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本編
第176話
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夜9時を過ぎて帰宅したシュンヤは至っていつも通りだった。
今日銀座で浮気現場を押さえられたことなどつゆ知らず、仕事でのトラブルを話しながらスーツを脱いでいる彼に、機械のように単調に相槌をうつ。光をなくし淀んだ瞳が自分に向けられていることに、彼は気付かない。
ここまで平気な顔で嘘をつき続けられるなんて――シュンヤは果たしてこんな性格だっただろうかと、チカルはやけに冷静な頭で考える。浮気について言及したあの日以来、少しは反省し生活を改めるかと思っていたが、本人にまったくその気はないようだ。狡賢く自分勝手なところは昔からあるがしかし、ここまで他人を裏切る人間ではなかった気がする。
目の前の男はいったい、誰なのだろう?怒りを通り越して薄気味悪く感じた。
その夜はベッドにもぐってもなかなか寝付けず、クローゼットの奥に隠したプレゼントのことばかりを考えていた。買わなければよかったという気持ちは微塵もない。ただただ、虚しかった。
彼女はベッドを抜け出すと、トートバッグの中からイヤホンを取り出した。再び布団に潜り込み、ウル・ラドの曲をかける。
新曲はデジタルでも買った。CDを所有しサブスクでも聴き放題になっているにもかかわらず購入したのは、タビトに対する応援の気持ちを込めてのことだ。
傷ついた心に、彼の美しい歌声が沁みる。
こんなときにタビトのことを思い出す自分がいやだった。いつまでもシュンヤとの関係を切れずに、傷つき、弱り、その度に彼に救いを求めるなどあまりに身勝手すぎる。
生まれたときから傍にいて、きょうだいのように育ってきた幼馴染……シュンヤがいない人生など考えられないと思って生きてきた。40年という時間をかけて紡いできた彼との思い出と関係性、それに伴う膨大な感情が複雑に絡み合うなか、もがくばかりでそこから抜け出せない。これはひとえに自分の弱さだ。
チカルは燃えるように熱いまぶたを腕できつく押さえると、シーツのうえで背中を丸め小さくなった。
翌日は彼女の心境を反映したような空模様であった。
「寒かったでしょ?入って入って」
玄関先でタビトが手招きつつ促す。
寝不足のチカルはいつもよりも血の気のない顔で、冷たい雨に凍えた足を長靴から抜く。
冬が戻ってきたかのように底冷えのする日だった。仕事に出ようとしていたのだろうか、タビトはニット帽を目深に被っている。
「あったかいの用意するけど、なに飲む?紅茶?それともコーヒー?緑茶もあるよ」
すぐに出かけるのかと思いきや、キッチンの方から声がする。濡れた手を拭きながらチカルがリビングに入ると、彼はいつものカップを手に返答を待っている。
「タビト君と同じもので……」
「ん。わかった。座って待っててね」
彼女はめずらしく、タビトに促されるまま大人しくダイニングの灯りの下に座った。まだ14時前で勤務時間外とはいえ、利用者宅で客人のように振る舞い、茶をごちそうになるなど……自分のポリシーに反する。いつもなら罪悪感を抱いているところだが、今日はその気持ちも湧いてこない。体は鉛でも詰まっているかのように重く、頭はぼんやりとしていた。
「暖房の温度あげたけど、寒かったり暑かったりしたら調整して」
素直に頷くチカルにいつも通り笑いかけたタビトだったが、なにかあったのだろうと勘付いている。彼の目に、チカルはとても悲しそうに映った。
いつもならおしゃべりに忙しい彼も、今日は黙っている。
チカルは、静寂の中でゆるりと首を回らせタビトを見つめた。視線が交わると、彼は何も言わずほほえみだけを返してくる。目に見えないやさしさと気遣いが伝わってきて、彼女の心はせつなさで張り裂けそうになる。
「おまたせ」
マグカップを受け取ると、香ばしいかおりが鼻先をくすぐった。あたたかいコーヒーだ。
「ありがとう……。いただきます」
「めしあがれ」
