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本編
第204話
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ドラッグストアで買った安いスティックコンシーラーとファンデーションで額や目の下の青痣を隠したチカルは、ボストンバッグを手にカプセルホテルを出た。
今日は金曜日。先日出会った女から金土の宿泊料が高いことを聞いた彼女は、アドバイス通り今朝チェックアウトし、今夜から週末にかけては女がくれたクーポンが利用できるホテルに宿泊することにした。できれば一か所を拠点として行動したかったが、少しでも出費を抑えるためなら仕方がない。
この日も朝から一日中、家探しに奔走した。ここ数日、たくさんの不動産会社を周ったが、これといった物件はなかなか見つからない。
仕事がら都心にアクセスしやすいエリアにあるアパートを探していたが……交通の便が良く手頃な家賃の部屋は、進学や就職で東京にやってくる若者たちがすでに契約を済ませてしまっていた。考えてみれば新生活で大忙しの春だ。時期が悪すぎる。
結局なんの収穫もなく、くたびれた体を引きずって暮れなずむ空の下に出た。肩を落としたまま歩いていると、焦燥感に押しつぶされそうになる。
道に迷いつつ、きのう女からもらったクーポンが使用できるカプセルホテルまでやっとのことで辿りついた。そこは賑やかな繁華街のど真ん中にあるが、館内は別世界かと思うほど静かだ。料金表は掲示されていない。本当にネットで調べた通りの金額で宿泊できるのだろうかと不安に思いながら、チカルはロビーの奥へと歩みを進めた。
この状況下では、名も知らない女がくれたクーポン券が頼りである。しわを伸ばしたそれを躊躇いがちにフロントに出すと、スタッフはにこやかな顔で受け取り「ご利用ありがとうございます」と愛想よく口にした。しかし、券に目を通した瞬間こまったような顔になり、
「お客様……大変申し訳ございません。こちら、有効期限が切れております」
「え」
思わず間抜けな声を出してクーポンを確認すると、確かに去年の12月となっている。申し訳なさと恥ずかしさに縮こまって、謝罪しながら何度も頭を下げた。
泣きっ面に蜂だ――胸中で独り言ちる。すぐにでも逃げ出したいくらいであったが、夜の歓楽街をもう一度さ迷うのをためらい、すがるように尋ねた。
「クーポンを使用しない場合はお幾らになりますか?」
「お持ちでない場合は、一泊5000円です。女性専用フロアは満室となっておりますので、男女混合フロアのご案内となります」
完全に予算オーバーなうえに、女性専用フロアも満室とは……チカルは即決できずに視線をさまよわせる。このあたりはお世辞にも治安がいいとはいえない。鍵のかけられないカプセルユニットの中で男の気配を感じながら眠るのはやはり抵抗感がある。
彼女は宿泊をあきらめ、耳まで赤くなっているのを感じながら表に出た。ぎらぎら輝く歓楽街を足早に通り抜け、新宿駅東口の煌々とした灯りの元で他のクーポン券を調べたが、すべて期限切れだ。
もらったときにどうして確認しなかったのかと自分を責めながら、券を財布からすべて取り出す。そのとき、シュンヤと撮った写真がレシートのあいだに挟まっているのが目にとまった。
彼女は二つ折りになったそれを開き、青白い顔で見つめる。やがて下唇をきつく噛み締めたかと思うと折り目から真っ二つにそれを裂き、さらに細かくちぎった。彼女の胸に、感傷はいっさいなかった。乾いた瞳のままゴミ箱に近づくと、期限切れのクーポンと共に捨てた。
この辺りのカプセルホテルをいくつかスマホで調べたが、週末とあってかなかなか空室が見つからない。すこし駅から離れているカプセルホテルも、数日前から学生割引キャンペーンが開催されているせいかこの時間ですでに満室となっており、彼女は途方に暮れた。
電車に乗って移動することも考えたが、どこも同じくらいの宿泊料だろうと思うと行動する元気も湧いてこない。昼間の疲れがどっと押し寄せてくるのを感じながら、彼女は再び歩き出す。
思えば、昼からなにも食べていない。ファストフード店ならばゆっくり休憩できるうえ食事代も安く済むだろうとは思ったが、胃もたれがしそうでやめた。30代後半に差し掛かったあたりからこの手の食事を重く感じるようになった気がする。それになにより、今は大口を開けてものを食べられそうにない。
