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本編
第153話
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3月に入ると新曲リリースに向けて仕事が忙しくなり、タビトとチカルが顔を合わせることはほとんどなくなっていた。
テレビ出演に雑誌の撮影、社内での打ち合わせや会議などに追われ多忙な日々を送っていたが、それもようやくひと段落――今日は実に2週間ぶりのオフだ。だが不運なことに、チカルが来てくれる曜日ではない。
タビトは昼になってもベッドに入ったまま惰眠を貪っていた。せめて夢で会えはしないかと期待したが、出てきたのは知らない犬と、まだ小学生の兄だった。兄はなぜか犬に説教されていて、その犬の声は弟の声だった。兄はめずらしく泣きべそをかいていた。
スマホが鳴っている。寝ぐせだらけの頭をあげ、ナイトテーブルの上で震えているそれを取る。誰からの着信かも確認せず目を閉じたまま耳にあてた。
「はい」
「いま平気?仕事?」
アコの声だ。彼は薄く目を開けた。
「……休み。どしたの」
「今月始めにファッション雑誌の撮影があったでしょ?そのとき着た服覚えてる?ポー・ヘステンの新作」
「ベージュのロングコート?」
「そう。その下に着てたワイシャツにエメラルド入りの襟ブローチ付けてたじゃん。ゴールドのチェーンのやつ」
「んー……あれね」
詳細は思い出せなかったが、ぼんやりと記憶にある。
「そのブローチがどこ探しても見つからなくて行方不明なんだよ。あれって、撮影終わりにタビトが外したんだっけ?……私、自分で外した記憶がなくてさ」
彼は天井を睨みつつ記憶を辿る。が、まるで思い出せない。
「借りものだから返さなきゃいけないのに……ああもう、どうしよう!」
「最悪同じものを買って返すしかないんじゃない?」
「一点もののアンティークなんだよっ!ばかっ!」
あまりの剣幕に受話口を耳から離し、
「うるさいなあ……そんなに怒らないでよ」
「あんた、衣装の買い上げとかよくしてるでしょ。そのなかに紛れてたりしない?」
「先週確認した箱の中には入ってなかったよ。まだいくつか事務所にあるけど……」
「今すぐ探してきて」
「やだよ。休みだもん」
「明日返さなきゃなんないの!いいから早く!」
「わかったよ……事務所に電話して持ってきてもらう。俺が行くより早いし」
「事務所の人に確かめてもらってよ」
「それは別にいいけどさ。紛失したってことがいろんな人にバレて平気なの?」
ぐっと息を呑んだ気配を察するに、この件は内密に済ませようと目論んでいるらしい。特に、折り合いが悪い男――サンの耳には絶対に入れたくないに違いなかった。
「スタッフさんに持ってきてもらうよ。中身確かめてまた連絡するから」
「……わかった。お願いね」
通話が切れる。その流れでタビトは事務所に連絡し、プレゼントや買い上げた衣類が入っているダンボール箱をマンションまで持ってきてほしいと頼んだ。立て込んでいるらしく夜になると言われたが自ら出向く気にはなれない。
彼は上体を起こしたまましばらくぼーっと座っていたが、やがて冷たい床に足を下ろした。
灯りの落とされたリビングはモデルルームのように生活感がない。顔を洗って、サラダとヨーグルトを空っぽの腹に入れる。ジムで汗を流してようやく頭がすっきりするも、気分は沈んだままだ。チカルから連絡がこないかと何度もスマホを確認したが、アコからの催促メッセージしか来ていない。
作詞もはかどらず、貴重な休日の時間は無常にも過ぎていった。窓の外はもう夕方の気配だ。
チカルに電話してみようかだとか、メッセージを送ってみようかだとか考えながら夕食の支度をしていると、インターホンが鳴った。
事務所のスタッフから荷物を受け取って、中身を隅々まで確認する。畳まれたニットを開くと、宝石のついたブローチが転がり出てきた。床に落ちる前にキャッチし、彼は溜息と共に安堵の笑みを浮かべる。
「あったよ」
待ち構えていたのか、アコはワンコールで電話に出た。タビトの言葉を聞くなり歓喜の雄たけびをあげる。
「今から行く!」
言うが早いか、こちらの返事を確認することもなく通話が切られる。
相手の都合などまるで無視だ。あきれたような顔で息を吐きスマホを睨んだが、彼はアコが来るのを待ってやることにした。
「ありがとタビト!ほんっとにありがと!」
廊下を走ってきたらしい。息を弾ませ頬を紅潮させたアコは、ブローチを握りしめて何度も礼を言う。
「あの日の衣装のなかに、ニットがあったでしょ?それに引っ掛かってたみたい」
「ああ、ブラックの?」
「そうそう」彼は相槌を打つと肩を竦ませて、「襟ブローチ合わせるならニット着た方がよかったとかサン君が言い出して、ケンカしてたじゃん。あのときじゃない?」
