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本編
第126話
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結局スマホは一度も見ずに、玄関前に立った。
チカルは手袋を外すと、ポケットから鍵を取り出して施錠を解く。いつもならばシュンヤは会社に行っている時間だ。あの仕事人間が自分のために欠勤するなんてことはないだろうが――そう思いながらも、彼女は音をたてぬよう慎重に扉を開いて室内を覗き込んだ。
リビングのカーテンは締め切られているらしく、暗い。ドアの隙間から身を滑り込ませ、気配がないのを確認してようやく靴を脱ぐ。
物音ひとつしないリビングに入ると、ダイニングテーブルの上に置手紙があった。冷たい汗が背中に浮くのを感じながら折り目を広げると、走り書きされた文字が目に飛び込んでくる。
じいちゃんが倒れた。実家に帰る。チカルもすぐに来い。
心臓が嫌な音をたてる。あまりの衝撃に視界が揺れ、見慣れた文字が歪んだ。目に映るなにもかもが形をなくして溶けていく。
「そんな……」
うわごとのようにつぶやくと、ひどく震える手でスマホの電源を入れた。シュンヤからの最後の着信は午前0時。メッセージは朝方4時を最後に来ていない。内容は“電話に出ろ”という一言だけで、彼の祖父でありチカルにとっては合気道の師であるヤスケのことは言及されていなかった。
彼女は手紙を手のひらに握りしめたまま転がるようにマンションを飛び出した。
母方の故郷は新幹線で4時間、ローカル線に1時間以上揺られ、更に市営バスで40分ほど行った先の山奥にある。正午に東京駅を出発したチカルが約1年半ぶりにふるさとの地を踏んだ頃には、すっかり陽が暮れていた。
雄大な自然に抱かれた山間の村は、夜の深い霞のなかに沈んでいる。
星を戴く杉林を遠く見ながら、溶けかけた雪でぬかるんだ畦道をひた走り、神社の前を駆け抜けて――チカルは村の最奥に建つシュンヤの実家の、その厳めしい門構えをくぐった。
家のシンボルでもある見事な松の木は今日も変わらず悠々と聳え立ち、夜空に枝葉を広げていた。その黒いシルエットを横目に、玄関の灯りの下へと駆け寄る。
「ごめんください!」
木製の格子戸にすがりつき、叩きながら呼んだが、誰も出てこない。
すぐ脇の縁側に首を回らせれば、家族総出で病院へ向かったらしく家の灯が消えている。
――こんな時間まで誰も帰宅しないだなんて……彼女は不吉な予感にぞっと背筋を震わせて、青白い顔のまま踵を返した。
シュンヤはスマホの電源を切っているらしく未だ連絡がつかない。ヤスケの身にいったいなにが起こったのか……それがわからない不安と恐怖が胸中を満たす。泥水を吸い込んだスニーカーが冷たく重く、彼女は力尽きたようにゆっくりと立ち止まって天を振り仰いだ。星の光が額に向かって降ってくるのを浴びながら震えるまぶたを閉じる。
「おかえりチカル」
失意に暮れたまま実家の玄関を開けると、迎えてくれたのは母、マリだった。紫紺の長着を身にまとったその姿は、草原のそよ風に揺れる桔梗のような気品と美しさがある。
チカルは再会の挨拶もそこそこ、矢継ぎ早に訊ねた。
「ヤスケ先生になにがあったの?シュンヤが一足先に着いているはずなんだけれど、姿を見た?」
「なによあなたたち。一緒に来たんじゃなかったの?」
上がり框からチカルを冷たく見下ろして、マリはあきれたような溜息をつく。
チカルはそんな母から視線を逸らし、悲痛な声でつぶやいた。
「――さっきシュンヤの家を訪ねたら、誰もいなかったの……こんなに遅くなっても病院から戻らないだなんて、先生のご容態が心配だわ……」
「あきれた。あなた、なにも知らないのね」
膝をついてスリッパを用意しながら、マリは鼻で笑った。
「安心なさい。ただのぎっくり腰よ」
「ぎっくり腰?」
「若ぶって無理なさるから」
あっけに取られつつも胸を撫で下ろしたチカルは、上がり框にへなへなと座り込む。
「よかった……」
気付けば全身汗まみれだ。彼女はコートの袖から腕を抜きつつスマホを確認する。やはりシュンヤからの連絡はない。
くたびれたスウェットシャツとジーンズ姿の娘を見て、マリはまっすぐ通った鼻の付け根に皺を寄せる。
「あなたってばまた、そんな貧乏学生みたいな格好して……。あら、その耳はどうしたの」
質問に答えようとせず背を向けたままのチカルを前に腕を組んで、
「どうせ、ぼーっとしていてぶつけたんでしょう。相変わらずドジねえ。気をつけなさいよ」
さっそくの小言だ。チカルはうんざりといった顔で肩に掛けていたトートバッグを下ろし、濡れた靴を脱ぐ。その様子を見つめながら、マリは再び顔をしかめた。
「ところで荷物はこれだけなの?着替えは?」
「持ってきてない。急いで来たから……」
「じゃあそんな格好でヤスケさんのお見舞いに行くつもり?おやめなさい。恥ずかしい……」
「仕方ないじゃない。どうしろって言うのよ」
「私の着物を貸してあげる」
「和装なんて場違いだわ。いやよ」
「お黙り。そんな格好で帰ってきたあなたが悪いのですよ」