迷った末にファミリーレストランに入り、消化のよさそうな雑炊とドリンクバーを注文する。ここは明るく安全で24時間営業だが、ドリンクバー片手に一晩居座る図々しさは持ち合わせておらず、客で混雑してきたのを見て店を出た。それから灯りを求めて入ったコンビニエンスストアで飲み物を買い、イートインスペースですこし休んだあと、またあてどなく街をさまよった。
どれだけ歩いただろう、スマホの時計を確認すると午前1時になろうとしていた。どこか休める場所はないかと周囲を見渡した時、ネットカフェの看板が偶然視界に入る。盲点だった……ホテル以外にもゆっくりと夜を明かせる場所があるじゃないか。
鍵付きの個室で3時間1200円。今からだと午前4時に退室することになるが、その30分後には山手線の始発が動き出す。彼女は新宿を離れるつもりだった。最初に泊まった場所に戻ったら、クーポン券をくれたあの女と鉢合わせるかもしれない。そのときどんな顔をしたらいいかわからなかった。
店内は利用客で込み合っていたが、幸いなことに個室が一部屋だけ残っていた。
ネットカフェに入るのは初めてだ。ほっとしたせいか先ほどまでの疲れを忘れ、本棚が並ぶ施設内を見渡す。ぐるりと一周し、気になっていたマンガを数冊とドリンクを手に部屋に入った。狭いものの床には厚めのマットが敷かれており、丸まれば横になれる。
彼女は薄暗い中に光るパソコン画面の前に座ると、不動産情報を調べた。アパートが見つかるまで、こうしてネットカフェを転々として暮らすのも手かもしれない。
音が鳴らないようマナーモードにしてからアラームをかけて横たわり、マンガを読んでいるうちにいつのまにか眠っていた。
3時半に目を覚ましたチカルはシャワーブースで身を清め、ネットカフェを後にする。
夜のにおいが残る新宿の街のひそやかな息遣いの中、足元に落ちる影を踏みながらひとり歩いていく。耳に嵌めたイヤホンからは、タビトの歌声が聴こえている。
池袋方面行の電車は、まだ5時前というのに驚くほど混雑している。大学生と思しき青年たち、指を絡ませて密着しているカップル。嘔吐物でワイシャツの胸元を汚しているサラリーマンは座席にぐったりと身を任せて眠っている。旅行にでも行くのだろうか、バックパックを背負い、大きなスーツケースを転がしている女もいた。
チカルは乗降口付近に立ち、流れ去る街並みを眺める。漠然と不安だったが、不幸とは思わなかった。
ボストンバッグの重さを手に感じながら、彼女はタビトの歌声に合わせてちいさく口を動かす。東京の狭い空を見つめる艶やかな双眸を、のぼる朝陽が照らしていた。
今日は金曜日。先日出会った女から金土の宿泊料が高いことを聞いた彼女は、アドバイス通り今朝チェックアウトし、今夜から週末にかけては女がくれたクーポンが利用できるホテルに宿泊することにした。できれば一か所を拠点として行動したかったが、少しでも出費を抑えるためなら仕方がない。
この日も朝から一日中、家探しに奔走した。ここ数日、たくさんの不動産会社を周ったが、これといった物件はなかなか見つからない。
仕事がら都心にアクセスしやすいエリアにあるアパートを探していたが……交通の便が良く手頃な家賃の部屋は、進学や就職で東京にやってくる若者たちがすでに契約を済ませてしまっていた。考えてみれば新生活で大忙しの春だ。時期が悪すぎる。
結局なんの収穫もなく、くたびれた体を引きずって暮れなずむ空の下に出た。肩を落としたまま歩いていると、焦燥感に押しつぶされそうになる。
道に迷いつつ、きのう女からもらったクーポンが使用できるカプセルホテルまでやっとのことで辿りついた。そこは賑やかな繁華街のど真ん中にあるが、館内は別世界かと思うほど静かだ。料金表は掲示されていない。本当にネットで調べた通りの金額で宿泊できるのだろうかと不安に思いながら、チカルはロビーの奥へと歩みを進めた。
この状況下では、名も知らない女がくれたクーポン券が頼りである。しわを伸ばしたそれを躊躇いがちにフロントに出すと、スタッフはにこやかな顔で受け取り「ご利用ありがとうございます」と愛想よく口にした。しかし、券に目を通した瞬間こまったような顔になり、
「お客様……大変申し訳ございません。こちら、有効期限が切れております」
「え」
思わず間抜けな声を出してクーポンを確認すると、確かに去年の12月となっている。申し訳なさと恥ずかしさに縮こまって、謝罪しながら何度も頭を下げた。
泣きっ面に蜂だ――胸中で独り言ちる。すぐにでも逃げ出したいくらいであったが、夜の歓楽街をもう一度さ迷うのをためらい、すがるように尋ねた。
「クーポンを使用しない場合はお幾らになりますか?」
「お持ちでない場合は、一泊5000円です。女性専用フロアは満室となっておりますので、男女混合フロアのご案内となります」