額を押さえたアコが苦々しい表情になる。
「あのやろ……しまわないで置きっぱなしにしといたな……」
「俺もごめん。その場で広げて確認すればよかった」
「あんたは悪くないよ。巻き込んでごめんね」
派手な柄のスカーフを取り出し丁寧にブローチを包んで、バッグに入れる。
「……やっぱりサン君とは反りが合わない感じなの?」
「まあね……」アコはめずらしく言葉を濁し、「でも才能はピカイチ。あれで悪態さえついてこなければサイコーなんだけどさ」
「ユミグサさんとは?」
「すっごくいい感じ。あの子とんでもない素質持ってるよ。ちょっと抜けてるところもあるけど」
なにを思い出したのか笑いを堪えている。
「立ち話もなんだし、コーヒーでも飲んでく?」
「晩ごはん食べるとこじゃないの?スープの匂いがする」
「作ったけどまだあんまりお腹空いてないから平気。上がって」
来客用のスリッパを出して勧める。アコはニット帽を取ると金髪を掻き上げ、上着を脱いだ。
「この家、禁煙だっけ」
「うん。どうしても吸いたくなったら換気扇の下で吸ってね」
その「どうしても」はすぐにやってきたらしく、彼女はさっそくその下に立って煙草と携帯灰皿を取り出した。タビトは喉の奥で笑い、
「ほんと好きだね……」
「煙草もどんどん値段が高くなってキツいんだけどさ、やめらんないよね」
大きく紫煙を吹いて、コンロの上に乗っている鍋の透明な蓋を覗き込む。
「この忙しいときに自炊してるなんてすごいじゃん」
「今日はたまたまだよ。普段はほとんどコンビニ」
「私も。コンビニは偉大」
煙草を指で挟むと、蓋を取って中身を嗅ぐ。
「いーにおい。うまそ」
「ポトフだよ。食べる?」
「ちょっとだけちょーだい。さっきカレー食って腹がパンパンだから」
スープカップによそってやると、さっそく一口ごくりとやって目を丸くする。
「んまっ!プロじゃん」
「ありがと」
アコもチカルと同じくなかなか豪快に食べるが、チカルに感じた色っぽさのようなものはない。粗野と気品が混在した食べっぷりを思い出し、体に甘い痺れがはしる。
最近はスケジュールが詰まっていて忙しく、彼女とは食事どころかゆっくり話もできていない。いつも通りきっちり部屋の掃除や洗濯をしてくれているが、ひとりで思い悩んではいないだろうか……同棲相手にまた暴力を振るわれてどこか怪我をしたりしていないだろうか。本当に心配だ。たまにメッセージを送ってみるが、短い返事が返ってくるのみで彼女の生活の様子はまるでわからない。
「なに?溜息なんかついて」
「なんでもない」
答えたタビトを怪訝そうに見遣って、スープを勢いよく飲み干す。
テレビ出演に雑誌の撮影、社内での打ち合わせや会議などに追われ多忙な日々を送っていたが、それもようやくひと段落――今日は実に2週間ぶりのオフだ。だが不運なことに、チカルが来てくれる曜日ではない。
タビトは昼になってもベッドに入ったまま惰眠を貪っていた。せめて夢で会えはしないかと期待したが、出てきたのは知らない犬と、まだ小学生の兄だった。兄はなぜか犬に説教されていて、その犬の声は弟の声だった。兄はめずらしく泣きべそをかいていた。
スマホが鳴っている。寝ぐせだらけの頭をあげ、ナイトテーブルの上で震えているそれを取る。誰からの着信かも確認せず目を閉じたまま耳にあてた。
「はい」
「いま平気?仕事?」
アコの声だ。彼は薄く目を開けた。
「……休み。どしたの」
「今月始めにファッション雑誌の撮影があったでしょ?そのとき着た服覚えてる?ポー・ヘステンの新作」
「ベージュのロングコート?」
「そう。その下に着てたワイシャツにエメラルド入りの襟ブローチ付けてたじゃん。ゴールドのチェーンのやつ」
「んー……あれね」
詳細は思い出せなかったが、ぼんやりと記憶にある。
「そのブローチがどこ探しても見つからなくて行方不明なんだよ。あれって、撮影終わりにタビトが外したんだっけ?……私、自分で外した記憶がなくてさ」
彼は天井を睨みつつ記憶を辿る。が、まるで思い出せない。
「借りものだから返さなきゃいけないのに……ああもう、どうしよう!」
「最悪同じものを買って返すしかないんじゃない?」
「一点もののアンティークなんだよっ!ばかっ!」
あまりの剣幕に受話口を耳から離し、
「うるさいなあ……そんなに怒らないでよ」
「あんた、衣装の買い上げとかよくしてるでしょ。そのなかに紛れてたりしない?」
「先週確認した箱の中には入ってなかったよ。まだいくつか事務所にあるけど……」
「今すぐ探してきて」
「やだよ。休みだもん」
「明日返さなきゃなんないの!いいから早く!」
「わかったよ……事務所に電話して持ってきてもらう。俺が行くより早いし」
「事務所の人に確かめてもらってよ」
「それは別にいいけどさ。紛失したってことがいろんな人にバレて平気なの?」
