の経営に携わることには消極的らしい。村の過疎化と高齢化が進んで、道場に通う子どもが年々少なくなっているからな……もう潮時と考えているんだろう。トップも経営者も不在となれば、本部を東京に移すことになる」
「東京……となれば、池尻の仙寿道場が本部になるのでしょうか」
「恐らく。規模が一番大きい道場だからな。ただそうなると……トキワが銀湾会のトップ――つまりヤスケ先生の後継者になるわけだ」
 言うなり、苦いものでも食べたような顔になる。続けて深く大きな溜息をつき肩を落とした。
 トキワのことはチカルももちろん知っている。ナルカミの幼馴染で、あまりに浮世離れしていることから仙人と呼ばれていた。どこからともなく現れていつのまにか消えている、飄々とした印象の優男である。
「ヤスケ先生もトキワの統率力のなさを心配しておられた。なにしろ無責任な奴だ……多くの実績を残してきたし仙寿道場の客寄せとしてはピカイチだが、稽古も経営も弟子に丸投げらしい」
 ナルカミは立ちどまり、彼に倣って足を止めたチカルに体ごと向き直る。
「なあチカルさん。ヤスケ先生の後を継ぐ話、もう一度考えてもらえないか?」
「先生に言われたんですね」
 伏し目になり、彼女は短く口にした。
「――その通りだ。もしチカルさんがその気になってくれれば、先生がチカルさんのために東京に道場を新設するとおっしゃっている。そこを本部にして、新しいスタートを切ればいいと」
「私にはわかりません。先生がなぜそこまで私に期待してくださるのか……」
「他の誰よりもチカルさんが、自分の教えと志を継いでいる……先生はそう思っているんじゃないか?」
「そうでしょうか……」
 細い声でつぶやいたチカルを、曇りなき眼で見つめる。
「俺も、マミヤとの一件でそれを実感した。先生の教えを後進に正しく伝えられるのはあなたしかいない」
「――私……」突如として込み上げてきた哀しみを堪え、言葉を続ける。「ここに……かんなぎ道場にいたいんです。それでも先輩は、先生の後を継げとおっしゃるのですか」
 ナルカミは胸を衝かれたように黙り込んだ。しかしそれも一瞬で、彼は断固とした声音で言う。
「そうだ」
 チカルは拳を握りしめて床を睨む。うつむいた拍子に耳周りの髪が頬にこぼれ、彼女の横顔を隠した。
「俺は――親や周囲の大人から、男は女を守るべきだと教えられてきた。男は強き者であり、女は弱き者であると」
 彼は真剣な面持ちで、哀しみに沈み心を閉ざしている妹弟子に呼びかけた。
「チカルさん。女性が組織のトップに立つのを嫌がる連中がいることをあなたも知っているだろう。俺も、嫌悪感こそなかったが務まるのかどうか心配に思っていた。武道の世界はまだまだ男性優位な部分が多くある……そんな場所を、女性であるあなたが取り仕切ることが、果たしてできるだろうかと」
 普段交わす言葉の端々から、ナルカミがそう思っているだろうことはわかっていた。決して女性を侮蔑の対象としているわけではない。だが、男より力も立場も弱い存在は庇護しなければという、正義感に似た強い意志が彼にはあった。
「マミヤとの一件もそうだ。――先生に叱責されたよ。武道を極めようとする者に、男も女もない……そこには人と人がいるだけだ。今の今までこの考えに至らなかったことを、心の底から恥じている」
「……『真の平等は、彼我の差を知ることから始まる』」
「ああ、そうだ。――先生がいつも言っていたな」
 性差や年齢差にとらわれず、互いの性質を理解し等しく尊重せよ――その言葉を、チカルははっきり覚えている。
 昔……まだ中学生の頃だ。男と同じ扱いをしてほしければ男と同じ稽古をしろと、シュンヤに言われたことがある。その言葉を真に受け、躍起になって彼らと同じメニューをこなし、体力の限界で倒れて救急車騒ぎになった。
 どんなに必死になっても、いつも周りに笑われるだけだ。男と対等になるために、平等に権利を得るために、これから先もこんな屈辱を経験しなければならないのかと、病院のベッドでひとり泣いた。
 女に生まれて。
 かなしかった。悔しかった。いとわしかった。その気持ちを正面から受け止め導いてくれたヤスケは人生の師――あまりに大きな存在だ。
「私に背負えるでしょうか……先生がこれまで積み上げてきたものを」
「チカルさんならできる。――いや、チカルさんにしかできない」
「先生は、己を信じる強さをどう育むべきかは教えてくださいませんでした」
 薄い水の膜を張った彼女の瞳は、薄暗い廊下でもぎらぎらと光っている。
「先輩……私は、怖いのです」
「あなたは完璧だ。なにを恐れることがある?」
「なにもかもを」
 項垂れたチカルは吐息のように答え目を閉ざすと、血の滲むほど唇を噛み締めた。
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