よあけ

紙仲てとら

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本編

第196話

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 汐留駅に到着したチカルは、シュンヤに言われた通り連絡を入れる。メッセージの送信ボタンを押してすぐ、待ち構えていたかのような素早さで返事が届いた。
 そこには、聞いたこともないレストランの名前があった。続いて地図のリンクが送られてくる。タップすると、高級ホテルのサイト内にあるアクセスページに飛んだ。どうやらここに併設されている店らしい。
 徒歩数分しか掛からないはずが、辿り着くまでにその倍の倍以上の時間を費やした。彼女は息を切らしながら、エントランスで人待ち顔をしているシュンヤに駆け寄る。
「遅い」
「ごめんなさい。道に迷って……」
 あきれたように溜息をついて、シュンヤは腕時計を見た。
「もう時間だ。急ごう」
 汐留の夜景を堪能できる高層階のレストランは、すでに満席に近い状態だった。恋人同士はもちろん、家族連れもいる。それぞれがなにやら談笑しながらリラックスした様子で食事を楽しんでいる。
 遅れたことに対して機嫌を悪くしているかと窺い見るも、彼の表情は柔らかい。不気味なほどに。
 緊張で口の中がからからに乾いているのを感じながら、彼女は問うた。
「遠くまで出張お疲れさま。スーツケースはロッカーに預けたの?」
「まあ、そんなとこ」彼はどこか曖昧な言い方をして、「土産買ってきた。薩摩芋のスイーツ。家帰ったら一緒に食おう」
 愛想笑いを浮かべたチカルの斜め前、大きな4人がけのテーブルには家族連れが座っている。彼女の位置からはちょうど、小学校高学年くらいの男の子が食事をしているのが見えた。シンプルな白いワイシャツに蝶ネクタイ、ベストを身につけ、小さな紳士といった風体だ。こういった場での食事に慣れているのか、緊張した様子もなく、カトラリーの扱いも完璧である。彼の父親と母親はおそらく30代後半。ほほえみを湛え、静かに談笑している。
 壁に沿って並ぶソファ席には、甘い雰囲気を醸し出している若い恋人たち。窓際の席には仲睦まじい初老の夫婦がいる。美しいシャンデリアの光のもと、彼らは一様に笑顔を浮かべ優雅に食事を楽しんでいる。
 どこからか響いてくるバースデーソングと拍手の雨を聞きながら、チカルはいたたまれない気持ちになった。幸せそうな家族や恋人たちに囲まれていると、自分がいかに場違いな存在かを実感する。ここは特別な相手と特別な時間を過ごす場所で、こんなに昏く沈んだ気持ちの人間が来るところではない。
 はっきりとそう思ったとき――チカルは、自分がなぜこんなにも塞ぎ込んでいるのかを理解した。交際記念日というこの特別な日を迎えたことに対しなんの感慨もないことが、愛の終わりを表している気がしてショックだったのだ。
 大切な節目を迎えるたびに感じていた幸福はすでに消え去った。共にある喜びを実感することはこの先二度とないだろう。いよいよ、シュンヤと歩んできた人生にピリオドを打つべきときがきたのかもしれない……
 ふいに込み上げてきた不安のためか、みぞおち周辺に不快な違和感を覚えた彼女はゆっくりと周囲の人々から視線を逸らし、静かに息を吐いた。化粧に隠れてわからないが、その顔はすっかり青褪めている。
 先のことはどうとして、この場は気持ちを切り替えるべきだ……彼女は胸の裡に湧いた不安をなだめつつシュンヤとの会話に集中しようと努めたが、みぞおちの違和感は増していき、吐き気はどんどん酷くなっていく。
 なにかがおかしい……明らかな体の異変を感じ震えていると、ソムリエがテーブルにやってきてグラスにシャンパンを注ぎ始める。それを見た瞬間、彼女は反射的に息を詰め、口元をきつく押さえた。
「ちょっと失礼……」
 言うが早いかハンドバッグを掴んで立ち上がる。