ぐっと息を呑んだ気配を察するに、この件は内密に済ませようと目論んでいるらしい。特に、折り合いが悪い男――サンの耳には絶対に入れたくないに違いなかった。
「スタッフさんに持ってきてもらうよ。中身確かめてまた連絡するから」
「……わかった。お願いね」
通話が切れる。その流れでタビトは事務所に連絡し、プレゼントや買い上げた衣類が入っているダンボール箱をマンションまで持ってきてほしいと頼んだ。立て込んでいるらしく夜になると言われたが自ら出向く気にはなれない。
彼は上体を起こしたまましばらくぼーっと座っていたが、やがて冷たい床に足を下ろした。
灯りの落とされたリビングはモデルルームのように生活感がない。顔を洗って、サラダとヨーグルトを空っぽの腹に入れる。ジムで汗を流してようやく頭がすっきりするも、気分は沈んだままだ。チカルから連絡がこないかと何度もスマホを確認したが、アコからの催促メッセージしか来ていない。
作詞もはかどらず、貴重な休日の時間は無常にも過ぎていった。窓の外はもう夕方の気配だ。
チカルに電話してみようかだとか、メッセージを送ってみようかだとか考えながら夕食の支度をしていると、インターホンが鳴った。
事務所のスタッフから荷物を受け取って、中身を隅々まで確認する。畳まれたニットを開くと、宝石のついたブローチが転がり出てきた。床に落ちる前にキャッチし、彼は溜息と共に安堵の笑みを浮かべる。
「あったよ」
待ち構えていたのか、アコはワンコールで電話に出た。タビトの言葉を聞くなり歓喜の雄たけびをあげる。
「今から行く!」
言うが早いか、こちらの返事を確認することもなく通話が切られる。
相手の都合などまるで無視だ。あきれたような顔で息を吐きスマホを睨んだが、彼はアコが来るのを待ってやることにした。
「ありがとタビト!ほんっとにありがと!」
廊下を走ってきたらしい。息を弾ませ頬を紅潮させたアコは、ブローチを握りしめて何度も礼を言う。
「あの日の衣装のなかに、ニットがあったでしょ?それに引っ掛かってたみたい」
「ああ、ブラックの?」
「そうそう」彼は相槌を打つと肩を竦ませて、「襟ブローチ合わせるならニット着た方がよかったとかサン君が言い出して、ケンカしてたじゃん。あのときじゃない?」
額を押さえたアコが苦々しい表情になる。
「あのやろ……しまわないで置きっぱなしにしといたな……」
「俺もごめん。その場で広げて確認すればよかった」
「あんたは悪くないよ。巻き込んでごめんね」
派手な柄のスカーフを取り出し丁寧にブローチを包んで、バッグに入れる。
「……やっぱりサン君とは反りが合わない感じなの?」
「まあね……」アコはめずらしく言葉を濁し、「でも才能はピカイチ。あれで悪態さえついてこなければサイコーなんだけどさ」
「ユミグサさんとは?」
「すっごくいい感じ。あの子とんでもない素質持ってるよ。ちょっと抜けてるところもあるけど」
なにを思い出したのか笑いを堪えている。
「立ち話もなんだし、コーヒーでも飲んでく?」
「晩ごはん食べるとこじゃないの?スープの匂いがする」
「作ったけどまだあんまりお腹空いてないから平気。上がって」
来客用のスリッパを出して勧める。アコはニット帽を取ると金髪を掻き上げ、上着を脱いだ。
「この家、禁煙だっけ」
「うん。どうしても吸いたくなったら換気扇の下で吸ってね」
その「どうしても」はすぐにやってきたらしく、彼女はさっそくその下に立って煙草と携帯灰皿を取り出した。タビトは喉の奥で笑い、
「ほんと好きだね……」
「煙草もどんどん値段が高くなってキツいんだけどさ、やめらんないよね」
大きく紫煙を吹いて、コンロの上に乗っている鍋の透明な蓋を覗き込む。
「この忙しいときに自炊してるなんてすごいじゃん」
「今日はたまたまだよ。普段はほとんどコンビニ」
「私も。コンビニは偉大」
煙草を指で挟むと、蓋を取って中身を嗅ぐ。
「いーにおい。うまそ」
「ポトフだよ。食べる?」
「ちょっとだけちょーだい。さっきカレー食って腹がパンパンだから」
スープカップによそってやると、さっそく一口ごくりとやって目を丸くする。
「んまっ!プロじゃん」
「ありがと」
アコもチカルと同じくなかなか豪快に食べるが、チカルに感じた色っぽさのようなものはない。粗野と気品が混在した食べっぷりを思い出し、体に甘い痺れがはしる。
最近はスケジュールが詰まっていて忙しく、彼女とは食事どころかゆっくり話もできていない。いつも通りきっちり部屋の掃除や洗濯をしてくれているが、ひとりで思い悩んではいないだろうか……同棲相手にまた暴力を振るわれてどこか怪我をしたりしていないだろうか。本当に心配だ。たまにメッセージを送ってみるが、短い返事が返ってくるのみで彼女の生活の様子はまるでわからない。
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