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本編
第192話
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午後2時少し前、いつものように部屋を訪れたチカルは、玄関先に駆けてきたタビトを見るなり目を丸くする。
前回一緒に料理したときとは違う、真新しい黒のカフェエプロン――あまりに似合っているのでつい頬がゆるみ、うっとりと見つめてしまいそうになったが、すぐに無表情の裏に隠した。
「これから昼食ですか?」
きりりとした顔で問うと、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「なに作ってるかわかる?」
問いで返されたチカルは空気の匂いを嗅ぎ、小首を傾げた。そのしぐさが動物的でかわいらしい。
「チキンブイヨン」
それを聞いたチカルはもういちど空気を嗅いでみて、納得したように頷く。
「チカルさんがリクエストしてくれたあれも作るよ」
「あれって……?」
「ハンバーグ!」
「え……」
「やだな、忘れちゃった?」
あの日の約束を思い出し、チカルは小さく声を上げる。それから困ったように眉根を寄せた。
「あ、あの……申し訳ないのですけれど、もう」
「昼食は済ませちゃったよね、わかってる」うんうんとひとり頷き、にっこりした。「夜ごはん、いっしょに食べよ。おいしいのご馳走するから。ね?」
一方的に話を進められ、チカルはわずかに声を低める。
「もう……君はどうしていつもそう強引なの?」
「こうでもしないとなんだかんだで約束が延期になっちゃうから」
「君ね、……」
言いかけてやめ、下唇をきゅっと噛む。わずかな沈黙ののちにそっと息をつき、
「今すぐにいただきます」
「え?」
「こんな時間に調理しているなんて……本当は昼食として準備してくださっていたのでしょう?」
その言葉に、タビトはにんまりと笑う。
「ブイヨンとかソースとか、そういうのって手作りしようとするとけっこう時間かかるし今くらいから始めなきゃ。それにハンバーグのタネって寝かせるとおいしくなるんだよ」
どこか得意げな顔だ。生意気ざかりの少年のような態度がいとおしくて、チカルはすっかり毒気を抜かれてしまう。荷物を下ろすと、情けなく眉をさげたまま溜息まじりに尋ねた。
「……ディナーは何時からですか?」
「18時を予定してまーす!」
ふふと笑ったタビトの頬がほんのりと赤い。つられて微笑みそうになった口元をマスクで隠して、チカルは仕事の準備を始める。
キッチンは使用中のため、今日はいつもよりも早く作業が終わってしまった。時間を持て余し、ほとんど汚れていないサッシの掃除をしたり玄関ドアや室内の扉を一枚一枚拭いて回ったりしたが、それでもまだ18時半前である。
だいぶ日が長くなった。この時間になってもまだほんのりと明るい空を窓越しに見て、チカルは立ち止まる。
春だ。再びその気配を感じ、人知れず身震いした。
薄暗い気持ちになりながら視線を転じキッチンの方を見遣れば、若く美しい男がなにやらせっせとこしらえている。どうやらメイン以外にもいろいろとご馳走してくれるつもりらしい。チカルはさみしそうな笑みをかすかに浮かべ、手に持っていた清掃用具をクローゼットの中にしまう。
「できたよー!食べよ!」
やわらかなピンクの髪を揺らしてキッチンから出てきたタビトは、湯気を立てているグラタン皿をテーブルの真ん中に置く。ミトンを外しつつきょろきょろと辺りを見回すも、チカルの姿はない。
「チカルさん?」
ぽつりとつぶやいて、玄関へと続く扉を開ける。靴があるのを遠目で確認してリビングに振り返ると、今度はドライルームに爪先を向けた。
「なんだ、ここにいたの?」
バルコニーへ続く窓を開け声を掛ける。
振り向いたチカルの頬に、風に弄ばれた長い黒髪が絡む。少女の面影を残す、その冷たく透き通る白いかんばせの中、静謐な光が散る双眸は深い哀しみの色を宿していた。
その儚さを目の当たりにしたタビトの胸の裡に不安がよぎる。このまま暗闇に呑まれていく場所に留まれば、溶けて消えてしまうような気がした。
「おいで」
彼は平静を装って言い、無意識に手を伸ばした。近づいてきた彼女を片腕で包み込むように迎えると、彼女は素直にサンダルを脱ぎ室内に戻る。タビトは窓を閉めつつ肩越しに問うた。
「どうしたの?外になにか気になるものでもあった?」
「いえ……」小さく答え、視線を再び表へ向ける。「春だなと思って」
「この季節に思い入れでもあるの?」
優しい声音に促され頭ひとつぶん大きい彼を見上げた。外からの淡い光を受けた彼の瞳はいつもの漆黒ではなく、琥珀のように輝いている。
チカルはゆっくりと首を横に振り、
「タビト君は、春が好き?」
抑揚に乏しい声で尋ねる。
「大好き」
無邪気に目を細めて答えると、風に乱されたチカルの前髪にそっと触れた。
「チカルさんは冬の方が好きなのかな」
「……どうしてそう思うの?」
「春の話をしてたとき、かなしそうな顔をしてたから」
タビトは理由までは聞いてこなかった。チカルにはそれがとてもありがたかった。
「さ、ごはんできたから食べよ。あったかいうちに」
――父が死んだ3月。
故郷に背を向けた4月。
映画配給会社を辞めた5月。
春の記憶はどれも冷たい哀しみを孕んでいる。巻き起こる春風は心を搔き乱し、ひどく憂鬱な気分にさせた。