 口元を覆ったまま席と席の間を足早に行き、店を出たところにある化粧室に駆け込んだ。しんと静まり返った空間に忙しないヒールの音を響かせながら個室に入ると、便器に顔を突っ込む勢いで屈み込む。えづくばかりで胃からは何も出ず、彼女は荒い呼吸の合間に何度も咳き込み唾を吐いた。
 肘に引っ掛けていたハンドバッグが手首の方までずりおちる。ぐらぐらと揺れる体で立ち上がったが歩き出せず、頽れるように便座に座った。太腿に両肘をつき俯くと、ハンカチを口に当てて深呼吸する。
(落ち着いて……大丈夫、そんなはずない……大丈夫……)
 胸の奥、呪文のように同じ言葉を繰り返しながら唇をきつく噛む。
 震える膝に力を入れ立ち上がろうとしたそのとき、ヒールを履いた足に激痛がはしった。視線を落としてみれば、靴擦れを起こしたらしく踵の部分が赤く染まっている。彼女は疲れ切った表情のまま、緩慢な動作でペーパーを巻き取りその血を拭った。
 傷の痛みに耐え、おぼつかない足取りで個室を出る。幸いなことに洗面台には誰もいない。
 淡い灯りを受けて鏡に浮かび上がる顔は虚ろで、完全に生気を失っている。眼鏡の奥の目は血走り、唇は青白く……髪も乱れてひどいありさまだ。彼女は手と口を洗い、震える指でハンドバッグを開ける。コーラルベージュのリップスティックを取り出すと、わななく唇に色をのせた。
 席に戻ると、料理を前にしたシュンヤが指先でテーブルを叩きながら待っている。
「どうした?体調悪いのか?」
「ううん、大丈夫」貼りつけたような笑顔と共に明るく言い、「待たせてごめんね。食べましょう」
 胸のむかつきは治まってきたが、彼女の顔色は冴えない。全身の肌が粟立ち、額には冷たい汗が滲んでいる。
 食事を味わう余裕などなかった。目の前でひっきりなしにしゃべるシュンヤの声も、まるで厚い膜越しに聞いているかのようにくぐもっている。
 チカルは紙のように白い顔で目の前の男をぼんやりと見つめた。
 彼は――普段は機微に聡い男だが、いちど没頭してしまうと周りが見えなくなる節がある。いまもチカルを正面から見つめているが、その両目には映っていない。彼女の様子がおかしいことにも気付かず、夢中で政治や経済の話を続けている。自分の言葉に酔い、持論を熱く語る滑稽な姿を眺めながら、チカルはこの時間が早く過ぎ去るよう祈った。しかしそういうときに限って、時の歩みはじれったいほど遅いものだ。
 食事を終えて店を出ると、少し前を歩いていた彼がゆっくりと振り向いた。
「部屋とってあるから」
 言って、上を指差す。チカルの反応を待たずにその手を絡め取り、閉まりかけているエレベーターに引き込んだ。ふたりしか乗っていない箱が静かに動き始めると、シュンヤは彼女を抱き寄せる。髪に指を差し込み、優しく梳いた。
「おまえにしてはちゃんとした格好で来たじゃん」彼は目を細めて笑う。「メガネは外して欲しかったけど」
 再び込み上げてきた吐き気をぐっと堪えて、チカルは引きつった笑みだけを返す。
 この腹部の不快感の原因は食中毒や感染症が原因ではないかもしれない……その考えが頭をよぎったのは、トイレでえづいている最中だった。
 便器に顔を埋め苦しく喘ぎながら、彼女はふと気づいたのだ。予定日をとっくに過ぎているにもかかわらず、生理がきていないことに。そして、それが懐妊の可能性を示唆していることに……
 最後にシュンヤと肌を重ねたのは前回の生理が終わってすこししてからだと記憶している。風呂あがりにくつろいでいたところを組み敷かれ、抵抗むなしく犯された。彼は最近、滅多に避妊具をつけてくれない。ピルがどうしても体に合わず服用できないため必ずつけてくれと頼んでいるにもかかわらずだ。
 突然の吐き気が意味するものを想像し、チカルはほとんど無意識に下腹に手を当てた。
 ――もし本当に“いる”としたら?
 予感が的中した先に続く人生を思い、足元が崩れるような錯覚に襲われる。彼女の動揺は今やピークに達していた。
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