完全に予算オーバーなうえに、女性専用フロアも満室とは……チカルは即決できずに視線をさまよわせる。このあたりはお世辞にも治安がいいとはいえない。鍵のかけられないカプセルユニットの中で男の気配を感じながら眠るのはやはり抵抗感がある。
彼女は宿泊をあきらめ、耳まで赤くなっているのを感じながら表に出た。ぎらぎら輝く歓楽街を足早に通り抜け、新宿駅東口の煌々とした灯りの元で他のクーポン券を調べたが、すべて期限切れだ。
もらったときにどうして確認しなかったのかと自分を責めながら、券を財布からすべて取り出す。そのとき、シュンヤと撮った写真がレシートのあいだに挟まっているのが目にとまった。
彼女は二つ折りになったそれを開き、青白い顔で見つめる。やがて下唇をきつく噛み締めたかと思うと折り目から真っ二つにそれを裂き、さらに細かくちぎった。彼女の胸に、感傷はいっさいなかった。乾いた瞳のままゴミ箱に近づくと、期限切れのクーポンと共に捨てた。
この辺りのカプセルホテルをいくつかスマホで調べたが、週末とあってかなかなか空室が見つからない。すこし駅から離れているカプセルホテルも、数日前から学生割引キャンペーンが開催されているせいかこの時間ですでに満室となっており、彼女は途方に暮れた。
電車に乗って移動することも考えたが、どこも同じくらいの宿泊料だろうと思うと行動する元気も湧いてこない。昼間の疲れがどっと押し寄せてくるのを感じながら、彼女は再び歩き出す。
思えば、昼からなにも食べていない。ファストフード店ならばゆっくり休憩できるうえ食事代も安く済むだろうとは思ったが、胃もたれがしそうでやめた。30代後半に差し掛かったあたりからこの手の食事を重く感じるようになった気がする。それになにより、今は大口を開けてものを食べられそうにない。
迷った末にファミリーレストランに入り、消化のよさそうな雑炊とドリンクバーを注文する。ここは明るく安全で24時間営業だが、ドリンクバー片手に一晩居座る図々しさは持ち合わせておらず、客で混雑してきたのを見て店を出た。それから灯りを求めて入ったコンビニエンスストアで飲み物を買い、イートインスペースですこし休んだあと、またあてどなく街をさまよった。
どれだけ歩いただろう、スマホの時計を確認すると午前1時になろうとしていた。どこか休める場所はないかと周囲を見渡した時、ネットカフェの看板が偶然視界に入る。盲点だった……ホテル以外にもゆっくりと夜を明かせる場所があるじゃないか。
鍵付きの個室で3時間1200円。今からだと午前4時に退室することになるが、その30分後には山手線の始発が動き出す。彼女は新宿を離れるつもりだった。最初に泊まった場所に戻ったら、クーポン券をくれたあの女と鉢合わせるかもしれない。そのときどんな顔をしたらいいかわからなかった。
店内は利用客で込み合っていたが、幸いなことに個室が一部屋だけ残っていた。
ネットカフェに入るのは初めてだ。ほっとしたせいか先ほどまでの疲れを忘れ、本棚が並ぶ施設内を見渡す。ぐるりと一周し、気になっていたマンガを数冊とドリンクを手に部屋に入った。狭いものの床には厚めのマットが敷かれており、丸まれば横になれる。
彼女は薄暗い中に光るパソコン画面の前に座ると、不動産情報を調べた。アパートが見つかるまで、こうしてネットカフェを転々として暮らすのも手かもしれない。
音が鳴らないようマナーモードにしてからアラームをかけて横たわり、マンガを読んでいるうちにいつのまにか眠っていた。
3時半に目を覚ましたチカルはシャワーブースで身を清め、ネットカフェを後にする。
夜のにおいが残る新宿の街のひそやかな息遣いの中、足元に落ちる影を踏みながらひとり歩いていく。耳に嵌めたイヤホンからは、タビトの歌声が聴こえている。
池袋方面行の電車は、まだ5時前というのに驚くほど混雑している。大学生と思しき青年たち、指を絡ませて密着しているカップル。嘔吐物でワイシャツの胸元を汚しているサラリーマンは座席にぐったりと身を任せて眠っている。旅行にでも行くのだろうか、バックパックを背負い、大きなスーツケースを転がしている女もいた。
チカルは乗降口付近に立ち、流れ去る街並みを眺める。漠然と不安だったが、不幸とは思わなかった。
ボストンバッグの重さを手に感じながら、彼女はタビトの歌声に合わせてちいさく口を動かす。東京の狭い空を見つめる艶やかな双眸を、のぼる朝陽が照らしていた。
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