よあけ

紙仲てとら

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本編

第102話

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 連れて行かれたのは寝室だった。
 半ば強引に、ドレッサーの前の椅子に座らせられる。チカルはゆるりと頭を上げて、磨かれたラウンド型の鏡に自分の顔を映した。一切のぬくもりを感じさせない、冷ややかな両目が見つめ返してくる。
 この顔をいちばん嫌っているのはきっと、母でもなくシュンヤでもなく自分だ。醜悪な顔に耐えきれないというようにすぐに視線を外してタビトの方に向けた。
 彼の顔は正面から見てもくまなく美しいが、均整のとれた横顔もまた芸術的ですばらしい。冷たいのとも違う涼し気な眼差しと、つんと尖った鼻先、口角の上がった唇。涙のようにこぼれている、小さなほくろ――
 チカルが声もなく見つめていると、彼はドレッサーの引き出しをさぐりながら言った。
「実はちょっと前、乃木坂でチカルさんを見かけたんです」
「え?」
「蕎麦屋の前で……並んでたでしょ?男性といっしょに」
「ああ、」彼女はわずかに目を瞠って、それからきまり悪そうにはにかむ。「見られていたなんて。恥ずかしい……」
「ごめんなさい。ロケバスで移動中だったから、声かけられなくて」
 もし散歩中だったとしても、あんなに仲睦まじい様子を見せつけられては――話しかけられるわけがなかった。気持ちが沈みかけたが、それを隠して彼は明るく言う。
「そのときのチカルさんの格好、すてきでした。私服もシンプルなのが好きなんですか?」
「――ええ」
 短く答えたチカルをほっとしたような顔で見て、
「そうですか……なら、」彼は、空気を含んだ緩衝材に包まれたピアスを差し出した。「これ。たぶん、チカルさんが好きな服装に合うと思うんだけど」
 開けてみて。そう言われて、彼女はそっと中身を取り出す。小ぶりの、シンプルなボールピアスだ。
「新品だよ。気に入って買ったんだけど、しまい忘れてたんだ」
 戸惑いの顔で見上げると、彼の瑞々しい瞳が間接照明の柔らかい光に照らされて優しく微笑んでいる。
「あ、もし派手な方がよければ……」言いながら再び引き出しを探り、「こういうのもあるよ。気に入るものがあるといいけど」
 宝石のついたものや、星や動物モチーフのピアスが鏡の前に並べられる。
「……私に似合うと思いますか?」
「俺が似合わないって言ったらやめるの?」
 不思議そうに問う。
「俺の意見なんかいいから好きなの選びなよ」
 その言葉にチカルは胸を衝かれて黙り込んだ。背中を押されたような気持ちだった。
 彼女は真剣な顔でひとつひとつじっくり眺める。小さな宝石がきらめくピアスにも心を惹かれたが、やはり最初に渡されたボールピアスに視線を戻した。
「それが気に入った?」タビトは穏やかな笑みを浮かべ、「じゃあ……消毒液もあるし、さっそくつけてみませんか?」
 チカルは逡巡している様子でまぶたを伏せ、マスクの下で唇を真一文字に引き結んでいる。
「無理にとは言わないよ」彼は膝をつくと、チカルの手をピアスごと手のひらで包む。「つけたいと思ったときにつけて、俺のところにおいで」
 彼女はゆっくり顎を引き、燃えるように熱くなったまぶたをきつく閉じた。それから思い切ったように顔をあげて、
「今、つけてみたいです。……いいですか?」
「もちろん」
 言うが早いか彼はリビングの棚から救急箱を持ってくる。新しい消毒液の封を切って、滅菌済みのガーゼにしみ込ませた。
「ホールがだいぶ狭くなってそうだけど……自分でできる?」
 頷いた彼女はマスクを外す。
 耳朶とピアスを消毒し、鏡を見ながらホールにピアスのポスト部分を当てた。しかしなかなかうまくいかない。
「やってあげる」
 タビトはそっとチカルの指からピアスを取った。
 妙に冷静な自分を心地よく感じながら、チカルの耳朶に指を伸ばす。透明な産毛をなぞって、優しく指を添えた。そうしてゆっくりとポスト部分を押し込む。
 裂けるような鋭い痛みがはしり、チカルは思わず小さく呻く。タビトは詰めていた息を放ち、微熱を孕んだ声で問うた。
「痛い……?やめようか……」
「大丈夫です……続けてください」
 その言葉を聞くと、彼は浅く頷いて、ぐっと力を込める。
 閉じた肉を無理矢理に開いていく感触がピアスを通して生々しく伝わってきたが、もうタビトはためらわない。
 滲み出た血が彼の指先を濡らした。苦痛にゆがむ眉や、潤んだ瞳……吐息をこぼすちいさな唇を見つめながら、すべて押し込んで貫通させる。
 もう片方の痛みにも耐え、彼女は疼く両耳を交互に鏡に映して眺めた。タビトも同じく見つめ――正直な思いで、静かに言った。
「きれい」
 鏡の中で目が合い、微笑んだ彼は続ける。
「すごく似合うよ」
 その言葉に彼女は泣き笑いのような表情をする。
「ありがとう」
 消え入りそうな声で言い、外していたマスクをつけて顔を半分隠した。喜びは微塵もない。あるのは申し訳ない気持ちと、情けない気持ちだけだった。
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、鏡の中の彼が言う。
「――で、チカルさん。“お願い”は何にする?」
 突然そう問われたチカルは、声に戸惑いを滲ませる。
「もう叶えていただきましたが……」
「さっきのは俺の正直な感想だもん……チカルさんに頼まれたから言ったわけじゃないよ」
 衝撃のあまり言葉を失くしているチカルに優しく笑いかけて、
「“お願い”は、いつでもいいから。思いついたら教えて」
「でも……」
「でも、は禁止」
 いたずらっぽく言って鏡の中から視線を外し、直接のぞき込んでくる。そうして彼がにんまりと愛らしく、いつものように笑うので、チカルもつられて笑ってしまう。
 玄関先で彼女を見送ったあと、タビトは洗面脱衣室に入った。
 やわらかな灯りの下で、無意識に固く握り込んでいた両の手の平を開く。指先が、チカルの血で薄く染まっている。
 ――彼女の憂いの片鱗を、確かに見た。
 単純に称賛を求めているわけではないことはすぐにわかった。ただ褒めちぎられたいだけの人間があんなに悲痛な表情をするものか。
 チカルの願いの裏にあるものを知りたかった。心のどこかが枯渇しているなら、そこに甘い言葉の雨を降らせ、たっぷりと潤してやりたかった。それができない無力感が彼を圧倒し、絶望させる。どんなに恋い慕っても、チカルが心を尽くし思いを尽くして愛するのは別の男なのだ。
 彼は血のついた指の腹をゆっくりと擦り合わせ、開き、眺めた。そして貫通の間際に見た彼女の表情を幾度となく脳裏に呼び起こし――胸の奥を震わせながら、きつく唇を噛み締めた。
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