すらと立って着物の裾を直すと、
「おばあさまにご挨拶する前に湯浴みして汗を流してらっしゃい」
チカルは手袋を外すと、ポケットから鍵を取り出して施錠を解く。いつもならばシュンヤは会社に行っている時間だ。あの仕事人間が自分のために欠勤するなんてことはないだろうが――そう思いながらも、彼女は音をたてぬよう慎重に扉を開いて室内を覗き込んだ。
リビングのカーテンは締め切られているらしく、暗い。ドアの隙間から身を滑り込ませ、気配がないのを確認してようやく靴を脱ぐ。
物音ひとつしないリビングに入ると、ダイニングテーブルの上に置手紙があった。冷たい汗が背中に浮くのを感じながら折り目を広げると、走り書きされた文字が目に飛び込んでくる。
じいちゃんが倒れた。実家に帰る。チカルもすぐに来い。
心臓が嫌な音をたてる。あまりの衝撃に視界が揺れ、見慣れた文字が歪んだ。目に映るなにもかもが形をなくして溶けていく。
「そんな……」
うわごとのようにつぶやくと、ひどく震える手でスマホの電源を入れた。シュンヤからの最後の着信は午前0時。メッセージは朝方4時を最後に来ていない。内容は“電話に出ろ”という一言だけで、彼の祖父でありチカルにとっては合気道の師であるヤスケのことは言及されていなかった。
彼女は手紙を手のひらに握りしめたまま転がるようにマンションを飛び出した。
母方の故郷は新幹線で4時間、ローカル線に1時間以上揺られ、更に市営バスで40分ほど行った先の山奥にある。正午に東京駅を出発したチカルが約1年半ぶりにふるさとの地を踏んだ頃には、すっかり陽が暮れていた。
雄大な自然に抱かれた山間の村は、夜の深い霞のなかに沈んでいる。
星を戴く杉林を遠く見ながら、溶けかけた雪でぬかるんだ畦道をひた走り、神社の前を駆け抜けて――チカルは村の最奥に建つシュンヤの実家の、その厳めしい門構えをくぐった。
家のシンボルでもある見事な松の木は今日も変わらず悠々と聳え立ち、夜空に枝葉を広げていた。その黒いシルエットを横目に、玄関の灯りの下へと駆け寄る。
「ごめんください!」
木製の格子戸にすがりつき、叩きながら呼んだが、誰も出てこない。
すぐ脇の縁側に首を回らせれば、家族総出で病院へ向かったらしく家の灯が消えている。
――こんな時間まで誰も帰宅しないだなんて……彼女は不吉な予感にぞっと背筋を震わせて、青白い顔のまま踵を返した。
シュンヤはスマホの電源を切っているらしく未だ連絡がつかない。ヤスケの身にいったいなにが起こったのか……それがわからない不安と恐怖が胸中を満たす。泥水を吸い込んだスニーカーが冷たく重く、彼女は力尽きたようにゆっくりと立ち止まって天を振り仰いだ。星の光が額に向かって降ってくるのを浴びながら震えるまぶたを閉じる。
「おかえりチカル」
失意に暮れたまま実家の玄関を開けると、迎えてくれたのは母、マリだった。紫紺の長着を身にまとったその姿は、草原のそよ風に揺れる桔梗のような気品と美しさがある。
チカルは再会の挨拶もそこそこ、矢継ぎ早に訊ねた。
「ヤスケ先生になにがあったの?シュンヤが一足先に着いているはずなんだけれど、姿を見た?」
「なによあなたたち。一緒に来たんじゃなかったの?」
上がり框からチカルを冷たく見下ろして、マリはあきれたような溜息をつく。
チカルはそんな母から視線を逸らし、悲痛な声でつぶやいた。
「――さっきシュンヤの家を訪ねたら、誰もいなかったの……こんなに遅くなっても病院から戻らないだなんて、先生のご容態が心配だわ……」
「あきれた。あなた、なにも知らないのね」
膝をついてスリッパを用意しながら、マリは鼻で笑った。
「安心なさい。ただのぎっくり腰よ」
「ぎっくり腰?」
「若ぶって無理なさるから」
あっけに取られつつも胸を撫で下ろしたチカルは、上がり框にへなへなと座り込む。
「よかった……」
気付けば全身汗まみれだ。彼女はコートの袖から腕を抜きつつスマホを確認する。やはりシュンヤからの連絡はない。
くたびれたスウェットシャツとジーンズ姿の娘を見て、マリはまっすぐ通った鼻の付け根に皺を寄せる。
「あなたってばまた、そんな貧乏学生みたいな格好して……。あら、その耳はどうしたの」
質問に答えようとせず背を向けたままのチカルを前に腕を組んで、
「どうせ、ぼーっとしていてぶつけたんでしょう。相変わらずドジねえ。気をつけなさいよ」
さっそくの小言だ。チカルはうんざりといった顔で肩に掛けていたトートバッグを下ろし、濡れた靴を脱ぐ。その様子を見つめながら、マリは再び顔をしかめた。
「ところで荷物はこれだけなの?着替えは?」
「持ってきてない。急いで来たから……」
「じゃあそんな格好でヤスケさんのお見舞いに行くつもり?おやめなさい。恥ずかしい……」
「仕方ないじゃない。どうしろって言うのよ」
「私の着物を貸してあげる」
「和装なんて場違いだわ。いやよ」
「お黙り。そんな格好で帰ってきたあなたが悪いのですよ」
すらと立って着物の裾を直すと、
「おばあさまにご挨拶する前に湯浴みして汗を流してらっしゃい」
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