暗く淀む思いに苛まれながらチカルは目の前を歩くタビトの、優しい髪色を見つめた。まるで桜の花……彼が待ち望んだ春の色だ。そう思うと、急に春が身近であたたかなものに感じられた。
前回一緒に料理したときとは違う、真新しい黒のカフェエプロン――あまりに似合っているのでつい頬がゆるみ、うっとりと見つめてしまいそうになったが、すぐに無表情の裏に隠した。
「これから昼食ですか?」
きりりとした顔で問うと、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「なに作ってるかわかる?」
問いで返されたチカルは空気の匂いを嗅ぎ、小首を傾げた。そのしぐさが動物的でかわいらしい。
「チキンブイヨン」
それを聞いたチカルはもういちど空気を嗅いでみて、納得したように頷く。
「チカルさんがリクエストしてくれたあれも作るよ」
「あれって……?」
「ハンバーグ!」
「え……」
「やだな、忘れちゃった?」
あの日の約束を思い出し、チカルは小さく声を上げる。それから困ったように眉根を寄せた。
「あ、あの……申し訳ないのですけれど、もう」
「昼食は済ませちゃったよね、わかってる」うんうんとひとり頷き、にっこりした。「夜ごはん、いっしょに食べよ。おいしいのご馳走するから。ね?」
一方的に話を進められ、チカルはわずかに声を低める。
「もう……君はどうしていつもそう強引なの?」
「こうでもしないとなんだかんだで約束が延期になっちゃうから」
「君ね、……」
言いかけてやめ、下唇をきゅっと噛む。わずかな沈黙ののちにそっと息をつき、
「今すぐにいただきます」
「え?」
「こんな時間に調理しているなんて……本当は昼食として準備してくださっていたのでしょう?」
その言葉に、タビトはにんまりと笑う。
「ブイヨンとかソースとか、そういうのって手作りしようとするとけっこう時間かかるし今くらいから始めなきゃ。それにハンバーグのタネって寝かせるとおいしくなるんだよ」
どこか得意げな顔だ。生意気ざかりの少年のような態度がいとおしくて、チカルはすっかり毒気を抜かれてしまう。荷物を下ろすと、情けなく眉をさげたまま溜息まじりに尋ねた。
「……ディナーは何時からですか?」
「18時を予定してまーす!」
ふふと笑ったタビトの頬がほんのりと赤い。つられて微笑みそうになった口元をマスクで隠して、チカルは仕事の準備を始める。
キッチンは使用中のため、今日はいつもよりも早く作業が終わってしまった。時間を持て余し、ほとんど汚れていないサッシの掃除をしたり玄関ドアや室内の扉を一枚一枚拭いて回ったりしたが、それでもまだ18時半前である。
だいぶ日が長くなった。この時間になってもまだほんのりと明るい空を窓越しに見て、チカルは立ち止まる。
春だ。再びその気配を感じ、人知れず身震いした。
薄暗い気持ちになりながら視線を転じキッチンの方を見遣れば、若く美しい男がなにやらせっせとこしらえている。どうやらメイン以外にもいろいろとご馳走してくれるつもりらしい。チカルはさみしそうな笑みをかすかに浮かべ、手に持っていた清掃用具をクローゼットの中にしまう。
「できたよー!食べよ!」
やわらかなピンクの髪を揺らしてキッチンから出てきたタビトは、湯気を立てているグラタン皿をテーブルの真ん中に置く。ミトンを外しつつきょろきょろと辺りを見回すも、チカルの姿はない。
「チカルさん?」
ぽつりとつぶやいて、玄関へと続く扉を開ける。靴があるのを遠目で確認してリビングに振り返ると、今度はドライルームに爪先を向けた。
「なんだ、ここにいたの?」
バルコニーへ続く窓を開け声を掛ける。
振り向いたチカルの頬に、風に弄ばれた長い黒髪が絡む。少女の面影を残す、その冷たく透き通る白いかんばせの中、静謐な光が散る双眸は深い哀しみの色を宿していた。
その儚さを目の当たりにしたタビトの胸の裡に不安がよぎる。このまま暗闇に呑まれていく場所に留まれば、溶けて消えてしまうような気がした。
「おいで」
彼は平静を装って言い、無意識に手を伸ばした。近づいてきた彼女を片腕で包み込むように迎えると、彼女は素直にサンダルを脱ぎ室内に戻る。タビトは窓を閉めつつ肩越しに問うた。
「どうしたの?外になにか気になるものでもあった?」
「いえ……」小さく答え、視線を再び表へ向ける。「春だなと思って」
「この季節に思い入れでもあるの?」
優しい声音に促され頭ひとつぶん大きい彼を見上げた。外からの淡い光を受けた彼の瞳はいつもの漆黒ではなく、琥珀のように輝いている。
チカルはゆっくりと首を横に振り、
「タビト君は、春が好き?」
抑揚に乏しい声で尋ねる。
「大好き」
無邪気に目を細めて答えると、風に乱されたチカルの前髪にそっと触れた。
「チカルさんは冬の方が好きなのかな」
「……どうしてそう思うの?」
「春の話をしてたとき、かなしそうな顔をしてたから」
タビトは理由までは聞いてこなかった。チカルにはそれがとてもありがたかった。
「さ、ごはんできたから食べよ。あったかいうちに」
――父が死んだ3月。
故郷に背を向けた4月。
映画配給会社を辞めた5月。
春の記憶はどれも冷たい哀しみを孕んでいる。巻き起こる春風は心を搔き乱し、ひどく憂鬱な気分にさせた。
暗く淀む思いに苛まれながらチカルは目の前を歩くタビトの、優しい髪色を見つめた。まるで桜の花……彼が待ち望んだ春の色だ。そう思うと、急に春が身近であたたかなものに感じられた。
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