にこやかに言いながら自分も椅子に座り、彼女を上目遣いでそっと見つめたままカップに口をつける。
今日銀座で浮気現場を押さえられたことなどつゆ知らず、仕事でのトラブルを話しながらスーツを脱いでいる彼に、機械のように単調に相槌をうつ。光をなくし淀んだ瞳が自分に向けられていることに、彼は気付かない。
ここまで平気な顔で嘘をつき続けられるなんて――シュンヤは果たしてこんな性格だっただろうかと、チカルはやけに冷静な頭で考える。浮気について言及したあの日以来、少しは反省し生活を改めるかと思っていたが、本人にまったくその気はないようだ。狡賢く自分勝手なところは昔からあるがしかし、ここまで他人を裏切る人間ではなかった気がする。
目の前の男はいったい、誰なのだろう?怒りを通り越して薄気味悪く感じた。
その夜はベッドにもぐってもなかなか寝付けず、クローゼットの奥に隠したプレゼントのことばかりを考えていた。買わなければよかったという気持ちは微塵もない。ただただ、虚しかった。
彼女はベッドを抜け出すと、トートバッグの中からイヤホンを取り出した。再び布団に潜り込み、ウル・ラドの曲をかける。
新曲はデジタルでも買った。CDを所有しサブスクでも聴き放題になっているにもかかわらず購入したのは、タビトに対する応援の気持ちを込めてのことだ。
傷ついた心に、彼の美しい歌声が沁みる。
こんなときにタビトのことを思い出す自分がいやだった。いつまでもシュンヤとの関係を切れずに、傷つき、弱り、その度に彼に救いを求めるなどあまりに身勝手すぎる。
生まれたときから傍にいて、きょうだいのように育ってきた幼馴染……シュンヤがいない人生など考えられないと思って生きてきた。40年という時間をかけて紡いできた彼との思い出と関係性、それに伴う膨大な感情が複雑に絡み合うなか、もがくばかりでそこから抜け出せない。これはひとえに自分の弱さだ。
チカルは燃えるように熱いまぶたを腕できつく押さえると、シーツのうえで背中を丸め小さくなった。
翌日は彼女の心境を反映したような空模様であった。
「寒かったでしょ?入って入って」
玄関先でタビトが手招きつつ促す。
寝不足のチカルはいつもよりも血の気のない顔で、冷たい雨に凍えた足を長靴から抜く。
冬が戻ってきたかのように底冷えのする日だった。仕事に出ようとしていたのだろうか、タビトはニット帽を目深に被っている。
「あったかいの用意するけど、なに飲む?紅茶?それともコーヒー?緑茶もあるよ」
すぐに出かけるのかと思いきや、キッチンの方から声がする。濡れた手を拭きながらチカルがリビングに入ると、彼はいつものカップを手に返答を待っている。
「タビト君と同じもので……」
「ん。わかった。座って待っててね」
彼女はめずらしく、タビトに促されるまま大人しくダイニングの灯りの下に座った。まだ14時前で勤務時間外とはいえ、利用者宅で客人のように振る舞い、茶をごちそうになるなど……自分のポリシーに反する。いつもなら罪悪感を抱いているところだが、今日はその気持ちも湧いてこない。体は鉛でも詰まっているかのように重く、頭はぼんやりとしていた。
「暖房の温度あげたけど、寒かったり暑かったりしたら調整して」
素直に頷くチカルにいつも通り笑いかけたタビトだったが、なにかあったのだろうと勘付いている。彼の目に、チカルはとても悲しそうに映った。
いつもならおしゃべりに忙しい彼も、今日は黙っている。
チカルは、静寂の中でゆるりと首を回らせタビトを見つめた。視線が交わると、彼は何も言わずほほえみだけを返してくる。目に見えないやさしさと気遣いが伝わってきて、彼女の心はせつなさで張り裂けそうになる。
「おまたせ」
マグカップを受け取ると、香ばしいかおりが鼻先をくすぐった。あたたかいコーヒーだ。
「ありがとう……。いただきます」
「めしあがれ」
にこやかに言いながら自分も椅子に座り、彼女を上目遣いでそっと見つめたままカップに口をつける。
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